6・《もう彼女は、ピアノを弾く事もできない》
「なぁ、どうして俺を止めたんだ?」
グラスから口を離し、末藤が問いかけた。
気持ちが落ち着いたからだろうか。最初は櫻井を責めるつもりだったが、今は素直な気持ちで聞けた。
「言ったよな。間黒をブッ飛ばせるなら、俺はどうなっても良いって」
「確かに聞いたよ」
「じゃあ、何で?」
末藤が間黒に殴りかかった時、阻止したのは櫻井だった。
飛びかかった末藤の横腹を思い切り押し、軌道を逸らせた。その為、彼の拳は間黒に届く事なく、床に這いつくばる結果になったのだ。
何故止めた、との質問に櫻井は沈黙した。
目を閉じ、深く思考し、本気で考えているようだった。
「村松さんが戻って来た時、末藤君がいないと意味が無いと思ってさ」
たっぷりと間を空け語られた理由が、末藤の顔を紅潮させる。
「なっ。ふざけるんじゃ……」
「僕はふざけていない」
櫻井の表情は真剣そのものだった。
「馬鹿にしてもいないし、からかってもいない。上手く言葉に出来ない。けど、二人じゃないと意味が無いと思った。だから止めた」
ずきり、と胸が痛んだ。
紗耶香が学校に戻って来れるなら、自分はどうなっても良いと思っていた。逆を言えば、接点を失った二人は二度と会えなくなってしまってもおかしくないと言う事だ。
頭では分かっていたが、心の奥底では目を逸らしていた事実を突きつけられ、思わず末藤は言葉を失う。
「何で村松さんの為にそこまでするの?」
櫻井が、穏やかな口調で問う。言いたくなければ言わなくていいと、彼の顔は語っていた。
末藤は逡巡する。
今まで誰にも語った事は無い。相談した事も無い。友人と言える者は多くいるにも関わらずだ。
進学校に通う、ピアノが得意な美少女に恋する素行不良の生徒。
馬鹿にされると思ったのだ。だから言えなかった。
中学時代の末藤の友人たちは、彼が県下有数の進学校である葦原高校を受験する事でさえ笑い飛ばしたのだ。
そのような相手に彼の心の一番柔らかい部分を曝け出すのは、強い嫌悪感があった。
だが、目の前の童顔の少年はどうだろうか。
深い付き合いがあった訳でも無い。親しく話始めて一週間程度の相手だ。
それでも、櫻井ならば馬鹿にしない気がした。本気で聞いてくれる気がした。
「五月……くらいだったかな。村松サンの入院中の事だ。古本屋で雑誌を見つけたんだよ」
「雑誌?」
ぽつり、ぽつりと末藤が語り始める。
「音楽の専門誌。去年の奴が百円で売ってた。ソレの表紙に村松サンの名前があったんだよ。ピアノとか全然わかんねぇけど、何となく気になって買ってみた」
雑誌はクラシックの専門誌。
中学時代、紗耶香は大きなコンクールで賞を取っていた。その時のインタビューだった。
一ページほどの、写真付きの記事。見出しは《新鋭の美少女ピアニスト、将来の展望》だった。
「料理が好き、って書いてたんだ」
脈絡なく料理の話になったにもかかわらず、櫻井は静かに聞いてくれていた。
「包丁で野菜を切る時のリズミカルな音が好きだって。鍵盤を叩く時のように、心を込めるのが好きだって」
写真の中の彼女は、幸せそうに笑っていた。
恥ずかしい話だが、天使のようだとさえ思えた。
「その時は、早く退院してこねーかな。って思っただけだったよ。で、彼女は学校に戻って来た。けど――」
「戻って来た彼女は別人のようになっていた」
「あぁ、そうだよ。見ててすげぇ辛かった。腕に手袋してるし、喋んなくなったし」
傷跡を隠す白い手袋。震える手でボールペンを握る姿。何度もこぼし、落とし、末藤は拾い上げ、紗耶香に渡していた。
そして、いつも彼女はどもりながら、そして申し訳無さそうな顔で言うのだ。「ご、ごめんなさい」と。
辛そうな、泣きそうな顔を見ていると胸が締めつけられた。どうにかして笑顔にしてやりたかった。
「もう、彼女は包丁を握れない。ピアノを弾く事もできない。人を幸せにする音は、二度と奏でられない。なのに間黒は――」
――彼女を障害者呼ばわりし、排斥しようとした。
彼女の苦痛も、絶望も、苦悩も、全てを無視し、自分の都合を押しつけようとした。
「アイツにとっちゃ、俺や村松サンは進学率に影響を与える邪魔物にしか映ってないんだろうぜ。何せ責任ある学年主任サマだからな!」
テーブルを叩き、皮肉たっぷりに吐き捨てる。一瞬、近くの席の女性と目が合った。どうやら大きな音を出し過ぎたようだ。
軽く頭を下げ、小声を意識して続ける。
「俺は、彼女に笑顔で学校に通ってほしいって思った。それだけだよ」
グラスに口を付けようとするが、既にコーヒーも水も空っぽだった。
向かいの太陽も同じで、氷だけの入ったグラスをからからと揺らしている。
「同じだね」
「へ?」
今まで黙っていた櫻井が唐突に口を開いた。
「結局、末藤君も僕と一緒で理由が分かってない」
「いや、だから今のが理由だって」
「好きだから?」
恥ずかしい台詞を平然と放つ櫻井。
「ま、まぁ、そう言う事だよな。ってか、好きだとかムカつくとかに理由なんて無ぇし」
「それは本心?」
「当たり前だろ。嘘とかデタラメでこんな話できるかよ。だ、誰にも言うなよ。一応信用してるんだぜ、お前の事」
「信頼、か」
天井を見ながら、櫻井が呟く。彼の声は何かを迷っているようだった。
再び、無言の時間。
こんなときに限って空気を読まないウェイターは水も持って来ない。
「なら、僕も末藤君を信頼して本心を言うよ」
真っ直ぐに末藤を見つめ、穏やかな口調で櫻井が口を開く。
長い睫毛が特徴的な童顔に浮かべられた優しい笑顔。
しかし、人畜無害そうな表情から放たれた言葉は想像を絶するものだった。
「あんな生臭いクズ教師のせいで末藤君が罪を負う必要はどこにもない」
あまりにも意外。
普段と同じ淡々とした喋り口からは考えられないほどの過激な発言。
「お前、結構言うタイプなんだな」
驚き、戸惑いながらも素直な感想を漏らす。
「本心だよ。正直、間黒には僕も頭に来てる。人間として最悪の部類だと思うね」
「けど、どうしろって言うんだよ。アイツは教師で、俺の力じゃどうしようもなくて――」
自身の無力さに歯がゆさを覚え、末藤が俯き、拳を握りしめる。
「大丈夫」
震える末藤に向かい、櫻井が子供をあやすような声で語りかけた。
ただし、口調とは裏腹に彼の口から放たれたのは
「僕らならやれる。間黒を、潰せる」
さらに過激な、そして現実離れした発言だった。
冗談を言っている様子は無い。自信どころではなく、確信のこもった声だったからだ。
唐突な発言の連続に末藤が目を見開く。
「末藤君が――協力してくれたらね」
「お前……ッ!?」
顔を上げた末藤が、思わず息を飲んだ。
櫻井は、笑っていた。
氷のように冷たく、悪魔のように艶やかに。
そして、彼の言葉にはただ「やれるからやる。それだけだ」と言う強い意志が込められていた。




