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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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ブチ抜きトマト

作者: ほっけ

 このアパート部屋の主人、トモヒロ君は、とにかく赤が好きであった。というよりは、トマトを狂ったように愛している。好きな料理は、ミネストローネ、ナポリタン、ケチャップライス、そして、トマトラーメン。そう、トマトラーメン。このラーメンを旨く作れるのはおれ以上にいないらしく、そのおかげで、おれは辛うじて路上生活を回避できている。

 相沢雄二郎、四十手前、バツイチ、首ちょんぱリーマン、ただいま絶賛ヒモニート中。

 飼い主はタダトモヒロ君。トマト気狂い、平日はインテリアコーディネーター、休日は画家として夢を追いかけ続けている、最近の若者にしては根性のある青年である。

 衣食住を提供してもらい、歳の差こそあれぴたりと馬が合う。そんなトモヒロ君には頭が上がらない。だが、ちょっとこれはいかがなものか。

 すっ裸の状態で、せんべい座布団の上に、切腹直前の武士のような体勢を強いられている、三時間も前から。

 平日の真夜中、油絵の具の臭いがたちこめるのを避けるために、ベランダの窓が全開だ。冬の冷たい風邪が裸体に直撃してくる。

 デッサンではなく、直接カンバスに絵の具を塗り重ねていく。トモヒロ君の瞳は酒のせいだろう、相当危なっかしい目付きになっているものの、研ぎ澄まされた真剣そのもので、その緊迫した空気を壊すなんて、とてもじゃないが出来ない。

 夕飯の下ごしらえを済ました後、いつもより帰宅が遅いトモヒロ君を、炬燵でぬくぬくして待っていた。冬の炬燵。最高に心地よい眠りを満喫していると、突如、乱暴に炬燵から引きずり出された。泥酔したまま帰宅した、トモヒロ君だった。


「脱げよ、雄二郎」


 服がひん剥かれていく。酒臭い息使いがあまりにセクシーだったため、抵抗も忘れてされるがままになっていた。普段トモヒロ君は赤面ものの優しさでおれを抱くが、そんな余裕は微塵もない、切羽詰まった尖った荒々しさだった。正直、おれは一瞬で勃起した。

 一枚残らず布が取り払われ、唇に噛みつかれた。熱に浮かされながらトモヒロ君を見つめる。今なら何をされても気持ちよくなれそうだ、期待を込めて。途端、すっと離れていくトモヒロ君。雑にカンバスと画材を取り出して、おれにポーズだけを簡単に指示し、創作に熱中してしまったのだ。

 夜風に曝され、すっかり萎んでしまった己の息子さんに目を向ける。今ならお預けをくらったワンコの気持ちが痛いほど分かる。ちょっと涙が出てきたぞ。

 しかし、それでもトモヒロ君に怒りや不満は沸いてこない。カンバスの向こうから、おれをチラッと見る、その視線が一番格好いいのだ、彼は。

 天然パーマの少しうざったい黒髪を、雀のしっぽのように雑に黒ゴムで結んでいる。口周辺にうっすら生えはじめた無精ヒゲ。野暮な容姿がまったく気にならない、むしろ、それが似合う渋味を感じさせる。そこに童顔がうまく共存し、好青年な男前になっているのだ。

 女性にもモテなくはない、聞いたところストレートだった彼が、なぜか、おれのような干からびたオッサンを飼っている。しかも、自らの絵画のモデルに抜擢して。勿体ない。彼のような芸術家になら是非ヌードを描いてもらいたい、うら若き乙女が多数いるだろうに。だが、実際そうなってトモヒロ君の部屋から追い出されることになれば、死活問題だ。やっぱり嫌だ。


「ごめん、雄二郎さん。寒かったでしょう?」

「……あ、もう、終わったん?」

「まあ。途中で失敗したんで、やめときますわ。乱暴してごめんなさい。今日、酔いすぎちゃったみたいで」


 ふわりと毛布を掛けられる。部屋にエアコンの暖かな風が満ちはじめていた。色々考え込んでいるうちに創作は終了していようだ。

 毛布の上からトモヒロ君に抱きしめられる。酔いが覚めてきているのだろう、いつもの優しい眼差しで、何度もごめんねを繰り返し言ってくれる。別にいいのになあ、逆に欲情していたおれの方が恥ずかしい奴じゃないか。それよりも珍しく酔っ払って帰宅したトモヒロ君が心配だった。


