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結局、その日の晩は、どうやら宿屋も兼ねていたらしいその食堂に一泊することになった。
護衛兼案内人であるゼクスに、まず例のリストを見てもらい、とりあえず今いる場所から最も近いところにいる金髪さんの元へ連れていってもらいたいと頼んだのだが。
その目的地へは、彼いわく『これから出ると途中で野宿するハメになるな』ということなので、一旦ここで夜を明かし、明日早朝に改めて発つこととなったのだ。
ここまで一緒に来てくれた武官さんは、心配してくれたのか気を遣ってくれたのか、なら今夜までは神殿に留まるように、と言ってくれたのだけれど……でも、朝も早いし、ゼクスと一緒に居た方が面倒もなくていいだろうと、その申し出は辞退した。
だって仕方ない。ゼクスも一緒に神殿へ来てくれないかとお願いしてみたのだが、『絶対に行かねえ!』の一点張りで、頑ななまでに肯いてくれなかったんだもん。そしたら私がここに居るしかないじゃん。
どこまでも心配そうな表情を最後まで顔に張り付けた武官さんが、明らかに渋々といった体で、その場に私を残して立ち去ってから。
改めてゼクスと、そのテーブルで二人きり、差し向かいに向き合った。
思い出したように料理を注文して、遅い昼食というか早い夕食というか…をとりながら、軽い世間話のようなことを、互いにぽつぽつと話す。
「…本当にオマエ、何も知らねーんだな」
あらかた話題も尽きてきたところで、ぽそりと、そんな呟きが洩らされた。
「記憶がない、って話は、どうやら嘘ではなかったか」
――ということは、ずっと彼には疑われていたということか?
何気ない世間話にみせかけて、私の出す言葉の端々に、その綻びを見つけようと彼が目を光らせていたらしいことを、ようやくそこで理解する。
「嘘…だと、ずっと思っていたんですか?」
「そらそーだろ。あんな都合のよすぎる人情話なんざ、鵜呑みにする方が馬鹿だ」
そのニベも無い言い方に、あの武官さんも報われないな…と、少しだけ苦笑してしまった。
確かに、あんな話、私でもちょっと疑っちゃうもんね。見るからに用心深そうな彼であれば尚更だろう。なにせ、職業は“傭兵”らしいし。己の実力一つで世間を渡っていかなければならないとなれば、何でもまず疑ってかかるのは、そりゃもう当然の処世術であるに違いない。
とはいえ、さっきまでは、どこまでも“興味ない”って風でしかなくて、疑っているような素振りなんてコレッポッチさえ見受けられなかったのに……この人って、つまり考えてることの一切を表情に出さないんだな……。
それを、すごいと感心してしまうと共に、そこはかとなく怖ろしくさえもなる。――なんなの、傭兵って皆こんなカンジなの?
「疑っていたわりには、随分すんなり引き受けてくださいましたよね」
「金の払いは良さそうだったしな。ああ気前も良く前金はずんでくれりゃ、多少のことには目を瞑ってもいいさ」
なんていうか……ホントどこまでも現金主義で、いっそ気持ちがいいくらいだな。――だから傭兵って皆こんなカンジなの?
