第88話 シンシアの秘策
抜け道は光のない暗闇の世界だったが、部屋のランプを使うことで進むことができた。
中は思ったよりも広い。
2人で横並びにはなれないけど、立ったままで進めるくらいのスペースはある。
私はこんな通路の事なんか知らない。
10年以上住み慣れた城なのに、歩いたことはもちろん、1度として聞いたことすら無かったのだ。
それを何故、一介のメイドでしかないシンシアが知っているのか。
どうにも不思議でならなかった。
「ねぇ。どうしてあなたは抜け道の事を知っていたの?」
「あ、うーん。噂っていうか、人伝に聞いたんですよぉ」
「私でさえ知らないのに、その人はどうやって知ったの? もしかして実際に歩いたの?」
「え、あ、うーん。これは言っちゃって良いんですかねぇ?」
歯切れが随分と悪い。
その反応が私の気持ちをより固めていく。
そもそも、お互いに隠し事をするような間柄でもない。
「教えてってば。それとも、何か気がかりな事でもあるの?」
「ええとですね……。前王さまですけどぉ、その、お妃さまを亡くされてだいぶ経ちますよね?」
「まぁ、そうね。私が6歳の時だったから」
「そんでもって、再婚はされませんでしたよね?」
「私はあれから色んな女性と会わされたけど、毎回泣いて抵抗したわ。『この人はお母様なんかじゃない!』ってね。そのせいじゃないかしら」
「姫さまはお父さまに溺愛されてましたもんねぇ。涙の訴えを見て諦めたんでしょう」
「うん……。それでさ、この話がどう関係するの?」
「あぁーー。言っちゃって良いのかなぁ、ダメかなぁ……」
いよいよシンシアの応答が怪しくなる。
痺れを切らした私は、彼女の弱点を攻めることにした。
首の付け根にある窪みを指先で弄ぶ。
こうすると、大抵は無条件降伏をしてくれるのだ。
「お願いシンシア、この通りだから」
「うひっ! うけっ! やめ、やめてくださいぃ!」
「じゃあ教えてくれるわね?」
「……わかりましたよぉ。強引なんだから」
「だって気になるじゃない」
「ええと……さっきの理由から、前王さまは周りに女の人は置きませんでした。側室みたいな肩書きの人すら居ませんでしたね」
「もちろんよ。お父様は完璧なの。女性についても目移りする事なく、生涯でお母様ひとりだけを愛したのよ」
「それがですねぇ。殿方ってぇもんは、どうしようもなくムラムラするんですわ。ムラムラの悶々で何も手が付かなくなるくらいに」
「そうなの? でも再婚はされなかったわ。2人の愛は死をもってしても引き裂く事ができなかった。本当に立派で、自慢の父上だわ」
「……おねえちゃん遊びはしてたんですよねぇ。この通路を使って」
「嘘でしょ!?」
「クソババ……もとい、メイド長が自慢してましたもん。この道の事も、どれほど優しく食べられたかについても」
「ええーーッ!?」
目の前が一層暗くなる想いだった。
あのお父様が、誠実で聡明なお父様が、まさか浮気をしていただなんて。
ムラムラ悶々としていただなんて、信じられない。
自分の理想像に、致命的なヒビが入ったような気がした。
なぜなら、断片的な記憶が肯定したから。
夜なれば、やたらに早く寝かしつけようとした事も今になって合点がいく。
「まだ眠くない」と反抗すると「それは昼間に運動していないからさ」などと言って、聞き入れてはくれなかった。
それも夜遊びが理由だったということか。
……お父様のバカ。
悶々モンスター。
「まぁまぁ。そんなに目くじら立てないでくださいよ。前王さまはそりゃもう、大変にお優しいお方だったんですからぁ」
「こんな風にコソコソとしてたのが嫌。だったら堂々と宣言してくれた方がマシよ」
「じゃあ、面と向かって言われてたら許しました?」
「全力で軽蔑したと思う」
「そりゃあ理不尽な話ですねぇ」
カラカラというシンシアの笑い声が通路の中に響く。
笑われるのも無理はないのか。
確かに客観的に考えれば、お父様に理想を押し付けているような気もする。
それでも父だ。
誰よりも高潔で、志の高い人だった。
それなのに女遊びにかまけていたとは、考えたくもなかった。
そうやって葛藤している間も歩みは止めなかった。