「トモヒロ君、どしたの?」

「今日現場に行ったら、そこの室内装飾の職人さんに、すごく怒られて。オマエみたいな若造は現場を知らない甘ちゃんやって」


 お洒落な空間で図面を書いたり、パソコンを操作しているようなスタイリッシュなお仕事とはまた違うらしく、たまにこうやって、トモヒロ君は落ち込んでしまう。今日のように、お酒でベロベロになることは少ないけれども。


「久しぶりに、反骨精神というか、こんちくしょう! ってなって、創作意欲をね、ぐわっと、ぶつけてみたんです……」

「けど、失敗したんや?」

「そ。雄二郎さん見てたら、気持ちが和んで。この人、ヘンな格好してて、ほんま可愛いなーって。ゆるゆるに」


 あほう、それ、君が指示したポーズやからね。

 剥ぎとられた服を身に付けながら、トモヒロ君の顔面に平手を一発くれてやる。それなのに嬉しそうにニヤニヤするのだ、この青年は。


「雄二郎さん、お腹空きました。いつもの作ってくださいよ」

「こんな夜中に食ったら胃もたれすんで? いける?」

「大丈夫ですよ、毎朝のトマトジュース一気飲みで、健康には気をつけてますもん」

「……おう、せやな」


 小さなキッチンの傍ら、トマトジュースのお買い得用段ボールが異様に積み重なっている。一リットル近いペットボトルを朝イチでがぶ飲みするのがトモヒロ君の日課だ。今でこそ慣れたものの、当初は絶句したものだ。なんでコイツはトマトばっかしなんやと。

 夜食を作ってやるために段ボールから一本引き抜いた。これは調味料としても優秀だ。

 リクエストはトマトラーメン。鍋に少しオリーブオイルをたらし、冷蔵庫にあった手頃な野菜やベーコンを刻んでさっと火を通す。それから、インスタントの塩ラーメンを煮込む時、水のかわりに、トマトジュースを用いてやると、本格的なお味になるのだ。どんぶり鉢に塩ラーメンもとを半分だけ入れる。こうしないと、味が塩分そのものになってしまう。トモヒロ君は濃い味が好きだが、やっぱり体には良くない。ラーメンを長箸でほぐし、どんぶりに盛り付けて、すぐさま完成した。


「ああ、めっちゃ、うまそ……!」


 ちゃぶ台にスタンバイしたトモヒロ君が、両手をすりすりして浮かれている。作ってやる度にこの様子だ。童顔でもあるトモヒロ君はとても成人男性に見えない。この反応が楽しみになっている、おれも大概だと思うが。


「ほら、これ食ったら、さっさと風呂入って寝り。もう日付変わってもてるし」

「はい! 分かってますって! あー、やっぱ、雄二郎さんのラーメン、最高やあ。うんまー! 生きててよかったァ……」


 お手軽料理だが、ここまで喜んで、旨いと言いながら食べてくれる人間がいると、温かな気持ちで、おれまで腹が満たされてくる。もっとトモヒロ君に旨い料理を食わせてやりたくなる。

 一度すっからかんになって、ゴミ屑になっていたおれを拾ってくれ、ささやかな生きがいまでも与えてくれたのだ、彼は。

 こそばゆい幸せに浸れる時間が、あとどれぐらい続くのかは分からない。だが、トモヒロ君がトマトラーメンに飽きるまでは、少なくとも一緒にいてくれるだろう。また、新アレンジでも試してみるか。

 残ったスープまで美味しそうにすすっているトモヒロ君を横目で見ると、頬が勝手に持ち上がってしまう。一足早く、一枚しかない布団に潜ってやる。毛布にくるまり、あくびをした。トモヒロ君が風呂から上がる頃には、冷たい布団が体温であったかくなっていますように。




 翌朝、案の定、風邪を引いてしまって布団で丸くなって震えることになってしまった。裸体に夜風が響いたのか、おかげで腹の調子も絶不調だ。

 元気よく起床しトマトジュースを飲み干していたトモヒロ君だったが、おれが熱で唸っているのを見付けた途端、謝り倒した上、有休を取って看病すると言いはった。もちろんやめさせた。昨日職人さんに手厳しく怒られ、しょげて休んだと思われるかもしれない。第一、トモヒロ君に看病されなければいけないほど、おれはヤワじゃない。

 渋々出掛けて行ったトモヒロ君を見送ってから、布団を動いていない。時間を見るために携帯電話を開けるとメールが一件。


   具合は良くなりましたか?

