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「――ったく、人を呼び出しておいて待たせてんじゃねーよ!」
初めて会ったその時から、そりゃもう不機嫌さMAXなお人でございました―――。
そんなこんなで私は、セルディオさんから何点かの注意事項を伝えられた後、旅装に身を整え、ようやく護衛兼案内人という人に引き合わされる運びとなったワケですが。
セルディオさんのお付きだった武官らしき一人に連れられて、神殿を後にし街中へ出ると、とある食堂と思われる店に入った。
どうやら、そこが雇われた件のお人との待ち合わせ場所だったらしい。
お付きの武官さんは、ガランとした店内を軽く見渡すと、一番奥の席に視線を止めた。
つられて私も視線を向けると、そこには一人の男性が、どことなく苛々した様子で座っているのが見えた。
あまり私と年齢の変わらなそうな、ハタチ過ぎくらいの若い男性だ。その髪の赤みがかった茶色が、なんだかシナモンパウダーを思い起こさせて、どことなく印象的に視界に映えた。
ゆっくりと、そちらへと武官さんが足を進めていく。
座る彼の真正面で足を止めると、ようやく彼が、こちらを見上げた。
そこで初めて、彼の瞳が青色であることに気付く。――まるで晴れ渡った空のような、綺麗なスカイブルー。
こちらを見上げた、その鮮やかなブルーに不審な色を宿し、まさに値踏みするような視線でもって、武官さんと、その背後に立つ私を、交互に見やる。
『――「紫電」どのでいらっしゃるか?』
神殿よりの使いで参った、と続けられた武官さんの言葉を最後まで聞かず、やおら彼はキッと目の端を吊り上げた。
まるで射竦められるかのような鋭い眼光に、思わずゾクリと全身に震えが走る。
そして彼は、開口一番、言ったのだった。――『呼び出しておいて待たせてんじゃねーよ!』と。
「…で? ご用件はー?」
とりあえず向かいの椅子を進められて座った私たちに、前置きも何もなく、いきなり彼はそれを切り出す。どこまでも興味のカケラすら無さそうな態度で。
先ほど真正面から食らってしまった彼の鋭すぎる視線とMAX不機嫌オーラに、すっかりビクついてしまった私は、何も言えず身を縮こまらせているしか出来なかったのだけど。
しかし武官さんは、さすが武官さんなだけあって肝も据わっているようで、まるでおののいている様子もない。
まず座る前に『お待たせして申し訳なかった』と丁寧に頭を下げて謝罪もしたし、座ってからも平然とした様子で、淡々と彼に事情を説明し始める。
その横で、内心すげーと思いながらも一切の口を挟まずに、私はそれを聞いていた。
「今回、貴殿には、こちらのリーエ様の護衛と案内役を頼みたい」
『リーエ』というのは私のことだ。
本名の『リエコ』は、こちらでは滅多に聞かない珍しい名前であるし、やはり言い辛い発音でもある、ということで、そう名乗ることにした。
セルディオさんの指示である。
「リーエ様は、記憶を失くされて彷徨っておられたところを、さる御方に保護された。どうやらリーエ様は、ご自身のお名前と、ご家族らしい人物の面影しか憶えておられないご様子で、それを不憫に思われたその御方は、是非ともそのご家族のもとへリーエ様を送り届けてやりたいとお望みになられ、それを神殿へご相談になられたのだ」
「ふうん……世の中、奇特な人間が居るもんだな」
――うん……それは私も、そう思う……。
このウソ八百の事情も、セルディオさんの指示である。
やはり、人々の混乱や暴動を避けるためにも、私が選定者であることは神殿関係者以外の誰にも知られない方が望ましい、と。
既に退位しているという前の王のことも、同様の理由で、まだ公表されてはいないらしい。この世界において、王とは人々の拠り所だから。
新たに選定者が現われたと知れれば、自動的に、王の不在をも知れてしまう。新たな王が見つかるまでの間、その拠り所が不在であることなど、決して知られてはならない。
そういうワケで、この世界のことを何も知らない私が金髪の人たちを訪ねなければならない理由として、こう尤もらしくも嘘クサイ事情を捏造することになったのである。