自分の呻き声、そして2人の足音だけが辺りに反響している。
そうしていると、不意にシンシアが足を止めた。
彼女は頭を動かして奥を見ようとするが、後ろに立つ私には状況把握ができない。
「姫さまぁ、外の明かりが見えます。そろそろ出口ですよぉ」
「ねぇシンシア。その『姫様』ってのやめない?」
「どうしてです?」
「だって、これから街中を通って、外周門を通過しなくちゃいけないのよ? 折角変装したのに、姫呼ばわりされたら意味無いわ」
「それもそうですね。じゃあアダ名で呼びます?」
「いいけど……何かある?」
「レーちゃんとか、レジィとか」
「うーん。それだと元の名前を連想させちゃいそうね」
「ええと、だったら『夜の棒大好きッ子』とかどうです? これなら名前を連想しようが無い……」
「レジィにしましょ。それが良いわ」
「でも、それだとバレる……」
「私レジィだから、よろしく!」
この話はヤメ。
どんなに効果的な策だろうと、越えちゃいけない一線というものはある。
そもそも何さ、夜の棒って。
絶対に卑猥な意味しかないだろうに。
シンシアの両肩を押して光の方へ向かう。
出口にはすぐたどり着いた。
そこには入り口と同じく梯子があり、頭上からは隙間から光の筋が降りているのが見える。
きっと蓋のようなもので塞がれているんだろう。
「夜のぼう……レジィはここで待っててくださいね。一足先に安全を確認してくるんで」
「う、うん。お願いね」
わざとらしい言い間違えの後、彼女は梯子を昇っていった。
そして蓋をずらし、しばらく様子を眺めた。
やがて、その身を向こう側へと滑らせて行った。
「大丈夫です、誰もいませんよぉ」
「良かった。じゃあ早いとこ出ましょ」
物音に気遣いつつ、私も続いて外に出た。
眩しい。
土の臭い。
久しぶりの太陽は目に刺さるけど、それがとても尊いものに思えた。
そして空気も澱んでなくて、胸に心地よい。
「あぁ……何日ぶりかしら。こうして外に出られたのは」
「レジィ、ここはまだ王都ですから。気を抜かないでくださいね」
「分かってるわ。ところで、ここはどこかしら?」
「街の外れですね。出るなら西門が一番近道ですけど」
「そうね。だったらそこから出ましょう」
「わかりました。それから、街の人たちのことは気にしないでくださいね?」
「え? えぇ……」
シンシアの言葉の真意はすぐにわかった。
西門へ行くために大通りの端を通ったのだけど、街は例の噂で持ちきりなのだ。
ーー私とミノルを貶すもので。
特に私への中傷が激しいようだ。
道端で集まる婦人たちが、日向ぼっこをするご老人たちが、酒で顔を赤く染めた男たちと、すれ違う者みんなが口汚く罵るのだ。
「姫様の話聞いた? 男に騙されたんだって。やっぱり苦労を知らないお嬢ちゃんはダメねぇ」
「公爵様がどうにか洗脳を解こうとしてるらしいけど、上手くいってないのかしら。早いところ正気に戻って、国のために働いて欲しいもんだわ」
「全く世も末じゃ。王家がよりにもよって人外の力を借りようとは。ミレイア人としての誇りを捨ててしまったのか」
「祖先の霊に申し訳が立たんだろうに。前王は優れたお方だが、育て方を間違えたのう」
「あの姫は偽物だぁーー! 今のうちに手を打たないと、後悔することになるぞぉーー!」
酷い。
ともかく言いたい放題だ。
私たちがどれだけの危機を乗り越えて、大森林にたどり着いたと思うのか。
天啓とも言える幸運によりミノルを味方にし、遂には国を取り戻したというのに、その功績はなぜ忘れ去られたのか。
何かの誤解があったとしても、これでは余りにも苦労が報われない。
自然と足が速まっていく。
「レジィ……気にしないでくださいね?」
「大丈夫よ。急ぎましょう」
「きっとみんな怖いんですよ。ミノルさまって、とんでもなくお強いから。その気持ちが悪い方向に向かっちゃってるだけで……」
「究明は後回しよ。さぁ早く」
「……わかりましたぁ」
やがて門にたどり着いた。
開いてはいるが、当然ながら門番がいる。
守りは計4人。
強引に突破するよりも、堂々と通り抜けた方が良さそうだ。
「良いですね、変な動きをしちゃダメですからね?」