「とはいえ……それでも、どーも俺の勘に引っ掛かってくる部分については、目を瞑ったままではいられない性分なんだよな」
そこで軽く笑みを洩らした彼は、しかしすぐにそれを引っ込めると、改めて真っ直ぐな視線を、私の上に据えた。
「――あんたの抱えてる本当の事情を、聞かせてもらおうか?」
その強い眼力に、再び私は射竦められる。
ぞくっとした寒気のようなものが背筋を這う。ともすれば怖くて震えそうになるのを、私は必死で堪えていた。
小さくわななく唇が、やっとのことで言葉を紡ぐ。
「別に嘘なんて吐いていませんよ」
「だが、本当のことも言っていないだろ?」
即答で返されて、思わず口を噤んでしまった。――ヤバイ、どうしよう……こんなの、彼の言葉を肯定してしまったも同じじゃないか。
思わず助けを求めるように周囲を見渡してしまった。しかし、こんな食事時にしては中途半端な時間だ、他に客が居るはずもない。
「…そう心配しなくても、誰も来ないぜ」
そんな私の姿に、ニヤリとした笑みと共に、彼が言う。
「この時間は店を閉めてるからな。ここはいつも昼飯時と夜しか開いていないんだ。宿屋なんてついでのようなモンだから、宿泊客も滅多に居ない。客が来るにしても、まだ時間はタップリある。それに、ここの店主も俺の友人だ、それなりに信用が置けるし、こちらの話を立ち聞きするような奴でも聞こえてきた話をむやみに口外する奴でもないぞ」
だから安心して話せばいい、と言った彼の言葉から、どうやら私が聞かれては困る話を抱えているのだと思われたらしいことを覚った。
「さっきのオッサンにも言ったが、俺だって最低限の守秘義務くらいはわきまえている。こっちにも信用ってモンがあるからな。じゃなきゃ客に逃げられて商売あがったりだ」
彼の言っていることはわかる。素晴らしいプロ根性じゃないか。個人情報保護の叫ばれている現代日本でさえ、ここまで守秘意識の高い人間なんて、そう滅多に居ないだろう。もはや尊敬に値するね。
しかし、どうしたものか……余計に『本当のこと』とやらを話さなければならない雰囲気になってきちゃったじゃないか。
こうなったら、もはや仕方ない。
こんな初日で早々に使うことになるとは思わなかったが、セルディオさんから伝授された“奥の手”で逃げるしかない。
ようやく私も腹を決めて、まだおずおずとした態度ばかりは消せなかったものの、そこで静かに居住まいを正した。
「あなたが知りたがっていることであるのかはわかりませんが……確かに、お話していないことなら、あります」
それを聞いて彼の眉が、まるで面白そうなものを見つけたとばかりに、片方だけ上がる。
そうやって彼は、何も口を挟まずに、視線と仕草だけで話の先を促してきた。
「でも、それは話せません。話してはならないことだと、神殿の神官さんから注意を受けました。――禁呪が掛けられているから、と」
「なんだって……?」
「詳しいことは、私もわかりません。ただ、話してしまえば、私だけでなく聞いた者にも、相応の罰が与えられることになると言われました」
案の定、それを聞いてゼクスは黙った。
セルディオさんの言った通りだ。――『そう言っておけば、根掘り葉掘り訊かれることもないでしょう』、って。
『禁呪』というのは、この世界に古くから伝わる民間伝来の古代魔術の一種、なのだという。主に、誰かを呪い殺したりだとか災いを与えたりだとか、そういったブラックな用途で使われる系の。
そもそもが庶民の間に伝えられてきた魔術――というよりは呪術? であるから、もはや実践する者も減り廃れているに等しいとはいえ、その存在は誰もが知っている。――日本で言うところの“藁人形”とか“丑の刻参り”、みたいなものだろうか?
この世界の民は、おおむね迷信深い性質であるため、禁呪が関わっているかもしれないことなどに進んで関わり合いになりたがるはずもない。特に、傭兵などという戦いの中に身を置くような輩は、験を担ぐことに敏感な者も多いだろうから、なおのこと関わり合いになるのを避けるのではないか。――というのが、セルディオさんの言だった。
目の前で絶句しているらしき彼の様子をうかがうに、その読みもあながち間違いではなかったようねと、内心こっそり胸をなでおろしていた。
この様子なら、彼も追及の手を緩めてくれるに違いない。
「神殿で聞きましたが、この国の魔術に関わる一切を取り仕切っているのが神殿であり、神官さんたち、なんでしょう?」
それは嘘じゃない。確かに、そういう説明は受けた。
だから、神官という職に就くには、魔術師であることが必須条件なのだそうだ。いわば神官は、魔術師業界のエリート中のエリート、ていうところなのだろう。
「その神官さんが仰っていることなら、禁呪の話が偽りというはずもないでしょうし。それほどのことを自分が知っているかと思うとゾッとしますよね。何だか知らないけど、その“罰”とやらを受けるなんて、真っ平ゴメンです。何が起こるかわからないなんて、あなただって怖いでしょう? それが避けられるのであれば、幾らだって私は口を噤みます。だから、もう何も聞かないでください。知っても、良いことなんてコレッポッチも無さそうですよ」
「神殿が……わざわざ禁呪まで用いて、おまえの言葉を封じた、と……? そういうことか……?」
どことなく呆然としているような様子で呟かれたそれに、「そういうことなんじゃないですかね」と、尤もらしく重々しく見えるように、私も応える。
途端、返されてきた言葉に、今度は私が絶句した。
「――面白いじゃねーか」
「へっ……?」
――い…今、何て言った、この人……?
