【6】
6
翌朝、ゼクスに起こされて目を覚ました。
「おまえが食いたいって言ったんだろ! 下に用意してもらってっから、とっとと起きて、さっさとメシ食え!」
寝てる私を上から見下ろして怒鳴り付けると、まるで捨てゼリフのように「早くしろよ!」と言い置くと、とっとと部屋から出ていってしまった。
――そういえば昨晩、寝落ちする寸前、『ごはんの時間に起こして』と頼んだような気がする……?
我ながら食い意地が張ってるな…と苦笑しながら、もそもそと起き出して、ベッドの上でぐーっと伸びをする。
ふと窓の外を見れば、まだ日が出ていなかった。早朝特有の薄明りの中、床に下りると、近くに畳まれていた自分の服に袖を通した。
階段を下りて階下へ出ると、やはりそこは昨日いた食堂だった。
相変わらずガランと誰もいない中で、昨日と同じ席に着いていたゼクスが、一人でとっとと食事をしていた。――わざわざ起こしてくれたんなら、待っててくれてもよさそうなもんだろうに。
「おはようございます」
声をかけて彼の前に立つと、改めてこちらを見上げるや否やブッと吹き出される。
「すっげえカオ」
「…どうも、おかげさまでっ」
――そりゃ仕方ないじゃない。昨晩あんだけ泣いたら、顔だって腫れるわよ。
それでも、そうあからさまにからかわれるのには、少しムスッとむくれてしまった。――なんだよ、昨晩はあんなに優しくしてくれたくせに。なんて別人。
胸を貸してくれたことにはヒトコトくらいお礼を言っておこう、とは思っていたのだが、そんな気持ち、今のでサッパリ失せてしまったじゃない。
――ホント、よくわかんないヤツよね……。
諦めて、ひとつタメ息を吐く。
「食事の前に顔を洗って冷やしたいんですが、手洗い場はどこですか?」
「あっち」
指差された方を振り返ると、そこは厨房だった。
「裏口出ると井戸がある。あとは女将にでも聞け」
「ありがとうございます」
そして踵を返すと、厨房へ行って同じことを尋ねる。
そこに居た女将さんに井戸まで案内してもらって、ついでに井戸の使い方も教わって、ようやくサッパリ顔を洗うことが出来た。
しかし井戸水って冷たい。まだ日も出ていない早朝だから、ということもあるだろうが、ホント目が覚める冷たさだ。
ばしゃばしゃ豪快に顔を洗ってから、濡らした手拭いで目元を覆い、しばらくしゃがみ込んだ姿勢のままボーッとしてみる。――ああホント気持ちいいー……。
そうやって、手拭いが温まってきたら、冷たい水で濡らして冷やして、また目元に載せて……を、何度か繰り返しただろうか。
「――つか、てめー何ちんたらやってんだよ!」
しかし、そう時間も経っていないだろうと思うのに、突如として背後から聞こえてきた怒鳴り声によって、一人のまったりとした時間が破られた。
びっくりして振り返ると、戸口に凭れるようにしながら、苛立った様子のゼクスが立っている。
「日の出る前に発たなきゃなんねーってのに、のんびりやってんじゃねえよ! 少しくらい急げよ、このノロマ!」
「ご…ごめんなさいっ……!」
慌てて立ち上がろうとした、それと同時に、「馬鹿かいアンタは!」という大声と共に突然ゼクスの後ろ頭が張り飛ばされた。
「こんな小さな女の子を脅すんじゃないよ!」
えっらい剣幕でそれを言ったのは、いつの間にやら彼の背後に仁王立ちに立っていた、さっき私を井戸まで案内してくれた女将さんだった。
「女性には親切にしてやれって、さんざん教えてやったろう!?」
まったく礼儀を知らない男だねえ、と、呆れたように言って彼を睨み付けると、「ほらアンタは戻った戻った!」と、戸口から彼を追い立ててしまった。――わーお、肝っ玉母さんだ! ステキ!