とはいえ、神殿が――よりにもよって神官長であるセルディオさん自らで私を迎えに来た姿が、もう既に衆目に曝されちゃっているのでは? 今さら隠したところで遅くない? とは思ったが。
そこはセルディオさん曰く、『目くらましの魔術を張っておりましたから、誰にも見られてはおりませんよ』とのこと。同様に、神殿へと運ばれた時の輿にも、その仰々しい行列ごと、目くらましの魔術がかけられてあったのだそうだ。
だから誰も、神殿が私を保護したことなど知らない――気付いてさえいない。
まだ秘密は秘密のまま、保たれている。
「しかし、何故それを神殿に相談するんだ?」
「――そう声高に話せることではないのだが……」
「気にするな。依頼人に関わる機密は絶対に口外しない。――そのくらいの分別はあるつもりだが?」
「では、貴殿を信じて話そう。実は、リーエ様の憶えておられる人物は、金髪の男性だということでな。神殿は、戸籍を検められる権限を持っているゆえ……」
「へええ……神殿の戸籍まで当たることが出来るとは、そりゃ大層な人物だなあ、その奇特な御方は」
「誰とは明かせぬが、神殿とは深い関係を持っていらっしゃる御方、とだけは言っておこう」
――そらそーだ……なんせ、セルディオさん神官長だもんな……。
「じゃ、ようするに……俺は、その金髪の男を探しに行くソイツに同行して道案内がてら護衛すればいい、ってワケか」
こちらに流された彼の視線を受けて、思わずビクリと身体が揺れた。
そんな私の様子を、どうやら面白がったのだろうか、ふいに口許にニヤリとした人の悪い笑みが浮かぶ。――なんか馬鹿にされているみたいで、感じ悪いなもう。
しかし、話を聞いている彼の態度は終始一貫、興味ナシ! と言わんばかりで、話の流れに合わせて受け答えはするものの、表情も全く動かないしリアクションにも著しく乏しくて、聞いた端から全て右耳から左耳に抜けてしまってるんじゃないかと不安に思って眺めていたものだが……ようやく初めて見せてくれた表情らしい表情がコレって。
コイツ人間としてどうなのよ? とさえ感じられてしまうではないか。もはや、すっげえ不信感しか煽られないんだけど。
それとも、この人にとって、この人の悪い表情が、少しでも興味を持ったという意志表示なのだろうか。――それはそれでヤだなあ。
途端に眉をしかめてしまった私の様子を、どのように捉えたのだろうか。
ニヤリとした口許と面白そうな表情は変えず、こちらに目を据えたまま彼は、ふいに「金次第だな」という言葉を口にした。
「俺の名は、護衛だろうと案内人だろうと、安くはないぜ」
「心得ている」
隣りの武官さんが、そこで懐からお金の入っているだろう包みを取り出した。
この世界の貨幣は硬貨が主らしい。まるく膨らんだ袋がテーブルの上に置かれた時、ぢゃりんとした音を立てる。
ようやく、彼の視線が私から逸れて、そのお金の袋へと向けられた。
それを手にして中を覗き込んだ彼の瞳が、少しだけ瞠られる。驚いたように。――意外に多かったのかな、金額。
「これは前金だ。貴殿を雇う料金の相場は聞いている。残りの半分は、再びリーエ様を神殿まで無事に送り届けていただいた暁に支払おう」
「期間は? これだと……そうだな、せいぜい半年、っていうところだが」
「問題ない。半年かからなくても、その金額は保証する。長引くようなら、それに応じて追加分も支払おう。神殿を護るべき神兵は、世俗の事情に関与することを禁じられている。貴殿は、リーエ様を護ることの叶わぬ我々の代理だ。それ相応の対価を支払うことにも吝かではない」
「ふうん……どうやら金払いの良い旦那らしいな」
悪かない、と、言いながら彼が、手にしていた袋を懐へと仕舞った。
「いいだろう、引き受けよう」
「そう言ってくれると思っていた」
そして差し出された武官さんの手を、まさに渋々といった感じに握り返しながら、彼がフンと軽く鼻を鳴らす。
「リーエ様には決して傷一つ負わせることの無いよう、何卒お頼み申す。それが可能だと踏んだからこそ、わざわざ貴殿を雇ったのだからな」
「…重い期待だこと」
ま、努力はしますよ努力はね、…なんて軽口のような言葉でかわしながら、そこで彼は握られた手を振りほどく。