思わずきょとんとしてしまった私を、本当に心から面白がっているような、ともすれば人を小馬鹿にしているようにも見える表情でもって、フッとばかりに鼻で笑ってくれやがるゼクス。――なんってカンジ悪っ……!
「そんな子供騙しのような脅しで、俺が引くと思ったか?」
「なっ……!?」
早々と見抜かれたことにギクリとする。
しかし、努めて表情に出さないようにしながら、あくまで顔には不愉快さのみ貼り付けて、「これも嘘だとおっしゃるんですか?」と、どこまでも冷静に返してやった。――これまで、とことん『無愛想』と言われ続けては敬遠されまくってきた私の過去、ナメんなよ! こちとらポーカーフェイスはお手のモンじゃいっ!
「嘘だと思う根拠は、何です?」
「それは俺が聞きたいね。――その話を真実とする根拠こそ、どこにある?」
即、言い返されて言葉に詰まる。
――くっそぅ……なんだっつーのよ、その疑り深さは!
ホント、やり辛い……こいつトコトン、やり辛いっ! 良き友情関係なんてもの、絶対に築けないタイプっ!
「真偽を確かめるのなら、方法はただ一つ。おまえが、それを話せばいい。簡単だろ?」
「なに言ってんの!? よくないことが起こるかもしれないのに、そんなこと出来るハズないじゃないっ!」
「起きないかもしれないだろ?」
――もう、ああ言えばこう言うんだから、この粘着質ーっっ……!!
セルディオさん直伝の“奥の手”が通じないとなれば、もはやどうやって言い逃れたらいいのかがわからない。
ただ困ってしまったあまりに言葉も出せず、軽く頬を膨らませ、唇を尖らせるようにして、ひたすら口を噤んでいるしか出来ない。
そんな私の様子を、なおもにやにやと面白そうに見やった彼は、更に言葉を言い募る。
「仮に、禁呪による災いが降りかかってきたとしても、それを逸らす方法くらいは心得てるぞ。それでも心配だというのなら、解呪の出来る人間にも心当たりはある。たとえ何か起こったとしても、死ぬようなことにまではならないから安心して話せばいい」
――なによ、それ……聞いてないわよ、禁呪を逸らしたり解呪したりが可能だなんてことまでっ!
こうなったらば、もはや残された手は一つ。
「もう、いいです―――」
言いながら、その場でおもむろに立ち上がった。
少しだけ目を瞠って私を見上げてきた、その表情を見下ろして告げる。
「私、神殿に戻ります。あなたに護衛は頼みません。別の人を雇っていただきます」
すなわち、最後の奥の手。――三十六計逃げるに如かーずっっ!!
「じゃっ、そういうことで!」
そして即座に踵を返そうとしたのだが……ふいに、背後から伸びてきた手に、私の腕が掴まれる。
立ち去るべく踏み出しかけていた私の足が、その背後からの力に逆らえず、床から浮いた。
案の定、それを為したのはゼクスであり。
驚いて背後を振り返ると、彼がテーブルに片手をついて身を乗り出すようにして、もう片方の手で私の腕を掴んでいる姿が見えた。――ちっくしょう……その素早さって反則っ!!