女将さんは、しばし去ってゆく彼を戸口で見送っていたが、やおら私を振り返った。
「すまなかったね。あのバカ、素直じゃないのよ。あんたと一緒にゴハン食べたい、って自分から言い出せないの」
途端、戸口の奥から「ふざけたホラ吹いてんじゃねえよ!」という怒鳴り声が聞こえてくる。
「ほおぉら、真っ赤になっちゃって、ガキだねえ」
彼には聞こえないよう小声で言ってニヤニヤ笑うその様子から、見えないけれどゼクスのそんな様子が想像されてしまって、思わず声に出して笑ってしまった。
「いいね。あんた笑ってりゃ可愛いんだから。あんな口が悪いだけの男の言うことなんて気にせずに、嫌なこと全部、笑い飛ばしちまいなよ」
「はい、そうします」
この腫れぼったい顔は、さすがに誰が見ても泣き明かしたことがバレバレだったらしい。おそらく気を遣ってくれたのだろう女将さんの言葉に、私も笑顔で応えてみせた。
「もう大丈夫です、ご心配かけてすみません。あと、こちらの都合なのに、朝早くから働かせてしまって、こちらも申し訳ありません」
「なあに、客商売だからね、そんなもの慣れっこだよ。すぐ食事を用意するから、あたたかいうちにお食べ。じゃないと、またゼクスにやり込められちまうよ」
「ここ片して、すぐに行きます」
そうして女将さんが引っ込むと、その場に広げた桶やら何やらを片付けて、ようやく私も店の中に戻った。
相変わらずブスッとしながら座っているゼクスの元に戻ると、こっわーとは思いながらも顔の筋肉を総動員させて笑顔を作る。
「お待たせしてすみません」
「…別に待ってねえし」
――だったら、わざわざ呼びに来んじゃねえよ! と言いたい。ものすごく言いたい。
「はいはい、お嬢ちゃん、座った座った!」
そこで背後から、料理を手にした女将さんの声が飛んできた。
ぷうんと美味しそうな匂いが漂ってきて、途端にお腹が空いたと感じる。――とことん胃袋元気だな、私。
「簡単なものしか出せないけど、しっかり食べてきな!」
「はい、ありがとうございますっ!」
いそいそと椅子に座ると、目の前に置かれた料理に向かい、改めて「いただきまーす」と手を合わせる。
目の前の皿には、レタスに似た葉っぱのサラダと、スクランブルエッグらしきもの、それと、フランクフルトソーセージに似た何か、の盛り合わせがてんこ盛り。手元には小ぶりのスープボウル、中身はおそらくコーンポタージュ的なアレ。テーブル中央には籠が置かれており、中にロールパンらしきものが入っている。
これぞ、ザ・ブレックファースト! ってー朝食じゃないの!
私の知っている食材とは味や見た目に少々の差はあるとはいえ、これだけ似ていれば充分だ。
「なんか懐かしいー……嬉しいー……ちょー美味しいー……!」
神殿で出された食事は、美味しかったことには間違いないんだけど、どこか豪華すぎて、庶民の感覚には合わなかったのよね。
ここで摂った昨晩の夕食(?)も早すぎたこともあったのか、ぺこぺこだったお腹は、あっという間に目の前のデカ盛りを平らげてしまった。――我ながらスゴイね、私の食い意地!
「やー満足! ごちそうさまでしたっ!」
そして再び手を合わせると、終わるのを見計らっていたのだろうか、「いい食べっぷりじゃないか」と、女将さんが近付いてくる。
「ホットミルクだよ、飲めるかい?」
「はい、飲めます! 大好きです! いただきます!」
そうして差し出されたカップを受け取って口を付ける。
見た目は白くて同じだけど、私の知る牛乳とは、やはり何だかちょっと違う味がした。ひょっとしたら牛の乳じゃないのかもしれない。でも、気にするほどのものじゃないし、美味しいことにも違いは無い。
「偉いねえ、ミルクを嫌がる子供は多いっていうのに」
「私、好き嫌いとか特にありませんし。それに、いい加減、もう子供って年齢じゃないですから」
傍らに立ち私の頭を撫でてくれていた女将さんが、そこで「おや?」と不思議そうな声を上げた。
「子供じゃない、って……じゃあ、あんた幾つだい?」
ハタチ…と言いかけて、あれ? と思った。
――ここに来る前はハタチだったけど……今もハタチでいいんだろうか?