「リーエ様」
続いてこちらを振り向いた武官さんは、まだどことなく怯える私を気遣ってくれたのだろうか、そこでにっこりとした優しげな笑みを浮かべてくれた。
「もうご心配には及びませんよ。この者が必ず、捜してらっしゃる方のもとへと、あなた様をお連れくださいますから」
「はい……そうですね」
私も笑みを浮かべてそれを返すと、改めて彼に向き直り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
まだまだ、“このひと怖そう”“優しくなさそう”“上手くやっていけるのかな”っていう様々な不安は尽きないけれど……それでも、わざわざ神殿が探して雇ってくれたくらいなんだから、ちゃんとした人ではあるのだろうとは思う。見た目すっごいガラ悪そうだけど、仕事には定評がある人物だ、っていう話は聞いているし。
聞いた限りではあるが、なにやら大仰な通り名とかも付いちゃってるようだから、その業界ではそれなりに有名な人に違いない。
頭を上げてから、顔を引き攣らせつつ微笑んでみせた私を眺めると。
「――ところで……」
おもむろに彼は、なんの躊躇も無く、私に向かって、それを訊いた。
「アンタって、男? 女? どっち?」
――あー……やっぱり訊かれるんだ、それ……。
*
旅支度を整えるに当たって、やはり道中の安全面を考えると男装をしたほうがいいだろう、という話が出た。
もともと私はスカートが苦手で、常にパンツルックだったから、そうヒラヒラした格好をさせられるよりは動き易い服装の方が好きだ。だから男装にも否やはなかった。
とはいえ、そう真剣に安全面がどうとか言われてしまうと、気軽に“動き易いから男装の方がいいわ~”などと考えることは出来ない。
案の定こちらの世界では、旅人を狙う追いはぎや盗賊などといったならず者も、決して少なくはないらしい。女子供ならば、凌辱目的で襲われるのは当然だし、人身売買の材料とされることもあるという。
実際に私も、こちらでは女の格好とは言い難い服装だったにも関わらず、誰とも知れない男――王様候補であることはこの際置いておいて――に拉致され、襲われ、処女喪失までしちゃっているのだ。あんなこと、もう二度とゴメンこうむりたい。
一目で女であると分かる格好が襲われる標的となり易いのであれば、それは絶対に避けなければならないだろう。どこまでも真剣に男装しなくちゃ。
てことで私は、髪を切ることを思い付いた。
やはりこちらの世界でも、女性は髪を長く伸ばしているのが普通であるそうなのだ。しかも、短髪の女性なんて、ほとんど居ないらしい。
過去さんざんコンプレックスを刺激してくれたショートヘアの私。あの姿なら、きっと女には見えないだろう。
“可愛い”にはホド遠いことは自覚しているが、そうはいっても少しくらいは女の子らしく見られたくて髪を伸ばし、ようやく背中の真ん中あたりまでの長さに到達してきたというのに……それを一気にバッサリ切ってしまうのには、さすがに少々どころではない躊躇いを覚えもするが。
しかしこの際、そんな甘っちょろいことは言っていられない。なんといっても安全第一。
『…じゃあ、髪も短くした方がいいですよね。どなたかに切っていただくことは出来ますか?』
美容師さん紹介してください、的なそれを言ってみた途端、即座に『早まってはなりません!』と、セルディオさんに泡くって止められた。
『そんなに長く綺麗な御髪を、切ってしまうなんて勿体ない……!』
『でも、たかが髪ですから、切ってしまっても、またすぐに伸びますし』
『いいえ、これも注意事項として申し上げておかなければならないことですが……リエコ様の御髪は、選定者である限り、もう伸びることはございません』
『は……?』
『毛髪ばかりの話ではございませんよ。爪も伸びません』
『んな馬鹿な……』
『選定者である限り、それは当然のことなのです』
重要なことですから心して聞いてください、と、極めて真剣な表情で、セルディオさんが、それを言う。
『選定者として王と契った、その瞬間から、肉体の時が止まるのです』
思わずぽかんと口を開けてしまった。
――な…なんだ、それ……?