   定時にあがれるようバリバリ働いてますからね!

   安静にしててください。

   何か食べたいものあれば帰り買っていきますよって。


 優しい子だ。ほんとうに。

 熱のせいで心まで弱っているようで、涙腺が刺激されてしまった。体調を気遣うメールなど、随分久しぶりに貰うと、こんなに嬉しいものなのか。

 メールの返事を簡単に作る。体調はなんとか大丈夫なこと、やわらかプリンが食べたいこと。

 昼過ぎの今、トモヒロ君が帰宅するまで、あと六時間はかかりそうだ。もう一眠りするのがいいだろう。ふらふらトイレに行ってから、枕元に置かれてあったトマトジュースを半分飲んで、また、布団にもぐる。さっきより寒さが減っている。トモヒロ君にはやく会いたい。



*****



 薄暗い真っ赤な空間だった。

 聞き慣れないピコピコとした音楽が木造の壁に反響している。お酒とタバコに加えて弱くアンモニアの臭いも漂ってくるよう。皮がはがれてぼろになった椅子、所々爪痕のあるカウンターに突っ伏して酔い潰れ、口からは言葉に成りきれなかったひしゃげた音がこぼれている。

 ああ、この日のことは良く覚えている。飲み屋やバーが密集している雑居ビル群、芸術家肌の若者とやさぐれた社会人が安い酒を求めて集う、異様でありつつ居心地の良い空間のお店で、おれの希望が拾い上げられた日だったから。


「テキーラ、もっかい……」

「おじさぁん、もうアンタには飲ませられへんて」

「るせぇなおれはまだまだあったく酔ってないっちゅうねん? 早く酒よこそんせぇれーや!らあああ!」

「……第一アンタ金持ってないやろ。昨日のお会計も済んでないんやし」


 店番をしているスタッフが顎髭を弄りながら溜め息を出す。大きなフレームの眼鏡の奥の瞳は面倒臭そうに、おれを視界に入れるのを極力避けている。三つ席を空けて飲んでいる若者グループに睨み付けられもした。


 これ以上文句を言うと店から追い出されかねない。宿無しのおれにとっては、酒を飲み続けなくても朝まで居させて貰えるこの店は貴重だった。自分の腕を枕にしてカウンターに再び横になる。

 ピコピコ音楽が終わり、どこかで聞いたことのあるゆったりとしたロック音楽に切り替わった。ボーカルの甘ったるい歌声は英語で歌詞が理解できなくて、曲調とは反対に刺々しく暴れまわりたい衝動に駆られはじめた時だった。お店のドアが開いて、間抜けなベルがちりりんと鳴った。


「おー。トモ、久しぶりや」

「今日ウナ君の日なんやあ。嬉しいな。ほんま久しぶり!」


 若いスーツ姿の男がにこやかに入ってきた。社会人にしては重たい黒髪であるが、前髪からのぞく横顔はなかなか精悍な顔立ちをしている。男は若者グループとも軽く挨拶を交わしてから、おれの隣の席に座った。


「あなたは、はじめましてですよね?」

「……だれだよおまえ」

「あ、すいません。俺はトモヒロって言います。半年前まではここの常連でスタッフやったんですよ。真っ赤な空間が素敵で」


 整った顔のくせに、くしゃっとした笑顔を向けられて毒気をすっかり抜かれてしまう。


「やめとけ。このオッサン色々と面倒やで」

「大丈夫、悪い人やないでしょ。よく来てはるの?」

「雄二郎さん。最近ここらで酒浸りしとる。失業して金も尽きてもーたのにな」


 スタッフにこう紹介されると、話し掛けてきた者は居心地悪そうにおれを見なかったことにするのだ。どうせこの男もそうだ。クズには誰しも関わりたくないだろう。しかし、ゆっくりと手が伸びてきて握手されてしまった。