「――そう易々と逃がすと思うか、お嬢ちゃん?」
こちらの腕を掴んでいる手に力が籠もるのがわかった。
徐々に徐々に、私の身体ごと彼へと引き寄せられる。掴まれた部分が、鈍く痛い。
「いったん引き受けた依頼を反故にしたと知れれば、俺の名前に傷が付く。今後の仕事に差し障るようなことはしたくない。それに、せっかくの儲け話だしな、それを逃す気だってサラサラ無いんだよコッチは」
「そんなの、アンタの勝手じゃない! いいから、もう放してよ!」
「おまえが逃げなきゃ、放してやるよ」
そんなやりとりをしている間にも、掴まれた部分には、どんどん力が加えられている。もはや、鈍い痛みどころじゃない、明らかに痛い。激しく痛い。もう涙が出そう。痛すぎる。
その痛みで叫びたくなるのを、ぐっと歯を食い縛って堪えた。それでも、呻く声だけは押し殺し切れないのが悔しい。
「…意外に強情な女だな」
感心したような…というよりも、やはり面白がっているような声が耳元に聞こえて、思わず聞こえた方向に顔を上げて、言ったヤツを睨み付ける。
「そういうの、嫌いじゃないけど」
びっくりするほど目の前近くに在ったその表情は、やはり笑みの形に歪んでいて、でも、こちらを見据えている鋭い眼光だけは、全く笑ってなんかいなかった。
「でも今は、もうちょい素直になってもらいたいね」
唇を、噛み締める。
――考えよう……考えるんだ、私。
わかっていたことだけど、相手は男だし、しかも傭兵なんていう腕力自慢、力比べじゃどう足掻いたって敵いっこない。こうやって腕力に訴えられたら最後、私の抵抗なんて全く意味を為さない。
力以外で、勝負しなくちゃ。
「――わかりました……」
睨み付ける視線はそのままに、だが口調だけはしおらしく、私の唇からそんな言葉が零れ落ちてきた。
「もう逃げませんから、放してください」
「そうそう、女の子は素直じゃなきゃいけねーよな」
殊更に口許でだけニッコリと微笑んだヤツは、そしてやおら口調を変えるや、「座れ」と私に命じた。こちらの腕は、まだ掴まれたままだ。
もしかしたら、手を放した途端に前言撤回して逃げ出すつもりだ、とでも疑われたのかもしれない。
指示された通り、私は素直に椅子に座った。ちゃんと椅子を前に引くと、さきほどまでと同じく、テーブルに向かって深く座り直す。
それを見て、私に逃げる意志が無いことを覚ってくれたのだろう、ようやくそこで掴まれていた腕が解放された。
軽くほっと息を吐きつつ、圧迫から逃れられた腕の部分へと視線を向ける。まだひりひりした痛みを感じるそこを、反対側の手で少しさすった。
案の定、掴まれていた部分には、指の痕が赤くくっきりと付いている。もはや痣だ。もう少し時間が経てば、青紫色になりそう―――。
――ちょっと待て……!?
そこで、ふいにハッとそのことに気付く。
――痣になってる、ってことは……つまり、これ、内出血……皮膚の下で血管が切れて出血してる、ということじゃないの……?
途端、がたっと音を立てて椅子を蹴飛ばすかの勢いでもって、その場に立ち上がっていた。
「おい……!?」
目の前でゼクスが表情を変える。また逃げる気なのだと誤解したのだろう、再び私の腕でも掴もうとしたものか、こちらへ彼の手が伸ばされてくる。
それを、逆に自分から掴んでいた。
「助けてくださいっ……!」
「え……?」
「この近くにいる魔術師さんに、心当たりはありませんか!?」
「魔術師……?」
「治癒魔術を使える方なら、どなたでもいいです!」
セルディオさんから言われた言葉が、頭の中にぐるぐると回り出す。
『少しでも血を流せば、それが自然に止まることは無いと心得ていただきたい』
――この内出血を早く止めないと、私、死んじゃう……!!
自分でもワケがわからないくらい半パニック状態になっていた。死ぬかもしれないと思うと、怖くて怖くて堪らなくなった。
――こっちの世界でまで死ぬのなんてイヤよ……!!
だったら、私どうしてこの世界で生きるハメになったのよ! 私は、まだ何もしてないのに! ここで、もっとちゃんと生きたいのに! ただ死ぬためだけに喚ばれて来たワケじゃないんだから!
「早く…早く血を止めないと……!」
「おい、ちょっと落ち着け」
ただならぬ私の様子に、ゼクスもどうやら何事か察してくれたらしい。私を自分の腕に縋りつかせたそのままで、顔を寄せ、近くから私の目を覗き込むように見つめてくる。
「別に血なんか流しちゃいないだろうが?」
「流れてるの! あなたに掴まれたところ、痣になってるもの! 皮膚の下で内出血してるのよ!」
「それくらい何だ? そんなもの、わざわざ魔術なんて使わなくても、時間が経てば自然に治る……」
「治らないのよ! 私の身体、血を流したら自然には止まらないんだって……少しの傷でも命取りになるって……!」
「なんだって……?」
「私、このままだと、死んじゃうっ……!」
「だから、落ち付けって!!」
知らず知らず、言いながらぶるぶる震え出していた私を、そう彼が近くから怒鳴り付けてくる。
ふいに耳をつんざいた大声で、途端にビクッとして、全身が硬直する。
「落ち付け、リーエ」
相変わらずこちらを覗き込むようにして真っ直ぐ見つめてくれながら、そう諭すように言う彼の片手が、私の腕の痣の部分へと滑る。
「もう大丈夫だから。――ほら、血も止まった」
「え……?」
言われて自分の腕に視線をやれば、そこには痣があった痕跡など、もう何も無かった。
そこに在るのは、傷一つ無い、自分の腕―――?
