積もる焦燥、募る苛立ち。
大河内はそう言って立ち上がると、壁に並んだ本棚から一冊の本を持ってきた。
「とりあえず、アオイ君も察しがついてるだろうけど、この世界は僕たちがいた世界と言葉が違うから」
だからこれね。大河内は俺に本を手渡して笑った。
「この世界の言葉を使った教科書。元の世界の英語の教科書を見ながら作ったから、割としっかりしてるはずだよ」
確かに、パッと見た感じではイラストや中身の構成はあっちの世界の英語の教科書に似ている。しかし、「ミケ」って……。
俺が受け取ってざっと眺めたのを確認すると、大河内はまた口を開いた。
「それを見て勉強してくれ、と言いたいところだけど、さすがに一人だとキツイものがあるだろう?」
違いないと頷く。
「そこでだ。先生を一人用意したから、彼女から教わってくれないかな。頭はいいはずだから間違いはないと思うよ」
彼女?女性なのだろうか。トカゲ野郎、もといゲンゴロウの奥さんだという彼女か。秋葉楓ということはあるまい。
「そうですね。教えてくれる人がいるのなら助かります」
とりあえず頭を下げておく。
しかし、俺が勉強をする意味があるのだろうか。一か月後には帰るというのに。
「それじゃあ、今日はこれぐらいだね。アオイ君も色々とあって疲れてるだろうから、今日はもう休みなよ」
「休むって、どこで?」
俺の疑問に大河内は上を指さすことで答えた。上。上。上ってのはあの陰気な部屋か。
少し逡巡した後、答えに辿り着いた俺は思わず顔を顰めた。
そんな俺を見て大河内は笑った。
「宿に泊まるには金がかかるし、それに言葉も通じないんじゃ大変だろう?それに比べたらあそこはまだマシだと思うよ」
まあ、世話になる以上文句は言えないのだが。
「お世話になります」
俺は大人しく頭を下げた。まあ、何だ。ここで波風立てたところで得など何一つない。平穏と安寧を望むのならば、黙って大人しく一か月後を待つべきだろう。
これからよろしく。大河内はそう笑うと、僕はこれから用があるからと、そそくさとどこかへと消えて行った。
さて、俺はどうするべきだろうか。
気づけば秋葉楓もモモも飽きたのかどこかへと消えている。
独り地下の一室に取り残された俺は、とりあえず、痺れた足を解すために大河内が座っていた椅子へと腰を下ろした。
ああ、どうしよう。何を?分からない。分からない?何が?
ヤバい。落ち着いたせいか頭の中が混乱してくる。落ち着け、俺。
息を吸って、息を吐く。地下室の淀んだような空気が肺を通り、内心の焦燥と混ざり合って肺を抜けていく。
とりあえず、上に行こう。
俺は立ち上がると、もう一度深呼吸をして、ゆっくりと上へと繋がる梯子へと足を向けた。
*
「あのー」
上で休めと言われても、さすがに無断で休むのはどうかと思った俺は、ゲンゴロウの奥さんであるマリアか、あるいは最悪ゲンゴロウでも、誰かいないだろうかと酒場に顔を出した。
白い光が目に飛び込んでくる。続いて喧騒が。
ゲンゴロウに連れられてやって来た時とは全く違う景色がそこに広まっていた。
「あら、どうしたの?」
ぼうっと立ち尽くす俺に、横からマリアが声をかけてきた。
「ここで休めって……」
開けっ放しの扉を指さしながら口を開くと、マリアが慈愛にも似た笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。ゆっくり休んでね」
あれが母性というものなのだろうか。ゲンゴロウには相応しくない気もする。
俺はマリアに頭を下げると、喧騒から逃げるように部屋へと戻った。暗い室内に入り、ベッドに体を投げると、俺はゆっくりと目を瞑った。
暗い世界は否応なく頭の中を加速させる。
これから一か月。俺はまともに生きていけるのだろうか。大河内たちはなぜ俺に部屋まで貸して、この世界の言葉まで教えようというのだろうか。あっちに帰ったら、俺はどうなるのだろうか。あっちでは俺は今、どう扱われているのだろうか。
止め処なく溢れてくる疑問が、疑念が、目まぐるしく頭の中で交差して、ついぞ俺の不安や焦燥を掻き立てる。
同じ日本人だからだろうか。だから俺を助けるのだろうか。
こんな世界で?
同じ日本人だからという、ただそれだけを理由に訳の分からない世界で慈善事業じみたことをする?そんな馬鹿な話があるのだろうか。
俺なら……、俺ならどうするだろうか。
そこまで考えて、俺は俺を笑った。
俺がそんなことする訳がない。自分の負担になってまでそんな面倒なことをして、俺に何の意味があるというのだろうか。
感謝?
そんな一銭の価値にもならないもののために?大河内はそれを二年も続けているというのだろうか。あるいは他に目的があるのだろうか。例えば、例えば……。
徐々にと積もる煩慮は、しようのない苛立ちへと姿を変えて、全身を駆け巡る。
思わず、俺はベッドを拳で叩きつけた。
明日もこの時間に。
ちなみに大河内は呼び捨てになった。今までの分はいずれ直す予定。