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【1】




 ――えーと……だから、どうしてこんなことになってんだ……?



 まだ上手いこと働いてくれない寝起きの頭を精一杯ふり絞って動かして、どことなく呆然と、そんなことを思う。

 自分の置かれた状況が、まだ上手く飲み込めない。

 いま自分が居るのは、ベッドの上。しかも、全裸で。

 そこに横たわっていた私の、その隣には……、



 こちらに背を向けて寝入っている、金髪の男―――。



 途端、昨晩のあれやこれやが、ばーっと頭の中に蘇ってきた。ご丁寧に鮮明な映像付きのダイジェスト再生。

 うがあああああっっ!! と、思わず絶叫したくなったのを精一杯こらえて、そおっと身体を起こすと、忍び足でベッドから降りる。

 ちょっと動いただけで、無意識に喉の奥から呻きが洩れてしまった。――すごく身体がダル重くて腰が痛い。

 ハッとして振り返ってみたが、そこで寝息を立てている男は、どうやら私の呻きごときでは目を覚ます気配なぞ無かった。

 ひとまずホッと安堵して、なるべく物音を立てないように、隣りの男を起こさないように、はらはらしながら床を四つん這いにゆっくりと進みながら、散らばっていた自分の衣服を掻き集め、急いで身に付ける。

 そうしてから、やはり音を立てないように重々気を付けつつ、戸口へと向かった。

 ――コイツが起きる前に、逃げなきゃ……!

 この際、もはや身体が痛いとか怠いとか、言っている場合ではない。

 とにかく、ここから…この男から逃げなければいけない。じゃないと今度は何をされるか分からない。

 ――だって私は、昨晩、コイツに……!

 思い出すのも悔しくて腹立たしい。

 ようやっとの思いで辿り着いたドアも、音を立てずに細心の注意を払って、ノブを回し、開け、閉める。

 さして広くも無い、左右に幾つもドアの並んでいる廊下を少し歩けば、すぐ階段に辿り着き、それを降りたら、おそらく宿屋なのだろうこの建物の出入口が見えてくる。

 そこから店の外に出た途端、すべてを振り切るかの如く全力ダーッシュ!

 とりあえず、滅茶苦茶に走り、幾つかの角を曲がり、路地を抜け……自分の息が上がって苦しくなってきたところで、ようやく足を止めた。

 おもむろに辺りを見渡して、そして呟く。



「だから……ホント一体どこだ、ここ……?」







 ――よし、順番に思い出してみよう。



 昨日の私は、普通に朝起きて、大学に行った。

 で、普段と同じく当たり障りなく授業を終えて帰宅して……でも、家には恙なく帰り着いていなかった気がする。

 そうだ、帰宅の地下鉄の中で何かがあって……確か電車がいきなり急停車したんだ。

 何事だ!? と、人のどよめきの上がる中、咄嗟に車内アナウンスに耳をそばだてたんだが、その瞬間、停電で真っ暗になって。

 自慢じゃないけど、私は“真っ暗”っていうのが大嫌いだ。薄らボンヤリした光さえも無い正真正銘の暗闇の中にいると、怖くて身が竦む。

 だからこの時も、怖くて怖くて、このままパニックるんじゃないかと思うくらいに動悸が激しくなって、周囲の人の会話も耳に入ってこないくらいに動揺して、どうすることもできず、その場でただ立ち竦んだまま私はぎゅっと目を瞑った。