「それは……お疲れ様です。一杯奢らせて貰えませんか?」


 握られたままの手と、男の顔の間で視線を何度も往復させる。訳が分からない。若い女の子ならまだしも、こんなオッサン相手に酒を奢るという神経が理解できなかった。まさか、下心を抱くとも考えられない。なんだこの状況。よく分からないが、彼の手はとても優しかった。


「スクリュートマト二つで」

「……なんやそれ」

「スクリュードライバーのオレンジをトマトにしたもんです。うまいですよ」


 はいはいブラッディ・マリーのことね、とウナ君とやらが苦笑しながらお酒を作ってくれた。乾杯をしてからスクリュートマトを数口。ただのトマトジュースの味しかしない。一気に飲み干してやった。

 やはりアルコール。しばらくすると目がぐるぐるする。酔った。赤色がまぶたに引っ付いて、離れてくれない。時折緑色が混じってギュルギュル回転していく。

 そして、プツンと視界が暗転。


 真っ黒だった空に少しずつ青みが射してきている。始発の電車はもう動き始めただろうか。

 雑居ビルの階段に座り込み、トモヒロ君に差し出されたミネラルウォーターのペットボトルをがぶ飲みした。頭の内側からじくじくと刺す痛みになぶられ、今にも嘔吐する最悪の気分が続いている。繰り返しのリバースで、もう透明な胃液しか出なくなっているのに。


「すいません、俺が飲ましすぎましたね……」


 背中を擦りながら心配そうに声を掛けられ、小さく首を横にふる。トモヒロ君に非は無かったのだ。

 真っ赤なお店で意気投合し、その後、トモヒロ君の奢りで飲み屋界隈をハシゴし、ノンストップで浴びるように飲酒しまくったおれが完全に悪いのだ。一時間前まで完全に意識がトリップしていたが、吐きはじめてから徐々に記憶が蘇ってきていた。

 トモヒロ君は酔っぱらいの戯れ言に文句を言わずに相槌をうち、それに安心したおれは、今までの転落ぶりをすべて話したのだった。

 妻と別居が続いていたこと、会社の経営が悪化し首を真っ先に切られたこと、これが決定打で離婚されたこと、家から追い出されて宿無しになり、ビジネスホテルに泊まる金も惜しいほど飲んだくれ、とうとう一門無しになった……という経緯を。

 誰かに打ち明けて、少しでもいいから慰めて欲しかったのだ。寂しくて虚しくて気が狂いそうな状態から掬い上げて欲しかったのだ。それをいとも簡単にトモヒロ君はやってのけた。隣で話を聞き、すべて話終えた時には、黙っておれを抱き締めてくれた。嬉し涙、鼻水、よだれでぐちゃぐちゃの顔を拭って。

 加えて、現在。おれの汚物がスーツに付着しながらも、丁寧にずっと介抱してくれている。恩人にゲロを吹っかけるという大失態。酔いは完全に覚めたものの、冷や汗がだらだらと流れている。申し訳なくて何度土下座しても謝り切れないほどだ。


「雄二郎さん、少し動かします」

「……え、そんなん、……悪いって、自分で歩ける、し」

「駄目です、階段から転げ落ちて死ぬで? ほら、掴まって」


 強制的におんぶされ、一段ずつ下っていく。ビルから抜けると朝帰りの客を狙ったタクシーが巡回していた。トモヒロ君がおれを背負ったまま一台止めて、二人でタクシーに転がり込む。トモヒロ君が運転手に行き先を告げながら、コンビニのビニール袋を口に当て、窓もすぐさま全開にする。


「とりあえず俺の家まで運ばせてもらいます。このままだとお店の方達に迷惑かかってまうし」

「ええって、これ以上トモヒロ君に、悪いって」

「何言ってんすか。このまま放っておく方が、俺にとって悪いことですわ。見捨てるなんて。最後まで面倒見ますので。もう、寝るなり、黙っとってください」


 有無を言わせない強い言葉でたしなめられると、何も反論できない。ぐるぐるする不快感を必死で堪えて、トモヒロ君のスーツの袖を握っているしかなかった。

 アパートの前に着くと再びおんぶされ、トモヒロ君の部屋まで連れていかれた。鍵を取り出すために、どすんと廊下に落とされる。腰を擦っていると腕を握られ部屋に引っ張り入れられた。鍵を閉めると靴や汚れた衣服がどんどん脱がされ、下着まで取り払われた。裸にされてしまった。おれを見て一度頷いた。非情に気まずい。