なにせ、一度死んで生まれ変わったようなモンだしね。享年ハタチで。
若くなってるのか老いてるのか、それすらわからん……外見的には、これといって何も変わっちゃいないとは思うんだけどさ。
とはいえ、これまで二十年とそこら生きてきた人生経験は残ってることだし、そう気にすることもないか、と。
だから私は、「もうハタチ過ぎてますよー」と女将さんに軽く返した。
「なんだって!? てっきり、十二~三歳くらいだと思ってたのに!」
――いや……それはお世辞でもサバ読みすぎだよ、女将さん……。
ひょっとしてアレかな? 欧米人から見ると東洋人が若く見える、っていう、あの現象だろうか。
そういや見たカンジ、この世界の人って欧米人寄りだもんな。髪とか瞳の色とか薄いし、女性でも背がスラッと高くて肉付きも良さそうだしさ。この女将さんも、まだ全然若いし、迫力あるナイスバディだ。
「あんた若づくりだねえ! 羨ましいねえ!」
「私は女将さんの方が羨ましいけど……」
そんな“ぼん・きゅ・ぼん”な迫力ボディを目の前にしてしまったら、なんでもうちょっと大きく育ってくれなかったんだい、と、自分の貧相なバストに恨み事でも言いたくなってしまうじゃないか。
「女将さんみたいに、もうちょっと女らしくなりたかったな」
「やだよ、この子ったら、そんな嬉しがらせることお言いでないよ!」
「えー、本心なのにー」
「はいはい、お世辞として受け取っておくよ」
そう豪快に笑い飛ばしつつ、女将さんが厨房へと去ってしまってから。
改めてホットミルクのカップに口を付けた私は、そこでふと、目の前からの視線を感じた。
食べるのと女将さんとの会話に夢中で、すっかりアウトオブ眼中になってたけど、そういえば向かいの席にはゼクスが居たんだった。
そちらに視線を向けると、途端、ばっちり目が合った。
唐突に、ゼクスの口許がニタリと笑う。
――うわ、何か嫌~な予感……?
そして彼は、何の前触れも無く突然、それを私に告げたのだった。
「さて……じゃあ、昨日の続きといくか。おまえが寝こけてくれた所為で中断したままだったしな」
――って、どこまで粘着質なんだよ、この男……!!
*
――さて、どうしたものか……。
困り果てた私は、思わずタメ息を吐いていた。
しかし目の前の男は、そんな私の様子などドコ吹く風と、相変わらず口許だけニヤつかせながらコチラを見つめてくるのみ。
そうやって、無言のまま私に『話せ』と催促していた。
急いで発たなきゃならないんじゃなかったっけ? ――とか反論しても、聞いちゃくれないんだろうなあ、この様子じゃ……。
きっと、私から“本当の事情”を聞き出すまでは、頑として逃がしてくれないに違いない。
それに昨晩、ウロ憶えだけど、自分が泣きながら何やかやと愚痴ってしまったような気もする。もし万が一、その言葉尻とか掴まれていたら、ヘタに言い逃れしようとしたところで無駄だろう。余計なツッコミを食らって更なる袋小路にハマるだけ、ってなりそうな気がしないでもない。
何を言ったかハッキリ憶えていない分、明らかに私の方に分が悪いでしょ。
となると、時間がかかったらかかった分だけ、私にとって非常に都合も悪くなる、ってーもんじゃないの。
ならば仕方ないと、再び大きく息を吐き、ようやく私も腹を括った。
視線を上げて、改まったように目の前のゼクスを見据える。
「――まず、条件があります」
切り出したと同時、表情は変わらないのに、ゼクスの片眉が上がった。――また今にも『面白いじゃねーか』とか言い出しそうだな。
だから、余計な口を挟まれる前に、さっさと私は次の句を切り出していた。