 暗闇に目が慣れてくれば、少しはマシだろうから、と、とりあえずしばらくの間は、そうやって耐えようとしていたんだ。

 しかし、真っ暗な中でそうしているうちに、なんだか眩暈らしきものを感じ、次第に自分の意識がスウッと遠ざかるような気がしてきて。

 あ、いかん、こんな混み合った車内で倒れたりしたら恥! 他人様にも迷惑かけちゃう! と、慌てて目を開けてみて……、



 ――思わず、唖然として口をパックリ開いてしまった。



 だって、ワケがわからない。

 今の今まで地下鉄の車内に居て、ラッシュ時ほどじゃなくても、夕刻のそこそこ多い人ごみの中に揉まれていたはずなのに。

 気が付けば、そこは屋外だった。

『ここ……どこ……?』

 無意識に、呆然とした呟きが洩れる。

 こんなところ、見たことない。――少なくとも現代日本じゃないじゃない。

 私の立っていたその場所は、幅の広い石畳の道のド真ん中で。

 見れば、その道沿いに、看板らしきものを出した何軒もの建物が軒を連ねている。――それも、現代日本では見られない建物ばかり。

 おそらく、ここはどこかの街中で、この広い通りは商店街のようなもの、なのだろうとは察しがついたが……とはいえ、人っ子一人いやしない。

 というのも、おそらく時間が夜だからだろう。

 真上には大きな白い満月が、佇む私の影を道に落とすほど、眩く皓々と光り輝いているから。



『だから一体、ここ、どこよ……?』



 再び洩れた無意識の呟きが、シンとした夜の闇に融けて消えた。

 この牧歌的なまでの街並みは、だって絶対に日本じゃない。

 海外でもありえないと思う。――もしここが海外のどこかだとしたら……近現代文明の恩恵を徹底的に排除し生活している人々の住むような地域であるに違いない。たとえば、アーミッシュみたいな。

 だとしても、ここが現代の地球のどこかだとすれば、遠くに高層ビルの影とか、何かしら現代的なものが見えてもおかしくはないと思うのだが、それも全く無いのだ。

 目の前に広がる道を覆っているのも、本当に文字通りの石畳――ごつごつデコボコした本物の石が一面に敷き詰められているだけで、滑らかなアスファルトの舗装なんて、どこにも見当たらない。

 近現代文明の利器、電灯すらコレッポッチも見当たらない、灯りといったら月明かりしかないというのにここまで明るい、この夜の暗闇。

 無意識に、自分の頬っぺたを摘まんで、思いっきり引っ張っていた。

 地味に痛い。

 てことは、どうやら夢じゃないらしい。

 ひょっとしたら、あの地下鉄の暗闇の中で、目を開けたつもりが開けられてなくて、やっぱり気絶とかしちゃってて、そうやって見てる夢なんじゃないかという可能性も考えてみたりしたんだけど……どうやら違うみたいだ。

 痛みまで感じられるリアルな夢…にしては、痛み以外の感覚もリアル過ぎる。

 足の裏から伝わる石畳の硬さ、使われている石の無骨さ。肌を撫でてゆく冷んやりとした夜風。空を見上げれば柔らかく目を射る月光の眩しさ。――これ全部が夢? なハズはないわよね。



 ――じゃあ、つまり、ひょっとして……これが巷で噂の、何たらトリップというヤツか……?



 もはや、それしか考えられなかった。

 トリップ先が、同じ地球の過去に存在したどこかの国なのか、はたまた、地球とは全く別の異世界なのか、それはまだ分からないけれど。

 とにかく、どういうワケだか私は現代日本の恩恵には与れぬ場所へと飛ばされてきてしまった、それだけは確かなようだった。

 気付いたと同時、くたりと身体から力が抜けた。

 膝が笑って、立っていられなくなって、その場にべしゃりとヘタり込む。

 なんか泣きたい。――けど、呆然とするあまり、涙も出ない。

 こんな見知らぬ場所に一人で放り出されて……挙句、夜中すぎて人っ子一人いやしないって場所なんかで……これから私、どうしたらいいんだろうか。どこへ行ったらいいんだろうか。