「あの、これは一体……?」


 部屋の奥に入っていったトモヒロ君は振り向きはしたものの、返事はなかった。しばらくして、シャワーの音が響いてくる。何か間違いが起こる前に逃げるべきなのだろうか。しかし、身体が重くて芋虫のように転がることしかできない。

 シャワーを浴び終わったトモヒロ君が水を滴らせながら玄関に戻ってきた。彼も裸だ。ドラマの俳優みたく絵になる姿に見惚れていると、腰から抱き抱えられ、風呂場に連行されてしまう。もう、逃げ場は無くなった。


「……何を勘違いしとるんか知らんけど」

「えっ? あっあっ、見やんとって!」


 笑いながら指差されたアソコが勃っていた。手で隠し狼狽えていると、いきなり冷水のシャワーを全身に被せられる。冷たさに身をよじると押さえ込まれて、シャンプーで頭をごしごし洗われる。身体も石鹸で同様に。いやらしさとは無縁の、まるで、ペットの犬を洗うかのよう。仕上げにタオルでしっかり水分を拭き取られた。

 風呂から出ると、トモヒロ君の部屋着が用意されていて、着替えを促される。もうされるがままだ。水を被ったおかげで吐き気がおさまり、あとはひたすら眠いだけだった。


「俺は今から仕事なんで。帰ってくるまで大人しくしとって?」

「ん……分かった」


 布団に寝かしつけられた時には、別のスーツに着替えて出勤仕様になったトモヒロ君。うとうとしていた瞼を閉じた時、髪を撫でられた気がする。とにかく眠くて何も考えたくなかった。重たい身体じゅうが睡魔に惹きつけられていく。遠くで鍵が閉まる音を聞いていた。



*****



「……じろうさ、ゆうじろうさん、雄二郎さん!」


 肩のあたりを揺さぶられる。焦ったようなトモヒロ君の声がだんだんはっきりと聞き取れるようになってきた。ゆっくりと瞼を持ち上げる。至近距離でのおれを覗き込んでいたトモヒロ君と目があった。


「起こしちゃってすいません。うなされてたもんやから、心配になってもて」

「おかえり。物凄くリアルな夢を見ててもうて。トモヒロ君とはじめて会った日の」

「そりゃあそうなるな」


 ニヤニヤと頷かれた。コンビニの袋から取り出し、あの日と同じミネラルウォーターを手渡された。思わずこっちまで吹き出してしまう。二人で見つめ合って腹を抱えて笑った。

 タダ酒で酔い倒し、嘔吐の連続、お持ち帰りされて勝手に興奮する……、夢で見たところまででもいい年の大人の行動としては恥ずかしすぎる。そのあと、トモヒロ君が帰宅した瞬間に今までの寂しさが一気に爆発し、彼にしがみついて無言で涙を流し続け、トモヒロ君が唇にキスしてくれたおかげで泣き止み、それから何となくこの家にお世話になることになってしまったのだ。我ながら目も当てられない経緯である。


「もう具合は大丈夫そうですね。そんな元気に笑ってられるんなら」

「まだ若干だるいけど、もう一晩ってとこやな」


 本当に良かった安心したと、とろけるような笑みを浮かべられ、すっぽり頭から抱き込まれる。あたたかなトモヒロ君の体温を感じる。おれも背中に腕を回しぎゅうぎゅうにくっついてやった。しばらくしてからトモヒロ君の力が緩んで、顔を持ち上げられて視線が合った。ああ、目をつぶれば甘ったるい口づけが貰えるのだろう。

 お互いに瞼を閉じかけた瞬間だった。ぐぎゅるる、おれの腹の虫が我慢ならぬと、盛大に鳴いてしまった。そういえば、トマトジュースを飲んだっきりで、朝から食べ物らしきものは取っていなかった。カーテンを閉めていない窓の外は日が沈んで暗くなりはじめている。意識しはじめると尋常ではない空腹感に襲われた。


「……すんません」

「ははは! 雄二郎さんにはかなわんなあ。晩御飯にしましょっか。今日は俺が料理しますよって」


 トモヒロ君が料理?

