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ネリムは貴族の生まれだった。
小さくはないが、大きくもない。そんな辺境の領地を治める侯爵の父親と、名のある子爵の娘から嫁いだ母。
嫡男がいて姉もいる。
後継者争いが起こるほど豊かな土地でもなく、欲深い家族でもなかった。
そのおかげで円満な家庭が築かれていた。
「そろそろ国立騎士育成学園か、宮立公官学舎に行くか、あるいは家にいるか、選ばないといけないね」
父親がネリムに問いかける。
ネリムも十二を数える歳となり、人生の分岐路に立っていた。
だが、両親は家庭教師を付けることなく、ネリムを自分たちの手で育てていた。そのため、ネリムには人生について深く考える余地がなかった。
自然と「学校は面倒くさい」という認識がおぼろげに脳裏を過った。
「家にいてもいい?」
ネリムは甘えるように言った。
それが楽であると信じていたのだ。
両親は頷いて、ネリムが家にいることを歓迎した。
その返答をネリムは喜んだが、二年が経ってから一変する。
「聞いてないっ! なんで結婚しないといけないの!」
「お、おいおい……父さんを困らせないでくれ……それに相手だって良い人じゃないか。見てみなさい、この絵を」
父親がネリムに見せたのは一枚の絵だった。
白馬に乗った好青年の姿が描かれている。
凛々しく整った顔立ちに、貴婦人たちの噂も絶えないことだろう。
しかし、ネリムは唾棄せんばかりの顔だ。
「パーティーで会ったことあるじゃないの! その絵とは真反対の顔だったし! とんでもないブサイクだったじゃん!」
かつて、どこぞの大貴族が主催したパーティー。
国の果てから果てまで各地の貴族が集まっており、ネリムも参加していた。
彼女の華やかな姿は注目の的であった。
こうして父親が紹介してきた青年も、注目していた一人であったのだ。
だが、ネリムの方も記憶力があった。
その男性が自分の好みではないと断じていたことを覚えていた。憚らずに言うのであれば醜悪な部類に入る容姿であったことも。
「……あのなぁ」
父親がため息交じりに続ける。
「おまえは学校に行かなかったんだ。そうなれば必然的に嫁ぐしかやれることがないだろう。おまえは十四になった。なのに何ができる? 学問も分からなければ剣も握れないだろう」
それは正論であった。
だが、そう仕向けなかったのも父親である。
自分の人生について考えなかったネリムにも責任はあるが、父親の発言に矛盾があることを直感して苛立ちを見せた。
「じゃあ家から出ていく!」
売り言葉に買い言葉。
少なくとも計画性のあるものではなかった。
「好きにしなさい!」
父親も分からず屋の娘をしかりつける。どうせ何もできず家に帰ってくるだろうと高を括っていたからだった。
ネリムは部屋から金目の物と先祖代々の剣を持って家を出ていくことになる。
それから身体の赴くまま安全な都市から離れていったのだった。
夕暮れ。
もう月夜が照らす時間まで近い。
(……やっぱり帰ろうかな)
背後を振り返る。
暗闇が空の半分を呑み込んでいたが、ネリムのいた都市だけは盛大に明るかった。
ほんの少しの誘惑がネリムの胸元に過る。
ここで帰っていれば――あるいは未来の大陸の勢力図は変わっていたかもしれない。
(ううん、このまま帰ってもシャクだし!)
ネリムが家から持ち出した剣を握って森の獣道に入る。
行き先はない。
計画がないのだから当たり前だ。
ふと、足に違和感を覚えた。
(いてて……)
ネリムが大木に腰かける。
それからハイヒールを脱いで足の状態を確認した。
(赤くなってる。この靴だと失敗だったかな)
ハイヒールは険しい道を歩くには非常に不向きだ。
熟練者に聞けば大失敗だと嘲笑われるくらいに。
だが、ネリムは気づけない。
森を歩く際に装備が重視されることなど知らないからだ。
ましてや、今ネリムのいる森が魔物も徘徊する危険な場所であることさえ知らなかったのだ。
(ここどこだろ?)