「私が話すことは、絶対に口外しないでいただきたいんです。あなたの守秘意識の高さは重々承知してますが、それでも口約束では不十分です。ちゃんと私の納得いく方法で、口外しないことを、秘密を守ることを、約束し誓っていただきます。でなければ話せません」
「いいだろう。――で、その誓いの方法とやらは?」
おもむろに私は、無言で胸の高さに右手を拳に握り締めると、小指だけを立てて、目の前の彼へと突き出した。
「…なんだ、それは?」
「まず、同じようにやってください」
訝しげに眉をひそめたゼクスが、私と同じように右手の拳を握り、小指を立てる。
「じゃあ、やり方を説明しますね」
その彼の小指に、自分のそれを絡めた。
「ゆーび切ーり、拳万、嘘つーいたら、針千本、飲ーますっ!」
いきなり絡めた指を振って歌いだした私を、呆気にとられたように見つめられているのがわかる。
しかし、あくまで私は真面目くさった表情で、今度はその解説に映る。
「と、まあ、これは聞いた通りですね。約束した誓いを破ったら、ゲンコツで一万回殴られ、針を千本飲まされることも、覚悟しておけよ、という意味の文言で……」
「そんなのは聞けば分かる。――つか、子供のお遊びか?」
返すゼクスの表情が笑みにも似た形に歪み、からかうかのような色が覗く。――うん、思いっきり馬鹿にしてるだろアンタ?
確かに彼の言う通り、これは確かに子供の遊びだもの。魔術なんかで制約を設けて縛るというワケでもない、これこそ口遊びでしかない誓い。まがりなりにも魔術師である彼ならば、そこに魔術の介在が有るか否かなど、手に取るようにわかっているに違いない。そりゃー馬鹿にされても仕方ないってものか。
彼の様子からそれが感じられ、多少なりともカチーンとはきたけれど。
しかし、あくまでも真面目くさった態度を崩さないまま、「そうですね、ここまでは」と、しれっと私も返してやった。
「子供同士のゴッコ遊びなら、続いて『指、切った』と絡めた小指同士を解けば、ここで成立となります。――でも、そんな子供騙しの誓いを私が望んでいるとでも、思ってます?」
殊更にニッコリ微笑んでやったら、途端ゼクスが、言葉に詰まったかのようにぐっと息を飲んだ。
そこを、すかさずたたみかける。
「当然、正式な作法に則り、指を切り落として私に捧げていただきます」
「なんだって……!?」
案の定、一声あげて絶句するゼクス。
そらそーだろう。さすがに指を切り落とせと言われたら引くよ私だって。――考えてみたら、こんなこと実際にやっちゃう昔の遊女さんとかヤクザ屋さんとか、ホントすごいわ。ド根性、据わりまくりだよね。
とはいえ、ここで私が崩れてはいけない。まさに正念場だ。相手を信じ込ませるなら、どこまでも真剣に尤もらしく、ってね。
あくまでも真面目くさった表情はそのままに、にっこり笑顔も張り付けて、馬鹿丁寧なまでの口調でもって、どこまでも淡々と言葉を続けてやる。
「ゲンコツ一万回、針千本飲ませる、…なんていう、約束破りの罰則で縛るだけなら、そんなもん生ぬるい限りじゃないですか。自らの一部を捧げていただいた上での誓いであればこそ、信じるにも足る真の誓いと呼べるべきでしょう? そこまで見せていただけないと、到底、あなたを信じてお話する気にはなれませんね」
目の前のゼクスは、ただ目を瞠ったまま、まるで硬直したように私を見つめているだけ。
「その覚悟がおありなら、この小指を解いて成立といたしますが? ――幸い、ここは食堂ですし、厨房で肉切り包丁でもお借りすれば、指くらいカンタンに切れますよ?」
「切り落とした指なんて……何に使うんだ、そんなもん……」
ようやっと、という体で聞こえてきた言葉にも、「別に何も」と、軽く私は一蹴する。