 呆然としながら途方に暮れた。

 まさに、そんな時だった。



『――あっれー? こんな夜中にオンナノコ一人で、何やってんのー?』



 唐突に、そんなのほほんとした間抜けな声が、背後から掛けられたのだ―――。







 足を止めた私は、朝の眩しい光の中で、改めて周囲を見渡した。

 細い路地を滅茶苦茶に走り抜けていくうちに、いつの間にか、広く大きな通りに出てきていた。――これが昨晩に見た通りと同じかどうかまでは、ちょっと判別が付きかねるが

 さすがにもう日が高いだけあって、その道には多くの人や荷馬車などが行き交っており、結構な賑わいを見せていた。

 さらに、自分が通行人から、じろじろと不躾な視線を向けられているのにも気付く。

 ――そりゃそうか……。

 今の私の格好は、ジーンズにスニーカー、上はチュニック丈ブラウス、という、現代日本の女子大生にしてはカジュアルで地味すぎる格好だが、今この場では、非常に目立つ。

 だって、他に似たような格好している人がいないから。

 何て云えばいいのか……道行く人の格好は、現代日本人の観点から言わせて貰えば、非常に簡素で古くさいことこのうえなかった。柄や模様らしきものも無い、生成り色や茶褐色など地味でくすんだ色合いばかりが見られ、とにかく見た目の華やかさというものに欠けている。歴史物の外国映画とかに出てきそう。中世あたりのヨーロッパの庶民て、こんな格好してたんだろうな、と思えるカンジの。

 にも関わらず、人々の色彩は華やかだ。肌の色は、どちらかといえば色白の日本人寄りかな、とは思うものの、髪の色彩はヨーロッパ人ぽく、明るい茶髪や赤毛が多い。――となると、私の染めても脱いてもない日本人特有の黒髪は、結構目立つ部類に入ってしまうのだろうか。

 また、通り沿いに並んでいる建物も、どっしりとした石造りで、やっぱりどことなくヨーロッパ風味。

 ――ホントここ、絶対に日本じゃないわ……。

 明るい日差しの中で改めてそれを再認識し、思わず深々としたタメ息が洩れた。

「なんでこんなことになっちゃってるのかなあ……」

 呟きつつ、さてこれからどうしたらいいのかと途方に暮れつつ、それでも、ここで立ち止まって衆目を浴びているのも得策ではないと気付き、とりあえず足を進めることにする。

 だって、あのベッドに置いてきた金髪男が、目を覚まして私を追いかけてこないとも限らないのだから。この場所では目立ってしまう私であれば、追う方にとっては見つけ易いこと、このうえもないだろう。

 早く人目の付かないところへ逃げて、まずは、この目立つ格好を何とかしなければ。

 腰を据えて考えるのは、それからでもいい。

 そうして足早に歩き出した私の腕が、ふいに掴まれる。

 ハッとして、もうあの男が追ってきたの!? と、身構えながら振り返ると、そこには数人の男が私を取り囲むようにして立っていた。――幸いにして、あの金髪の男は居ない。

 私を取り囲んでいた男どもは皆、大柄で屈強な身体つきをしていて、腰には剣らしきものも佩いているし、揃いの服に身を包んでいるし、で、明らかにどこかに仕える武官といった様相を呈していた。

 ――これが、この世界のお巡りさんだったとしたら、泣いて縋ってもいいのかな……?

 よくわからないながらも、おののきつつ「何ですか?」と、私の腕を掴んでいる一人へと向かい尋ねる。

 しかし、返された言葉は私には理解不能なものだった。

「な、なに……?」

 思わず聞き返してしまった私の戸惑いが伝わったのだろうか、その男が改めて口を開き、殊更にゆっくりと繰り返してくれたことがわかったが……しかし、何を言っているのかサッパリだった。

 日本の義務教育の九年間を経て高等学校教育を通過し大学入学まで果たした、私の英語力をもってしても聞き取れない。――これでも英検は何とか二級まで取ったんだぞう……!!

 てことは、確実にコレ、英語じゃない。

 じゃなかったら、もはや何語を喋られているのかもわからない。

 ――なんで……? 昨晩まで、言葉、通じてたのに……!!