言われた言葉の意味がわからない。――どういうことよ、その『肉体の時が止まる』ってのは……?
ぽかんとしながら眉をひそめた私に対し、まさに優しく言い聞かせようとする教師といった雰囲気で、セルディオさんの『いいですか』という声が飛んでくる。
『この世界と王とは、いわば表裏一体とでもいうべき関係です。つまり、このラーズワーズが在る限り、王も共に存在し得なければ、その理は成り立ちません。ゆえに王は、選定者と契り王と定められた瞬間より、その肉体の時を止め、この世界と命を共有することの適う存在となります』
――えーと……何やらわかり難い言い方だけど、それってつまり平たく言えば……、
『王は不老不死になる、ということ?』
『そう言っても、あながち間違いではございませんね。ただし、伴侶と愛情を交わし合うことが出来る限り、という条件付きとはなりますが』
『伴侶と愛し合っている限りは、不老不死……』
――ホント、とことんロマンティックな設定すぎるな、この世界の理とやらは。
『先にも説明しました通り、伴侶との愛を交わすことが適わなくなってしまった時こそ、王が王であるべき資格を失う時。それは、世界の死にも繋がります。だからこそ選定者の役割は、このラーズワーズが永久に続くよう、王を王たらしめるべく愛を捧げ続けること。ゆえに伴侶であるべき選定者も、王と同じ運命が定められているのです』
ですからリエコ様、あなた様も。――それを言われても、まだ自分のことを言われているという実感が湧かなかった。
相変わらずぽかんとしているだけの私を、覗き込むようにセルディオさんが見つめてくる。
『もう既に、リエコ様は王となるべき者と契りを結ばれました。既にその身体は、その者と運命を共にしておられるはず』
『なに、それ……?』
『お言葉をお借りして申し上げるならば、あなた様の身体も既に、選んだ王と共に不老不死とも言い得る状態に変わっている、ということですよ』
王がそうである限り、私も不老不死になる―――。
普通に動いて活動できているのに、肉体の時間だけが止まる、ということ。
身体が、現状の機能を保ったままの状態で、私の意志のままに動き続けるということ。
生理的な現象は、何ら変わりは無く働き続ける。ものを食べれば消化して排泄もするし、暑ければ汗をかくし。もちろん、呼吸だってする。眠ることもする。
身体が活動するために必要な仕組みだけは、最低限、ちゃんと機能し続ける。
しかし、毛髪や爪は伸びない。身長も伸びない。シワだって出来ない。
ようするに、これ以上、肉体は成長をしないし衰えもしない、その兆候となるべき肉体的変化が今後いっさい表面には現われ出なくなる、ということ。
私は、現在の私そのままの姿で、これから長い時間を生きることが可能になるのだ。
選定者である限り―――。
『肝心なのは、時を止めてしまったことで、肉体の備えている自己修復機能までもが失われてしまう、ということです』
やはり、どこまでも真剣な瞳になって、セルディオさんが言った。
『少しの傷なら、人間の身体は自然に治癒できるよう、身体の内に仕組みがございます。リエコ様の場合、その仕組みが、もはや働かないようになってしまっているのです。少しでも血を流せば、それが自然に止まることは無いと心得ていただきたい。王も選定者も、その御位に在る限り不老で在り続けることとはなり得ますが、不死で在り続けることについては、絶対とは言い切れません。当然ながら、致命傷を負えば落命します』
『少しの傷が、命取りにもなる、ってこと……?』
『その通りです。血を流したら、迅速な処置が必要となります。しかし、それはもはや魔術によってしか治療することは適いません』
怪我の治療に使われることの多い、一般的な治癒魔術。――それは、いわば魔術によって、傷を負う前の正常な状態まで肉体の時間を戻す、という方法に近いのだと、セルディオさんは説明してくれる。
もはや通常とは全く異なる方法を用いてでないと私の身体は怪我の一つを自然に治すことすら出来ないのだ、と……どこかまだぼんやりとしているだけの頭の隅に、それだけは固く刻み込んだ。
『ですから同様に、毛髪や爪など――欠損してしまったものについても、魔術をもってすれば元どおり修復は可能です。しかし、既に失われたものを元の状態に復元するということは、簡単な治癒術の比ではない、複雑かつ大掛かりな術であることを憶えておいてください。この再生術を扱える者は、魔術師の中でも一握りなのですから』
*
そう懇々と諭されて……それでもなお、私は髪を切ることを選んだ。
もう伸びないというのはビックリだけど、とはいえ、このままずっと髪が短かったところで別に生活に支障は無いし。とりあえず目先の危険を回避できるなら、何と言われようが切るよ髪くらい。髪は女の命なのかもしれないけど、少なくとも私の命ではないのだもの。
というわけで今の私の髪型は、耳が隠れる程度の長さのミディアムショート、てカンジだろうか。ボブっぽくも見える丸みのある形に仕上がっている。
急ごしらえのわりには悪くない、と、自分ではわりと気に入っていた。
切ってくれた、巫女さんだか侍女さんだかの器用さに感謝!