「間違えないでください。別に指が欲しいと言っているわけじゃありません。大事なのは、誓いを守ることを指を切り落としてまでも証明する、という鋼鉄の心意気です。切った指なんて要りませんよ、すぐに捨てます」
「捨てる、ってオマエ……!」
「あ、そうそう、あなた魔術師でしたっけ。治癒術が使えるのでしたら、当然、痛みを失くすこととかも出来そうですよね。でも、それじゃ意味ありませんから。切った後の治療のためならば認めますが、事前と最中の魔術の使用は禁止です。痛みに耐えてまで、という最も重要な要素が無いのでは、誓ってもらう意味も無いもの」
「…………」
「それと神殿で聞きましたが、欠損した部位を再生できる魔術なんてのもあるらしいですね? 別に私も鬼じゃありませんから、切り落とした指の再生までは禁じません。ただし、それはこちらの依頼を完遂した後にしていただきます。欠損した指がある、そのことこそ誓いの証ですからね。私と同行している間の再生術は、絶対に許しません。破れば、それこそ拳万と針千本、食らわせます。それと、捧げていただく指は質問一つにつき一本ですから。そのこともお忘れなく」
「…………」
「以上、ご納得いただけるようでしたら、このまま『指、切った』で成約としますが……いかがですか?」
確実な勝算なんて無い。
このゼクスなら、今でこそ驚いたように絶句してるけど、また突然ニヤッと笑って『指の一本や二本、ヘでもねーし』とか言い出してくれやがりそうな気もするし。
彼が引き下がらなかったら、その時は、私も覚悟を決めるつもりだった。――モチロン、彼の指を切り落とす、って覚悟ね。
人間の指を切るなんて初めてだから、絶対に上手くいかないことは間違いないだろうけど……それこそ無駄に痛い目みせちゃうのも確実かもしれないけど……なら、それも最後の脅しにしてやるつもりだった。
万が一、本当に指を欠損させてしまった時は……仕方ない、後からセルディオさんに泣き付いてでも絶対に再生魔術を施してもらおう、と決意する。
「指切りに同意はしていただけない、しかし、どうしても知りたい、と仰られるのであれば……そうですね、神殿へご同行していただければ、神官さん方のご同意のもと、お話も出来るかもしれませんよ」
これは、念のための追加。
昨日、一緒に神殿まで来てくれないかという誘いを頑ななまでに拒否した彼の様子を、思い出したから。
どういう理由でかは知らないけれど、そうまでして神殿に近寄りたくない理由が彼にはありそうだ、と私は踏んだのだ。
痛い想いをしてまで指を差し出すことと、それよりはラクだけど行きたくもない神殿へ赴かなければならない、――なんていう究極の二択であれば、“どちらも選ばない”という第三の選択肢が生まれてくれるかもしれない。
それを期待し、あたかも親切心からの提案に聞こえるよう、作為的に付け加えてみた妥協案だった。
「…さあ、どういたします?」
そして私がにっこりと微笑む。――それと同時。
「――おまえの負けだゼクス、諦めな」
ふいに、がっはっはという豪快な笑い声と共に、そんな野太い声が、背後から響いてきた。
その声の方に振り返ると、そこには大柄で逞しい体躯の、一人の男性が立っていた。
厨房に居た、この店の店主さんだ。――確かゼクスが昨日、『俺の友人だ』とかって言ってたっけ……?
「このお嬢ちゃんの言ってることに嘘は無ェよ、コレッポッチもな。おまえが肯いたら、本気で指切る気だったようだぜ。大した度胸だ」
フとゼクスを振り返ると、彼は憎々しげにチッと舌打ちを洩らしていた。
「俺が読めるのは、ここまで」
――『読める』……?