 言葉が通じないと分かった途端、何やら急に怖くなって、思わず掴まれている腕を振りほどこうともがいてしまった。

「放して……!! やだ、助けて……!!」

 しかし、私を捕らえる太く逞しい腕は、容易には外れてくれない。

 おそらく『動くな』だの『大人しくしろ』だの言われているのだろう、男から何やら私に語りかけてくるが、半ばパニックに陥っていた私は、そんなもの知ったこっちゃなかった。

 とにかくこの腕から逃れたい。この男どもから逃げ出したい。

 そうこうしているうちに、突如、私と、私を掴む男を、遠巻きに取り囲んでいた男たちが、一斉にざっと一点を向いて地面に膝を突いた。

 私を掴んだ男も、そちらを向くや、さすがに膝までは付かなかったものの、深く頭を下げて礼を取る。――私を掴む腕は相変わらず離さないままに。

 思わず私も、抵抗する動きを止めて、そちらへと視線をやった。

 すると、やはり同じような服装の武官と思しき連中を何人も引き連れている、だが、おおよそ武官には見えない服装の人間が、こちらへ歩いてくるのが見えた。

 ――なんか、あの服……あれ、古代ローマで見たことあるカンジの……。

 その偉そうな人が纏っていたのは、白い布を、思いっきりドレープ効かせながら巻き付けているような、そんな機能的にはホド遠い衣装。ソックリ同じではないにしろ、まさに古代ローマの哲学者といった風情を醸し出している。

 そして、こちらへと近付いてくるにつれ、その顔が明らかになるにつれ、思わずポカンと口を開けてしまった。

 ――なんっだ、この美形……!!

 メイク技術の発達した現代でも、そうそうお目にはかかれないぞ、このレベルは。

 どんなに美形と呼ばれる白人ハリウッド俳優だって、この美貌と並んでは霞んでしまうに違いない。それくらい、美しい以外に言い様のない男性だった。

 長く伸ばした髪は、眩しい日差しにきらきら輝く銀色で、私をひたと見据える瞳は、まるで深い湖を思わせるかのような碧色。

 耳や首や額や、とにかくあちこちに飾られている宝石の類のちりばめられたキラキラのアクセサリーが、またその美貌を引き立てていることったら限りない。

 そこらへんにいる、明らかに庶民と思われる通行人とは、存在感の質が違う――違い過ぎる。

 きっと、さぞかし高い地位に在る、お偉い人間サマなのだろう、と……そのオーラだけで思わせてくれるではないか。

 その偉そうな美形は、目の前まで来て足を止める。

 おもむろに地面へと膝を突くや、そして私へと向けて頭を下げたのだ。

 驚いた私が、何を言う隙さえも与えなかった。

 こちらには理解できない言葉で何事か言いながら顔を上げると、やおら掴まれていない方の手が、また恭しいまでの仕草で取られたかと思えば、その甲に唇を軽く押し付けられる。まるで貴人に忠誠を誓う騎士のように。



 ――ええええええっっ!? だから、なんだそれっっ!?







「――そろそろ、落ち付かれましたでしょうか?」

 優雅な動作で冷たい飲み物を手渡してくれながら、私の前に膝を突いた例の美形は、そう言ってニッコリと微笑んだ。

「はあ、まあ……」

 飲み物を受け取りつつ、そんな生返事を返すも。

 それでも私は、まだその飲み物に口を付ける余裕すらない。



 ――だから……ホント一体、何がどうして、こうなった……。



 あれから、驚きに固まるだけの私は、その美形の指示だったのだろう、周囲を取り囲む武官と思しき連中に、ものすごく丁寧な扱いで連行され、そして抱え上げられるまま用意されていた輿のような乗り物に乗せられて、あれよあれよという間に、街中で見たそれとは明らかに異なる建築様式の、まさに“白亜の宮殿”というにも相応しい何やら立派な建物の中、見るからに立派な内装の部屋へと、連れ込まれていた。