ネリムは比較的大人しい性格だった。
それゆえ、父親も手を焼くことはなかった。
今回の結婚も、ネリムが嫌悪感を抱くほどの顔つきでなければ、あるいはすんなりと受け入れられていたかもしれない。
父親にしてみても、そのように考えていたために、予想外の反撃を喰らったことに動揺して怒りに任せてしまったのだ。
とはいえ、それはもう過ぎたことであった。
帰らないネリムを心配した母親の説得もあり、父親は私兵を方々に向かわせてネリムを探させたが、ついぞネリムを見つけることはなかった。
これが将来を大きく変える出来事になるとは知らず、ネリムは目の前のことしか頭になかった。
(あ――)
風がそよいだ。
最初はそんな錯覚だった。
しかし、左腕にじんわりと暖かい痛みを感じると、それが何かからの攻撃であると理解せざるを得なかった。
『ガルルル……!』
涎を本能のままに垂れながらして、一匹の魔物がネリムを見ていた。
黒く艶やかな毛はそれなりの金額で取引されている。
だが、大型犬ほどの身体しかなく、危険度に見合うほどの稼ぎは得られない。
Dランク・ブラックウルフ。
一匹だけで動く孤高の魔物だが、闇に紛れる毛色としなやかな身体を持つ優秀な夜のハンターだ。
「あぅ……くっ!」
ネリムは魔物の名前さえ知らなかった。
咄嗟に剣を抜けたのは、家を出る際に怒った反動で頭が冷えていたからだ。
ネリムの敵意を見て、ブラックウルフは一瞬でけりを付けようとして動き出す。
前足で大きく飛び上がり、ネリムの首元に飛びつく。
首をへし折れば御の字。
そうでなくとも体制を崩してやろうというのだ。
ハンターとしては的確な判断ともいえる。
それにネリムは明らかに弱そうな雰囲気を醸し出していた。傍から見ても失敗する可能性は限りなく薄い。
しかし、今こそ本能は警鐘を鳴らすべきであった。
だが、誰が責めることができるだろうか。
まさか、それが後に【歴代最強の剣聖】と呼ばれるほどの少女であったとは知る由もないのだから。
(――っ!)
誰にも真似できないからこそ天賦の才なのだ。
太陽が完全に消えたばかりで、夜目にすら慣れていない状況。
いきなり襲われて怯むはずの環境。
泣き出したくなるほどの痛み。
何よりも剣を握ることは初めてだった。
森に行くのにハイヒールを履いているような少女である。
さらにいえば圧倒的とまでいえる経験差があったはずなのだ。
それでいて、なお。
――ネリムはブラックウルフの顎から頭蓋を貫いてみせた。
『クォっ……』
悲鳴ともつかない声を漏らしてブラックウルフが絶命する。
期せずも、それがネリムの初の戦闘であったと同時に、初の勝利でもあった。
偶然であっただろうか。
いいや、それは必然だった。
ネリムの目は魔物の動きを捉えていた。
剣を握る身体は神経の一本までも制御の下にあった。
生まれながらにして持っていたのだ。強者たる才能を。
だが、ネリムが気づいたのは数拍してからだった。
「……あれ?」
視界が下がる。
腰が抜けていた。
かたん、と魔物を串刺しにしている剣が地面に落ちた。
(私が殺したの?)
何か、言い知れぬ涙が流れた。
罪悪感が大部分を占めているが、感触の気持ち悪さや、誰にも助けてもらえない絶望感がない交ぜになった結果、頭の中で混乱が生まれている。
しかし、休まる暇はない。
血の匂いにつられた夜行性の獰猛な獣たちが牙を剥いてネリムに襲い掛かるのだから。
朝になっても生きていたのは、ひとえに彼女の素質が開花したからだろう。