 かなり嫌な予感がした。家に住み込んでいる言い訳の一つとして、彼の料理はどことなく前衛芸術で見ていられないからであった。危なっかしい手つきでブツ切りにした材料を大胆な組み合わせで鍋に放り込み、感性で調味料を好きなだけ投入する。火加減なんてのは気分で強火にしたり、いきなり弱火にしたりする。彼にとっての沸騰は鍋から水分が吹きこぼれることで、コンロまわりがべしょべしょになってしまう。まぐれで美味しいものが出来上がることもあるが、大抵のものはおれの平凡なお口では理解できないものになってしまうのだ。

 おれの不服そうな反応を見ていたトモヒロ君が、得意げに取り出した。『話題沸騰! トマト尽くしのお手軽レシピ百選』。この際トマトなのは目をつぶろう。ちゃんと料理本を買う気になった点を評価してやりたい。


「ちゃんとこれ通りに作りますから、ね。安心してゆっくりしてて」


 ばちんとウインクをかまされたので、もう何も言うまい。いつもトモヒロ君が嬉々として料理を待ち構えるちゃぶ台の前に座る。楽しさ半分不安半分で。しばらく後姿の様子を見ていたところ野菜がごんごん音を立てて切られてはいるが、レシピを何度も見ているようで、まともな材料がキッチンに並んでいた。これならば、大丈夫そうだ。リモコンを操作してテレビを付けると世界の旅番組が流れていた。これを見ながら料理の完成を待つことにしよう。


「うまい! うまいでこれ! トモヒロ君もやれば出来るやん!」

「俺もこれは成功やなあと。本当は魚のアラ入れたろう思うたんですけどね、レシピに無いしやめときました」


 トモヒロ君が作ってくれたのは野菜たっぷりのミネストローネ風リゾットだ。トマトジュースとコンソメをたっぷりと吸って柔らかくなったご飯が絶品かつ、お腹にやさしいのでいくらでも食べられそうだ。今までの最高傑作が、マヨネーズとツナ缶をあえたものをホールトマトにのせただけの、火と包丁を使わないものだったので、それに比べると大躍進である。


「今日、仕事でいいことあったんです」

「どしたん?」

「昨日、俺を叱った職人さんに、現場のこともふまえた新しいアイデア出してみたんです。そしたら、兄ちゃんやるな見直したでって。名前も覚えてくれて、今度から会社抜きの仕事回してくれそうなんですよ」

「そりゃすごいやんか。おめでとう」


 弱気になったり、朝のように周りが見えなくなったりすることも時々あるが、やっぱりトモヒロ君はしっかりした青年である。本人も誇らしげにしていて、ポジティブで常に前進していこうとする姿が格好いい。近くでいればいるほど、魅力的な人間で、きっとこれから彼は多くの人に愛されて明るい未来を歩んでいくのだろう。そうなって欲しい。

 リゾットをすすりながらトモヒロ君を見る。ちょうどテレビ番組の特集がスペイン観光に切り替わったところで、身を乗り出して画面に食い入っていた。こんな愛嬌のある所も本当に愛くるしい。


「やっぱスペイン最高ですね。赤いし。トマトめっちゃ食べれそうだし。うまそうなんだよなあ。おお! トマト祭り! 俺死ぬまでに絶対参加しますよコレ!」


 画面を指さしながらキラキラの少年の目でこっちを見てくる。


「そんなに好きなら旅行してみたら? 節約したら、トモヒロ君の一人旅分なんてすぐに貯まるで」

「それはちょっと、ちゃうんよね。俺、画家で成功したら、将来はスペインに永住するつもりなんで、その時まで楽しみにしておきたいっていうか」


 画面から目を逸らしておれに視線を向ける。はじめて聞いたトモヒロ君の夢。いつになく真剣でありながらも希望で胸がいっぱいの顔つきをしている。彼ならばやり遂げるだろう。たとえ長い期間、困難で恵まれない時期が来ようとも。