 もはや、ワケがわからな過ぎて、怖いとかいう感情すら、どこかへフッ飛んだ。

 ひたすら呆然と、されるがままになっているしか出来ない。

 その豪華な部屋の、とても座り心地よく設えられている椅子に座らされて。

 再び例の美形が、座った私の前に膝を突く。

 そして、こちらを見上げて何事か伝えようとしてくるのだが……やはり私には理解できない言葉で困ってしまい、『ごめんなさい、何を言っているのかがわかりません』と、日本語で返すしかなかった。

 双方における言葉での意志疎通が不可であることが、ようやくその美形にも理解できたのだろう。

 あたかも『ちょっと待ってて』とでも言いたいかのような片手を上げたジェスチャーをして、その場を離れる。

 戻ってきた時は、胸の前に片手を掲げて、何か抱えるような形をとっていた。その手の中に大事なものでも運んでいるのだろうか。

 差し伸べられたその手の中には、案の定、紫色の袱紗のような布で包まれた何かが載せられている。

 空いている彼のもう一方の手が、ゆっくりと、その布を開いてゆく。

 開かれた布の上には、ビー玉みたいな大きさの、小さい水晶のような白色半透明な玉が、ぽつんと鎮座しましていた。

 それを、『手に取れ』と言わんばかりに眼前へ突き付けられ、咄嗟に、突き出されてきた距離と同じだけ、上半身を仰け反らせて離れてしまった。

 ――だって、何なのかわからなすぎて得体が知れないじゃないか。

 そんな私の怯える様子を見た彼は、少しだけ困ったような表情を浮かべ、小さく短くタメ息を吐いた。

 続けて、やおら布と玉を手にしていない方の手をスッと上げると、同時に、戸口付近に控えていた武官と思しき服装に身を包んだ男二人が、途端にこちらへと駆け寄ってくる。

 その男たちに何事か指示が出されると、やおら彼らによって私の身体が拘束される。

『え!? なに、なんなのっ……!?』

 椅子に座った両脇からガッチリ肩と腕とを掴まれて、身動きが出来ない。

 件の美形が『念のため足も押さえておけ』とでも指示したのだろうか、彼が何事か付け加えるように言った途端、両脚までもが押さえ付けられる。

 そんな身動きとれない私の前に進み出てきた美形は、自身の手の中の玉を摘まみ上げると、目の前までに顔を近付け、おもむろに『あーん』と口を開けるジェスチャーをしてみせた。

 ――つか、そんなビー玉もどき、飲ませる気っ……!?

 赤子の誤飲にもホドがある。それを覚ってなお素直に口を開けようなんて、誰が思うものか。

 咄嗟に歯を食い縛って唇を引き結んだ、そんな私の様子を目の当たりにして、再び彼はタメ息を吐く。今度は深々と。

 そして額に手を当てつつ、『ならば仕方ない』と言わんばかりの呟きを洩らすや、突然、片手で私の顔をグッと掴んで仰向かせる。

 ちょうど左右両顎の付け根あたりを、すごい力で掴まれて。その痛さにものすごく驚き、思わず『痛い』という呻きが洩れてしまった。

 そうやって口が開いた隙を、逃されるハズもなく。

 開いた唇の隙間から、そのビー玉もどきが押し込まれた――と思ったら、続けて指まで押し入ってくる。

 噛み付いて抵抗しようにも、両顎の付け根を思いっきり掴まれている手前、痛くてそれも出来ない。もとより、両腕両脚が押し付けられているために、暴れて抵抗することも出来ない。

 口の中にまで押し入ってきた指が、喉の奥まで、そのビー玉を押し込んでくるのが分かったが、私にはもはや、それに抗う術はなかった。

 もはや涙目で、おえっと嘔吐きながらも、押し込まれるまま、その決して小さくもない物体を喉が嚥下してしまう。

 ごくっと大きく私の喉が鳴ったと同時、顎にかかっていた手が外れ、両脇からの拘束も解けた。

 思わず私は、喉元を押さえながら、げほげほと咳き込む。

 何とかして吐き出したかった。でも、今しがた喉を通りぬけたハズの異和感が、もうどこにもない。

 ――やばい……これは、もはや本格的にゲロ吐くしか術はない……?