――でも、やっぱり……中高生時代のトラウマ再び、ってカンジかー……。
「…性別は女ですよ。一応」
その無遠慮なまでの問い掛けに、途端に『無礼な!』といきり立った隣りの武官さんを咄嗟に引き止めつつ、私は目の前に座る男に、そんな答えを返した。
男に見られるのなんて、もう慣れっこだ。今さら怒りすら湧いてこない。
とはいえ、まさか初対面の人間にまで、こう面と向かって性別を尋ねられるとは思わなかった。
『アンタって、男? 女? どっち?』
真正面から向かい合ってさえ男か女かもわからない、って……どこまで男顔なんだ自分、と、女として泣きたくなる。私ってば、どんだけ可愛げのカケラも無いんだろう。そこは、本当にイヤになるな。
「髪は、長いと手間がかかって旅をするには邪魔だろうし、それで短くしてきました。男装も、この方が動き易いからです。別に、男になりたいわけでも、女であることを捨てたわけでもありません。そこは誤解しないでください。お気遣いも無用です」
「そうか……悪かったな、変なこと訊いて」
思いのほか素直に飛び出してきた謝罪の言葉に、少しだけびっくりしつつ、でも自然に「いいえ」と私も返していた。――この人、見た目より悪い人ではないのかもしれない。目つきと言い方が悪いだけで。
「元はといえば、お待たせしてしまったのも、私の支度に手間取った所為です。そこは申し訳ありませんでした」
「気にするな。こっちも少し言い過ぎた」
ここのとこ少し苛々してたもんで、と軽く苦笑を浮かべた彼の表情に、つられたように私も軽く笑みを返した。
少しだけ、不安で重苦しいばかりだった気分が軽くなってくれたような気がした。
「改めて……リーエといいます」
「ゼクスだ」
差し伸べた手を握り返してくれながら、とても簡潔に、彼がそう名乗る。
「右も左もわからないことだらけですので、申し訳ないんですが、道中色々と教えてください」
どうぞよろしくお願いします、と頭を下げたら。
握手した手を振り解かれることなく、そのまま「おい…」という声が、頭の向こうに聞こえてきた。
慌てて顔を上げてみると、それを言った彼の視線は、もはや私ではなく、隣りの武官さんを見つめている。
そして、あろうことか、こんなことを訊いてくれやがったのである。
「どうせなら、子守りの料金も上乗せしていいか?」
即座に私が握った手を振り払ったことは、言うまでも無い。
当然、この時点で即、『さん』付きの敬称で呼ぶという選択肢も消え去ったからね!
NOを言えない日本人に初対面の人間の呼び捨てはハードルが高い、とはいえ、ハンムラビ法典は有効なんだから。――目には目を、無礼には無礼を。
こんな失礼ヤツ、呼び捨てで充分だっっ!
――所詮は平和ボケした日本人である私に出来る抵抗といったら、この程度ですが、何か問題でも?