恐る恐る、私は視線を上げる。
「あなた……魔術師、だった、の……?」
私の視線を待ち受けていた二つの青い瞳に、呆然と、それを尋ねた途端。
安堵と驚きと……色々ないまぜになった感情に、唐突に襲われた。
そして、目の前が真っ暗になった。
傾いた自分の身体が、がっしりとした逞しい腕に抱えられたのを……意識を失う間際に、私は感じていた―――。
*
目を開くと、見知らぬ天井が視界に映った。
――どこだろう、ここ……?
神殿の豪華なそれとは違う。まるで私が住んでいた古いアパートの部屋の天井みたい、薄汚れて染みもあったりする、木目のぬくもりのある―――。
――ああ、そうか……。
そこで唐突に思い出した。
「私、また倒れちゃったんだ……」
呟きながら身体を起こす。
自分が寝かされていたのは、狭い一人用の硬いベッドだった。見渡せば、あまりにも物が少ない、小さな部屋に居ることがわかる。
おおかた、あの食堂の二階に用意されていたと聞いていた、宿屋の一室なのだろう。
神殿の豪華さに毒されたかしら…と、ふいに乾いた笑いが洩れた。
間違いなく神殿の寝室の方が規格外なのであって、庶民には、この部屋の質素さが普通であるに違いないのに、それを“小さい”とか“物が少ない”とか……。
しかし、神殿よりもこっちの方が落ち着くかも、と考えているあたり、やはり自分はどこまでも庶民なのだなーと思えて、それもそれで可笑しくなる。
ベッドから降りようとして、ふいに気付いた。――いつの間にか、私の服が着替えさせられている。
誰がしてくれたのかは分からないが、がっちり着込んだ旅装では寝苦しそうだという配慮だったのだろう。おかげでぐっすり眠れたようだ。――だって、カーテンも無い窓の向こうは、もうすっかり夜だから。
どことなく病院着みたいな簡素な寝巻は、こっちの世界のネグリジェだと思えばいいのだろうか。宿にあるってことは、温泉旅館に用意されている浴衣みたいなものなのだろうか。
そんなことをボンヤリと考えながら、ベッドから出した足を床に下ろす。
足の裏から伝わるひんやりとした冷たさを感じながら、私は窓へと近付いた。
窓ガラスの向こうには鎧戸があったけれど、それは開け放されたままになっていて、おかげで冴え冴えとした月光が部屋全体を照らしてくれている。真っ暗闇の中で何かに躓くということもなく、私はすんなり窓辺へと辿り着いた。
窓の向こうに見える月は、大きくて白くて、そして円い。
そういえば……初めてこっちの世界に飛ばされてきた夜に、あの例の酔っ払いが言ってたっけ。『こんな満月の夜に出歩いてるなんて…』とか何とか。
てことは、あの夜が満月だったのか。こんなに円い月だけど、今夜のこの月は、満月ではないんだろう。そう思ってよくよく見れば、端っこの方が少し欠けているような気もする。
「この世界の月の満ち欠けも……地球で見てた月と同じなのかな……」
呟きながら、おもむろに私は窓を開ける。
途端、冷たい夜風が流れ込んできて、剥き出しの部分の肌を撫でた。それをとても気持ちよく感じた。
すぐ近くに在った小さなテーブルセットから椅子だけを引きずってくると、窓の下に置いて、腰かける。
そのまま窓の桟に両腕を載せると、その上に顔を転がした。
目に映る、見知らぬ夜の街並み。それを照らす、見知らぬ月。
どんなに目を凝らして見ても、そのどこにも私の知る景色は無かった。何一つ。
見上げた月も、よくよく観察してみれば、私の知る月とは違う。日本人にはお馴染みの、あの月のウサギがどこにも居ない。
――ああ……何て遠いところに来てしまったんだろう……。
ふいに涙が溢れてきた。
――帰りたいな……。
思ったと同時、父や母、弟妹といった家族に、親しい友人たち、これまで私の身近にいた色々な人たちの顔が、次々に浮かんでくる。
――帰りたい……みんなに、会いたい……。
それは、この世界に来て初めて実感した、元いた世界への郷愁だった。