一体どういうことなのかと、再び店主さんの方を振り仰ぐ。
言った彼はゼクスを真っ直ぐに見据えて、それを続けた。
「どうやら、ワケ有り、ってーのは確かみたいだな。魔術でガッチリ防御されてる。さすがに、これじゃ読めるモンも読めやしねえ」
「しかも、禁呪どころでなく性質が悪いね」
続いて口を挟んだのは女将さん。
どっしり立つ店主さんの背後から、ふいに姿を現した。
「よりにもよって……かけられているのは闇魔術みたいだよ」
「なんだと……!?」
「マジか、それ……!?」
途端、ゼクスと店主さんが、そろって驚きの声を上げる。――うーわー、私一人だけ話が見えてないっぽい……。
「それだけは間違いないね」
女将さんが神妙に一つ頷くと、「どうやら逆らうだけ馬鹿ってモンだ」と、両手を上に上げて“お手上げ”ポーズを取ってみせた。
「余計な詮索はしない方が身のためだろうさ。これを神殿の神官がやったとしたら……そうだね、これほどまでの術を編むも解くも、おそらく神官長クラスの奴でないと無理だろうからね」
「神官長……? ――って、セルディオさん……?」
何気なくポソッと呟いてしまったら、途端、ばっと三人から揃って振り返られてしまった。それも、身まで乗り出す勢いで、かつ、凄まじい形相で。
「会ったのかい、あの銀髪男に!?」
「会いましたけど……皆さん、セルディオさんとお知り合いなんですか……?」
えっらい剣幕の女将さんに少々怯みつつ、間抜けな声で、それを応えてみたところ。
返ってきたのは、三者三様の深々としたタメ息だった。
「知り合いであるハズなんて無いさね……」
「知り合いでなくても、この国で魔術に携わる者なら、きっと誰もが知ってるって」
脱力したような女将さんの言葉を引き取って、そう店主さんが続ける。
「へえ……神官長って、有名人なんですねえ……」
「奴は特別なんだよ」
それを告げたのはゼクスだった。
「よりにもよって滅多にお目にかかれねえ闇属性の魔術師で、持ってる魔力もハンパねえ、っつー人外魔境な奴だからな。しかも、あの容姿に加えて年齢まで不詳とくれば、もはやトコトン人間じゃねえし」
――うん……神官長って国一番の魔術師のよーなもんだっていうしね、魔力が強いってのもわかる気がする。あの美しさを目の当たりにすれば、人間からかけ離れた容姿の持ち主、ってところにも同意できる。美形の常で、年齢不詳ってのもわからないでもない。けど……、
「『ヤミゾクセイ』……? それなに……?」
それだけが、私の頭ではイミフメイ。
思わず訊き返してしまった私の呟きを聞きとめて、そこでゼクスが、「ああ、そういやオマエは知らないんだっけか」と、面倒くさそうにチッと舌打ちをしてみせた。
「面倒くせェから、そこは後から説明してやる」
――って、どこまでもはっきり『面倒くせェ』とか面と向かって言いやがったよ、この男……。
その言い様には、ムカッ腹が立たないでもなかったが。
とりあえずこの場では、口を挟むことは控え、そのまま成り行きを見守るに徹してみることにした。
「とにかく、どうやらこれで繋がった」
どこか憎々しげな表情になった彼が、私を見据えて、それを訊く。
「つまりリーエ、今回の件には、その神官長が関わっているってことで間違いないんだな?」
そこはトボけず、こっくり素直に肯いておく。――そういえばセルディオさん、王と選定者については絶対に口外してはダメだけど、『最悪、わたくしの名前までなら出しても結構です』って言ってたしね。これくらいなら問題はないだろう、うん。
「『関わっている』というか……私を拾って相談に乗ってくださったのが、セルディオさんです」
「なら間違いないな。リーエにその術を施したのも神官長だろう」
まったくホント性質悪ィ、と洩らされた呟きに、他の二人も肯いて同意している。
この場でわかってないのは、やはり私だけみたいだ。
――つか、セルディオさんが何だっていうの? “特別”って、どういうこと? 『ヤミゾクセイ』って、一体ナニ?