 それは辛いなー、と気持ちが怯みかけた、そんな時。

『――手荒な真似を致しましたこと、どうかお許しください』

 聞こえてきた理解できる言葉に、ハッとして振り返る。

 そこには、座って荒い息を吐いていた私の前、また改めて跪き礼を取る、件の美形と、そのお付きの武官二人の姿があった。

『わたくしの言葉は、理解なされておいででしょうか』

 言われて初めてハッと気付く。

 さきほどまで分からなかった言葉が、ちゃんと理解できている。

『な…なんで……?』

 思わず呟いてしまった私の、言わんとした言葉の意味も、ちゃんとその美形に伝わったのだろう。

『ちゃんと言葉も通じるようになりましたね』

 おもむろにニッコリと微笑んだ彼は、改めて私に告げたのだ。

『それでは、まず経緯からお話させていただいてもよろしいでしょうか』、と―――。



 そうして、改まって話をするべく、まずは飲み物が用意されてきたのだ。

 座る私の向かいの椅子には、例の美形が腰を下ろし、ゆったりとした優雅な雰囲気を醸し出しながら、にこにこ私を見つめている。

 まるで『とりあえず飲め』と無言の圧力をかけられているみたいだ。

 仕方なく、手の中のグラス――というには些か厚過ぎるものの、とはいえ硝子製だろうことには違いない器を、ゆっくりと口へと運んだ。

 まるでレモン水のような味。柑橘系の爽やかさが口に広がる。浮かんで揺れる氷が、カランと涼しげな音を立てた。

「美味しいです……」

「それはようございました」

 おずおずとそれを伝えたら、返されるニッコリ笑顔。

 ――しかし、ホント眼福なまでの美形だなあ、この人……。

 そんなことを思えるようになっただけ、少しは私も落ち着いてきたという証拠なのかもしれない。

 とりあえず話だけでも聞かなければ何も始まらないか、と、腹を括って私は、その眼福な美貌を真っ直ぐに見つめ返した。

「まずは……呼ぶのに困るので、あなたのお名前から、教えていただけませんか?」

「わたくしのことはセルディオとお呼びください。この国の神官長を務めております」

 ――てことは、この建物、神殿なのか……?

「差し支えなければ、あなた様の御名もお教えいただいても?」

宮脇(みやわき)梨絵子(りえこ)です。日本の大学生です。年齢はハタチです」

「そうですか……では、ミャーキ様、とお呼びしたらよろしいですか?」

 思わずズッこけた。――みゃー、って猫か。

『みやわき』という発音は、ここの人たちにとって、よっぽど言い難いのだろうか。何度言い直して貰っても頑として『みゃーき』か『みゃーあき』にしか聞こえないので、もはや私も諦め、「リエコでいいです」と返した。

 これで名前まで変な発音されたら泣くぞ、とも思ったが、セルディオさんは、ちゃんと綺麗に『りえこ』と聞こえる発音をしてくれたのでホッとする。――まあ、やや『りぇーこ』に聞こえないことも無かったけれど……それでも『みゃーき』に比べれば全然マシだ。

 そして当然ながら、「『様』付けもやめて欲しいんですが…」とお願いしたのだが、「神官として、それだけは聞き入れるわけにはまいりません」と、頑ななまでに承諾してはもらえなかった。

 ああ、もう、ただの小市民にはホント座りが悪いよー。

「ではリエコ様。――ちなみに、先ほど仰られた『ニッポン』というのは、国の名前ですか?」

「そうです……つか、知りませんか日本? 違う言語だと『ジャパン』とも云いますが」

「申し訳ございません。わたくしどもも、さすがに異なる世界の国のことまでは、詳しく存じ上げておりませんので……」

 返答を聞くや、思わずくらりとした眩暈を覚えた。

 ――『異なる世界の国』って……なら、ここは異世界か……!