「トモヒロ君なら大丈夫や。立派になったトモヒロ君を空港で見送れる日を楽しみにしとるからな」


 おれはいつまで彼の傍にいれるのだろう、おんぶにだっこ状態の中年ダメ親父なんて、ずるずるとお荷物になっていくだけなのではないか。彼とおれは、進むべき道が明暗できっぱりと分けられているのではないか。胸が締め付けられるように痛い。それでも彼の幸せを願う気持ちの方が断然勝る。


「何言ってるんですか。雄二郎さん、あなたも一緒に行くんですよ? ほら、スペインって同性結婚出来るんですから、向こうでなら式も挙げれるかもやしな」

「……はい?」

「……え? あ、あれ? 俺、うわっ! 流れで言ってもーて。大事なことですよね?」


 茹でたタコのように真っ赤になりながらトモヒロ君は尋ねる。なぜ疑問形なのだ。というか、話がまったく見えない、同性結婚? 誰と誰がだ?


「どういうことでございましょうか。多田様。私めにはいささか難解なことでございまして」

「しゃべり方、ヘン! 雄二郎さんしっかりして!」

「そんっなこと言われても! てか、おれのこと好きなの? てか、おれらって付き合ってたっけ?」

「は? 喧嘩売ってんかこのヤロウ。何を今さら、大好きに決まってるやん! じゃなきゃゲロったおっさんと同棲したりセックスできるかバカ! それぐらい分かれ!」

「分かるわけないやん! 好きやって言ってもらったこともなかったのに何が結婚やねん意味わからんわ、アホたれ!」


 お互いに肩でぜえぜえと息をする。大声を出すトモヒロ君ははじめてだった。喧嘩腰で会話するのも。こんな状態でするべきではない単語が勢い任せに聞こえたのが非常にもったいない。信じられない。


「なに泣いとんの雄二郎さん」

「だって、嘘やあ。トモヒロ君がおれのこと結婚したいぐらい、ぐずっ。好きやとか。おれのどこがええねんな、こんなオッサンのお」

「……それが分かってたらもっと簡単に好きって言えてました。なんでか飲み潰れてたときから、放っておかれんくて」

「まさかの一目惚れ?」


 瞳に涙を溜めたトモヒロ君が一度、小さく頷いた。それを見ておれはまた涙があふれてくると同時に、鼻水がつまって息苦しかった。なんやこれ。告白とプロポーズを一緒にされた、盆と正月がいっぺんに来てしまったようで、しかも順序が逆だという。ムードの破片もない。トモヒロ君がティッシュを取ってくれたので、それで鼻をちーんとかむ。トモヒロ君もティッシュで目を拭っている。


「まだ先のことですけど、いつになるか分からないですけど、俺についてきてくれますか?」

「うん。いいで」

「えらい軽くないですかその返事。人がせっかく勇気を振り絞ったちゅーのに」

「びっくりしてもて。いきなり気のきいたことなんて思い浮かぶワケないやん!」

「まあ、ええか。ともかく、これからもよろしくお願いします。美味しい料理で俺のこと支えてください」

「料理だけでええの? 他に何かして欲しいことないん?」

「今後にそなえてスペイン語を勉強するか、……ちょっとだけ働いても欲しいですけど」


 トモヒロ君の頬をつねる。分かってるって、そろそろ働こうと思うてたから。そのまま唇に小さなキスを繰り返していると、だんだん口づけが深くなってくる。舌を絡ませて、唇を吸って吸われて。息苦しくなったところでトモヒロ君が離れていく。


「俺、今以上に仕事も絵も頑張りますよって。もっと有名になって成功しますから」


 返事のかわりにもう一度おれから唇を奪ってやる。もっともっと深く。好きだと直える前に、身体でもっと分かりやすく、これだけで気持ちが共有できるように。

 太陽が眩しい広大な農地で、トモヒロ君が愛してやまないトマトを毎日、丹精込めて育てあげる。そのトマトを使ってとびきり美味しい料理を作ってあげる。そんなビジョンがふいに浮かんだ。最高だ。おれにも大きな夢が出来たじゃないか。

 明日、求人広告と駅前留学のパンフレットを取に行こう。足腰が無事に動くのなら。


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