いや、それよりも何よりも……、
「――そもそも、まず、あなたたちが一体、何者ですか……?」
「あたしらは、この食堂の店主と女将、ただそれだけのモンだよ。――今は、ね」
「まあ…昔、ちーっとばかりヤンチャはしてたけどなー」
「『ヤンチャ』って……?」
なぁんか元ヤン社会人が言いそうなセリフだなあ…なんて思いながら、その“昔”のことをもう少し掘り下げて訊くべく口を開こうとした、――と同時。
「――もうじき日の出だな」
ふいに差し挟まれたゼクスの言葉で、それは遮られる。
もはや知るべきことは知った、とでも言うかのような彼の纏った雰囲気が、私への関心が失せたことを匂わせていた。どうやらこの場は逃げ切れたらしいと、ひとまず安心。
「そろそろ行くか。人目に付くのも面倒だ」
「あいよ、じゃあ準備すっかねー」
そんな返答をのんびりと返した店主さんが、おもむろに並べてあるテーブルと椅子を、がたがた移動させ始めた。
「え……?」
「おまえジャマだから、あっち行ってろ」
いきなりゼクスに首根っこを掴まれたと思ったら、ぽいっと厨房に放り込まれる。――なんだそれっ……!?
放り込まれたその場から振り返ると、店主さんとゼクスが二人して、テーブルと椅子を移動させているのがわかった。どうやら部屋の四隅へ向けて移動させているようだ。中央に、徐々に何も無い空間が生まれ、床が剥き出しにされていく。
――何する気なの……?
「ほら、お嬢ちゃん。荷物はコレで全部だね?」
いつの間に来ていたのか、女将さんが私の荷物を片手に、傍らで微笑んで立っていた。どうやら二階の部屋まで行って取ってきてくれたらしい。
「あ、ありがとうございます、これだけです」
荷物を受け取りながら礼を言って頭を下げるも……その頭の中はクエスチョンマークで一杯だった。
――つまり、これ……このテーブルセット大移動が、出立の準備、ってーワケ……?
「…よし、こんなもんでいいか」
空いた中央に立ち、やや満足げに周囲を見渡したゼクスが、そこで「来い、リーエ」と私を手招きした。
言われるがままにゼクスのところまで歩いていくと、唐突に腰のあたり手が添えられるや、グイッと強く引き寄せられる。
「なにっ……!?」
「離れるなよ。すぐに終わる」
「いや、だから、少しは説明を……!」
「――いいぜ、やってくれ」
問い質そうとした私の言葉を塞ぐかのようにして、そうゼクスが声を張り上げる。
「目的地はどこだい?」
「ガッジだ」
「あそこには確か、二カ所ほどマーキングしてあったっけな」
「どっちでもいいが……そうだな、どうせだったら街から離れてる方がいいか。覚られても面倒だ」
「わかった」
「じゃあ、繋げるよ」
三人の間で、私にはワケのわからないやりとりが交わされて。
そして、いつの間にか、部屋の中央に寄り添って立つ私たちを遠巻きに取り囲むようにして、店主さんと女将さんがこちらを向いて立っていた。
私とゼクスを中心に、右手側に店主さん、左手側に女将さん。
二人は、おもむろに胸の高さまで両手を上げると、開いた掌を私たちの足元に向ける。
同時にゼクスも、私の腰を引き寄せているのとは逆側の手を、やはり足元へと向けていた。
「「「――開放!」」」
三人の声が揃う。――と同時に、淡く光り出す部屋の床。
私とゼクスの立ち位置を中心にして、突然ぶわっと広がったピンクっぽい色の光が、床の上を走り、円を描く。
大きさの違う同心円が幾つか出来たかと思うと、そのそれぞれの内側部分に、やはり同じ色の光でもって、細かい文字のような模様が浮き上がる。
「なにこれ、すごい……!」
どんな仕掛けかトリックかはわからないけど……この世界なら、これはきっと、魔術、なんだろう。
だとしたら……これに近いものを、その名前を、私は知ってるかもしれない。
――魔法陣だ……!