 そう考えると納得もできる。――たとえば、ああやって突然言葉が通じるようになったこととか。

 ようするに、あのビー玉もどきが、かの国民的長寿アニメに出てくるところの青い猫型ロボットがポケットから出してくれる便利道具『ホンヤク■ンニャク』みたいなもの、だったってことでしょう?

 さすが異世界、何でもアリだな。

 ――ホント泣きたい……なんで私が、こんな異世界なんかに迷い込んでるハメになってんのよ……これが夢なら早く醒めて欲しい……。

 しかし、ついさっき目を覚ましたばかりだというのに、これが夢であるはずもない。

 こうなったら仕方ない、もはや無理矢理にでも腹を括るしかないか。

 受け入れるしか道は無い。

 これが現実なら……きっと、泣いてみたところで、この状況は何も変わらないだろうから。

「じゃあ、セルディオさん……」

「『さん』などとは畏れ多い。どうぞセルディオとお呼びください」

「いや、初対面の人を相手に、それは座りが悪いので遠慮します。慣れてきたら『さん』呼びやめますから、今は許してください」

「そうですか……では、この場だけでしたら、どうぞ、お好きに」

 困ったような表情されちゃったけど、そこは諦めてもらうしかない。NOを言えない謙虚な日本人に、最初から呼び捨てはハードルが高すぎる。

「それで、セルディオさん」

「はい」

「じゃあ、ここは、私の住んでた日本という国が存在しない世界、ってことなんですね?」

「その通りです。この世界を、わたくしどもは『ラーズワーズ』と呼んでおります」

 ――聞いたことも無い。

 こりゃ本格的に異世界で間違いなさそうだ、と、思わず深くタメ息を吐いた。

 異世界トリップといえば……王道は、『勇者としてこの国を救って欲しい』的なことを言われてしまうんだろうが……無理だよ私? 運動オンチだもん!

 一国を救えるほどの身体能力なんてものがあれば、今頃は何かのスポーツでオリンピックにでも出場して金メダル獲得とかしちゃってるはずだよ。しがない三流大学の女子大生なんて地味なことやってないよ。

 だから、案の定セルディオさんから「実はリエコ様を、このラーズワーズにお喚び申し上げたのは、わたくしでございます」なんてことを言われちゃった時は、すかさず「無理です!」と、食い気味にもホドがありすぎるタイミングでもって返していた。

「私、しがない平凡な一学生なんですから! 魔王を倒せとか言われても出来ませんし!」

「は……? 魔王……?」

「違うんですか? じゃあ、戦争のために力を貸せとかいうことですか? それも無理ですよ! 所詮、平和ボケした日本人ですから!」

「あの、リエコ様……わたくしには、リエコ様が何をおっしゃっているのかが、さっぱり……」

「だって、セルディオさんが私をこの世界に喚んだんでしょう? なら大方、この世界を救えとか、そういう話じゃないんですか?」

 無理ですよ! 何も出来ませんよ! と、胸の前で両腕を大きく×の字にクロスさせるジェスチャーをしてまで、あくまでも無力な自分を主張する私を、ほんのひとときとはいえ、呆れたように眺めてタメ息を吐いたセルディオさんは。

「そう身構えずに聞いていただきたいのですが…」と、困ったような微笑みを向けた。

「確かに、リエコ様に、この世界を救っていただきたいと願っていることには、違いありません」

「だったら……!」

「とはいえ、か弱い女性であるあなた様に、武を以て事を成し遂げていただきたいなどと、望んでいるようなことは決してございません」

「なら、魔法ですか? そんなチートな特殊能力とかも、一切、持ってないですよ?」

「いいえ、何の特殊なことも望んでおりません。わたくしどもがリエコ様に望んでいるのは、ただ一つ」

 そしてセルディオさんは、にこやかに…なのにどこまでも大真面目に、そんなセリフを言ってくれちゃったのだった。



「リエコ様には、この世界で恋をしていただきたいのです」




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