そりゃあ最初は色々と戸惑いもしたけれど。
この世界のことを色々と聞いて、もう戻れないことも知って、自分なりに心の中に折り合いを付けていたはずだった。
選定者として、この世界で生きていくことを、ちゃんと決めたはずだった。
でも心の中では、ずっと帰りたいと願っていたんだ―――。
少なくとも日本に居た時の私は、貧血でも無かったし、そう簡単に気絶することなんて決して無かった。
やはり、身体に無理がきているんだろうな…なんて、そんなことも思う。
秘めた望みを心の中だけに押さえ付けておくことには、きっと私の身体も耐えられなかったんじゃないだろうか。
「でも……それでも私は、ここで生きていくしか、もう他に道は無いんだもの……!」
もう望むことはしない。望んだって、どうにもならない。
だから今夜だけは、故郷を想って泣いても許されるだろうか。
こころゆくまで泣いて泣いて泣きまくって……そうすれば、きっと心も、スッキリするから―――。
「――どうした、リーエ」
ふいに背後から、そんな気遣わしげな声が聞こえてきた。
ゼクスの声だとわかった。
慌てて涙を拭いながら、立ち上がって振り返る。
いつの間に来ていたのだろうか、案の定ゼクスが、私のすぐ背後に立っていた。
「何を泣いてる?」
「別に、何でも……」
「『何でも』ってカオじゃあ、なさそうだがな」
おもむろに伸ばされてきた彼の手が私の頬に触れ、その指が目尻に残る涙の跡を拭う。
「弱音でも吐きたくなったか?」
なら泣いておけばいい、と、何事でもないかのように軽く、彼は言った。
「旅慣れてない人間にとっちゃ、明日から過酷だぞ。弱音なんて吐く暇もなく疲れ果てる。音を上げても慰めてなんかやらないぞ」
「別に、慰めてくれなくても結構です」
「でも今のおまえは、慰めて欲しくて仕方ない、ってカオしてる」
頬に触れていた彼の指が、そこでおもむろに私の唇をなぞった。
「今のうちに、全部吐き出しておけばいい。慰めてやるから」
「要りません」
「まあ、そう言うなって」
言いながら、いきなり彼の腕が私の身体を強引に引き寄せる。
気が付いたら、彼の広い胸の中に、すっぽりと包み込まれていた。
「胸くらい貸してやるよ。だから、一人で泣くなリーエ」
ゆっくりと背中をさすられる。そのぬくもりが優しくて気持ちいい。
思わず抵抗するのも忘れて、目を閉じると、素直に彼の胸に凭れかかった。
「記憶が無い、ってのも厄介なモンだよな。何もわからないことだらけだったんだから、そりゃ泣きたくもなるさ」
耳に響いてくる低い声が心地いい。
止めたはずの涙が、また溢れてくるのがわかった。
自然に身体が震える。嗚咽が洩れる。
――もう、止められなかった。
知らぬ間に私の両手が、縋るようにぎゅっと彼の服の布地を握り締めていて。
彼の胸に顔を埋めて、恥ずかしげもなく声を上げて泣いていた。
「私の人生、全部リセット、されちゃった……!」
嗚咽の合間で切れ切れに叫ぶ私の声に、彼は小さく短く相槌だけを返してくれる。
「もう帰れない……どんなに望んでも、もう私の帰れる場所なんて、なくなっちゃったっ……!」
ひどい、ひどいよう、と。
終いには恨みごとにも似た言葉しか、もう出てきてはくれなくなった。
「もう、死にたくない……私、まだ何もしてないのに、死にたくないっ……! なんで私が死ななきゃいけなかったの……?」
こんなのって無いよ、と、服を握り締めたままの拳が、彼を叩く。
それでもゼクスは、何も言わず、相槌しか返さず、ただ力を籠めて私の身体をぎゅっと抱きしめていてくれていた。
「わかんない……もう、わかんないよ……! 私、これからどうすればいいの……? 助けてよ……お願いだから、元の生活を、私に、返して……!」
包んでくれるそのぬくもりに、安心した私は、そうやってずっと泣き続けた。
泣き疲れ、襲ってきた睡魔に眠りの淵へと落とされるまで―――。