そんなもの、日本に居た時も実際に見たことはなかったけれど――つか、そもそも実際に存在してるものかどうかも不明だったけれど。
とはいっても、だいたいのファンタジーフィクションに登場する必須用語だもんね、用途が何だとかいう細かいところまでは知らないものの、名前くらいは聞いたことがある。
「…よし、繋がったね」
「道筋も付けた。固定完了」
「うん、あっち側も見えてる、問題なさそうだ」
私の頭の上で取り交わされるその会話で、顔を見合わせた三人が頷き合う。
「じゃ、いっちょ行ってくらあ」
傍らのゼクスが、軽口のように言いながら、店主さんたちに片手を上げてみせて。
それから、ヒュッと浅く息を吸い込んだのが、耳元近くに聞こえた。と同時に、私の腰を引き寄せている手にも、くっと軽く力が籠もる。
「――転移!」
凛とした声が飛び、空気を切り裂く。
途端、魔法陣が放つ光が眩ゆさを増し、一瞬にして光の洪水となって押し寄せてきた。
視界が奪われて、眩しさに思わずギュッと目を閉じる。
そして、襲われる。眩暈にも似た浮遊感に。実際に、足の爪先が浮いているような感じさえする。
――無重力空間って、ひょっとしたらこんな風なのかもしれない……。
ボンヤリとそんなことを考えた、まさに同時。
ふいに全身がガクッと重くなった。
無重力空間から、一気に地上に引き戻されたみたい。――いや、それどころか、通常以上のGを感じる。まるで身体の上から大きな錘でも載せられているようだ。
それくらい、頭のてっぺんから手足の爪の先に至るまで、文字どおり全身が重かった。もうどこもかしこも。
なにこれ? と、反射的に目を開こうとするも、瞼さえ重い。身体の外側だけでなく頭の中までが重くて靄がかかってるみたいにぼんやりとしていて、少しでも何か考えることさえ億劫で仕方ない。
それでも何とか気力を振り絞ってウッスラ目を開くと、そこに地面が映った。
――地面……?
まごうことなき、それは地面だった。みっしりと雑草らしき植物に覆われていて、漂ってくるのは、土の匂いと草いきれの匂い。
――なんで目の前に地面があるの……? 今の今まで、お店の中に居なかったっけ……?
お店の床と同じなのは、地面で淡く光っている魔法陣らしき模様。
だから、何でここにも魔法陣? ――それが何故なのか考えようとしたけど、無理だった。
突然ぐにゃんと視界が撓む。見えている地面の景色が歪んで判別できなくなった。黒い土の色と草の緑色、魔法陣の放つ淡い光が、ぐるぐる混ざり合ってはぐらぐら揺れてる。
「…おい、リーエ?」
ふいに聞こえてきたゼクスの声が、ぐわんぐわんと頭に響いた。頭痛がする。ものすごく痛い。痛くて重くて堪らない。
全身はどんどん重くなっていく。足から力が抜けてゆく。もう自分で自分の身体を支えられない。
「どうした、リーエ! しっかりしろ!」
そんな声と共に、お腹に圧迫感を感じた。
どうやら崩れ落ちそうになっていた私の身体を、腰に回された彼の腕一本で支えられているようだとわかった。
気付いた途端、こみあげてくるのは猛烈な吐き気。
「――はなし、て……」
「は? なんだ? もう一度ちゃんと言え」
「キモチワルイ……も、吐く……」
「なんだと……? おい、コラ、ちょっと待てっ……!」
待てと言われても、こんな時そうそう待っていられるワケもなく。
襲い来る嘔吐感に抗いきれず、その場で私は、胃の中身を全部ブチ撒けていた。
――ああ、せっかく食べた朝ごはんが全部パア……。
もったいない…なんて、そんなアホウなことを思い浮かべてしまったのを最後に、そこで意識がブラックアウト。
頭の上からゼクスが何やら叫んでいるような声が聞こえてはいたけれど、もはや何を言われているのかまで聞きとれず、そのまま私は意識を手放してしまった。