「わかってるわよ。他の人に続いて抜けましょう」
それなりに往来はある。
目立ってしまわないよう、顔をうつ向かせ、荷馬車のすぐ後ろを歩いた。
「そこの……女。止まれ」
声がかけられた。
気づかない振りをして行こうとしたけど、腕を掴まれてしまった。
「お前だ。女だな? なぜ男の格好をしている?」
「メイド、お前もだ。制服を着たままでどこへ行く。公務か?」
「ええ、そうなんですよぉ。クソババァ……メイド長に頼まれましてぇー」
「そんな話は聞いてない。2人とも奥で話を聞かせて貰おうか」
まずい。
このままだと間違いなく身元が割れてしまう。
シンシアもこれには慌てて……などはいなかった。
小狡そうにニタリと笑い、胸元をまさぐり始めたのだ。
そして取りだしたのは小さな袋だった。
「おい、それは何だ?」
「気になりますぅ? ちょっとだけ見てみますぅ?」
「……なっ!? それは、お豆様ではないか!」
「そうでーす、アズキちゃんなのでぇーす」
「お前! それをどうしようと言うのだ!」
周りの兵士が青ざめた顔で剣を抜いた。
体の自由は戻ったけど、状況は悪化している。
果たしてシンシアに秘策はあるんだろうか。
口を挟まずに、ともかく成り行きを見守る事にした。
「どうするか、ですかぁ? それはねぇ……」
「よせ、バカな真似をするんじゃない!」
「拾えやオラァーーッ!」
「あぁ!? 何てバチ当たりな!」
シンシアは口の空いた袋を大きく振り回した。
勢いよく飛び出したアズキが辺りに舞う。
衛兵たちは一斉に四つん這いになり、懸命にそれ拾おうとする。
でも足元は石畳だ。
小さな隙間に入り込んだりして、上手く拾いきる事が出来ていない。
「レジィ!」
「そうね。今のうちに逃げましょう!」
「ま、待て貴様ら! 止まれぇーー!」
どうにか西門を突破できた。
だけど、まだ安心はできない。
これでは逃亡者も同然だから、すぐにも追っ手が差し向けられるだろう。
今は逃げられる所まで行くしかない。
「あぁどうしよう。すぐに騎兵が飛んできますよぉ!」
「ともかく遠くへ! 山伝いに逃げるわよ!」
「ヤバイヤバイ、人生最大の危機ですよ畜生……うん?」
「どうかした!?」
「そうだったぁー! こんな時はコレだぁ!」
シンシアが突然石を空に投げ上げた。
するとすぐに、空には強烈な赤い光が走った。
これは救難石だ。
今ので私たちの窮地を知って貰えたかもしれない。
「よしっ、これでミノルさまには伝わりましたよ!」
「すぐに助けに来てくれるかしら?」
「そこまではちょっと……。今ごろ寝てるかもしれないし、そもそも怒ってて見捨てられるかもしれないし」
「……助けに来てくれると信じましょう」
追っ手の動きは早かった。
まだ距離はあるにせよ、馬蹄の音が間近にまで迫っている。
追い付かれてしまうのも時間の問題だろう。
「そこの2人、止まれ! 止まらんと射つぞ!」
騎兵の男が叫ぶ。
もちろん立ち止まったりはしない。
助けが来ることを信じて、全力で駆け続けた。
次の一瞬、その次の一瞬まで。
「警告はした! 者ども放てぇ!」
追っ手は馬を走らせながら弓を射ってきた。
体を、耳の側を恐ろしい音が突き抜けていく。
一矢でも当たれば致命傷になるかもしれない。
そんな不安を頭の済みに追いやりつつ、それからも駆け続けた。
体に浅傷がひとつ、またひとつと付けられる。
それでもひたすら、一歩でも前へ。
「あぁッ!」
「姫さま!?」
ここで遂に命運が尽きる。
右肩が燃えるように熱い。
放たれたうちの一本が、とうとう突き刺さってしまった。
「シンシア、あなただけでも逃げて……」
「嫌ですよぉ! 姫さまを置いてだなんて、絶対に嫌です!」
追っ手が迫る。
5人の男達は勝ち誇った顔をしていた。
逃げたい。
あの村に帰りたい。
心の叫びに反して、足は震えるばかりだ。
肩の痛みが強く、立ち上がる事すら出来なかった。
「手間をかけさせおって。捕らえよ!」
「……うん? 何だあれは!?」
男たちが全員空を見上げた。
私も釣られてそちらを見る。
太陽は高く、逆光だ。
それでも辛うじて視認することが出来た。
空を優雅に飛び回る、馬の腹らしきものが。




