5・《なんだってんだよ。この目は》
七月五日。期末テスト最終日。
全ての教科が終わり、後は夏休みを待つだけとなった。
周囲の生徒のざわめきが、彼らの気分の高揚をそのまま表していた。
本来ならば末藤も解放感に身を任せ、羽目を外しているところだろう。
しかし、今の彼にはどこかに出かけるという気持ちには沸かなかった。
理由はたった一つ。
期末テストにも関わらず、一週間姿を見せていない村松紗耶香の行方だ。
「なあ、櫻井」
帰り支度を始めていた後ろの席のクラスメイトに声をかける。
彼女が姿を消してから、櫻井太陽と話す機会は何度もあった。しかし、どれも他愛のない世間話やテストについて。
どうしても紗耶香の話題を出す事はためらわれた。
「村松さんの事だね」
櫻井の答えに、無言で頷く。
「何で、来ねぇのかな」
「分からない。担任も何も言わないから。心当たりは?」
「……ある」
ある、と言うよりは「一つしか無い」と言うべきだった。
櫻井も予想していたのだろう。瞳を細め、同意する。
「間黒、だね」
「ソレしかねぇだろ。絶対に何かされたんだよ」
一週間ほど前、末藤が中庭で間黒と争った日の事だ。間黒は去り際に末藤と紗耶香に呼び出しをかけた。
「呼び出しを受けてたよね。末藤君は何を言われたの?」
帰宅しようと立ち上がりかけていた櫻井が、小柄な体を椅子に預ける。
「何もなかった」
「何も?」
櫻井が怪訝な表情を見せる。当然だ。末藤は間黒に目を付けられているのだ。その末藤を呼び出しておきながら、間黒が何もしないわけが無い。間黒を知るクラスメイト全員が櫻井と同じ反応をするだろう。
「何もって言うよりは、呼びだし自体無かった事になったんだよ」
五時間目終了後の休み時間、トイレに向かおうと廊下を歩く末藤は間黒修光に呼び止められた。
用件は簡単だった。期末テスト直前なので呼び出しは無しにする。その分試験勉強をしろ。との事だ。
「あの時は何も疑って無かった。村松サンも解放されたと思ってた。けどよ」
「村松さんだけは呼び出しを受けていた。って事?」
「それ以外考えらんねぇよ。んで、ヒデェ事言われたんだ。だから学校に来てねぇんだよ!」
末藤が机を叩き、吼える。
紗耶香を一方的に攻撃するためには、末藤は邪魔な存在だった。故に彼はおとがめなしで解放された。
彼の分まで紗耶香が陰湿ないじめを受けることになったと考えると、胸が張り裂けそうになる。
しばらく、無言の時間が続く。
荒い息で肩を震わす末藤に対し、無言で額に指を当て俯く櫻井。何かを迷っているように見えた。
二人の刺々しい雰囲気に他のクラスメイトはとっくに逃げ去り、今は彼らだけしか残っていない。
「もし、もしだよ」
一分近く黙っていただろうか。
ようやく櫻井が顔を上げる。彼の両の眼は、真っ直ぐに末藤を見つめていた。
櫻井に見据えられた瞬間、末藤の背中に寒気が走る。
――なんだってんだよ。この目は。
自分と同年代の少年がこのような顔ができる事が信じられなかった。
深い悲しみと疑いの色。他人を拒絶する色。にも関わらず、どこか救いを求めるような、助けてくれと叫んでいるような色。
今まで後ろの席に座っていた友人が全く別の生き物に変わってしまったかのように思えた。
「もし、村松さんの不登校の原因が間黒だとしたら……末藤君はどうする?」
嘘やごまかしは必要ない。本心を聞きたい。と櫻井の瞳は語っていた。そして、拒否する事を許さない圧力があった。
「決まってるだろ。ブッ殺すんだよ」
素直に、末藤が告げる。
迷いは無かった。間黒を二度と学校に来れないような体にしてやれば、きっと紗耶香も戻ってくるに違いない。
その為ならば、自分はどうなっても構わない。それだけの決意があった。
「短絡的だね」
「何とでも言えよ。本心だからな」
突き放すような言葉だったが、櫻井の顔に先ほどの不気味は表情は無い。
代わりに、彼が浮かべていたのは――
――笑顔だった。
「とりあえず僕らが出来る事は一つだ」
僕 《ら》 を強調し、櫻井が立ち上がる。
「おい、どこに行くんだよ」
「職員室。とにかく担任に聞いてみようよ。もしかしたら季節外れのインフルエンザって可能性もゼロじゃないんだからさ」
■
「村松さん。学校辞めるかもしれないの」
担任である若い女性教諭の言葉で、末藤の中の何かが壊れた。同時に、凄まじい衝撃音が静かだった職員室内に響き渡る。
衝撃音の正体が、自分自身がデスクを蹴飛ばした音だと気づいたのは数秒後だった。
教師たちの視線が末藤に刺さる。しかし、気にしている余裕はなかった。
「どう言う事スか!?」
今にも掴みかからんばかりの怒りを見せる末藤。
「私にも分からないわ! テストを無断欠席したかと思えば、今日になって『学校辞めたい』って電話が来て。私も混乱してるのよ!」
ややヒステリー気味に怒鳴り返す担任と、怒り狂った末藤。もはや会話が成立するような組み合わせでは無かった。
「二人とも落ち着いて。先生、いくつか聞きたい事があるんですけど良いですか?」
今まで黙って聞いていた櫻井が口を出す。
「聞きたい事?」
「先生もクラスから退学者が出るのはマズいんですよね。協力して下さい」
何故か皮肉げな口調の櫻井に、違和感を感じた様子ながらも担任は無言で頷いた。
怒りのやり場が見つからず、末藤は憮然とした表情で二人のやり取りを観察する。
「最後に村松さんを見たのはいつですか?」
「いつって、テストの前の日……帰りのSHR……いや、違うわ。その後、職員室の前と通り過ぎるのを見たわ」
「一組から職員室を通らないといけない場所って、どこだったかな」
「……指導室だよ。セッキョー部屋」
全てが繋がったとばかりに末藤が吐き捨てる。
彼らの予想通り、村松紗耶香は一人だけで呼び出しを受けていた。
「先生は、村松さんがある教師から執拗ないじめを受けていたのはご存知ですか?」
「え?」
担任の顔色が変わる。
恐らく、彼女は気付いていた。気付いていたにもかかわらず放置していた。
何も言えずに口をもごもごと動かす担任。
「最ッ低ェだな。あんた」
意識せず、末藤の口から罵倒の言葉が漏れる。途端に手で顔を覆い嗚咽を漏らす担任。
「次の質問に応えてください」
泣いた所で無駄だ、とばかりに櫻井が続ける。
機械のように冷たい口調だったが、担任に同情する気にはなれなかった。紗耶香は、それ以上の苦しみと悲しみを抱えていたのだ。
泣いただけで無かった事に出来ると思っているのならば甘え以外の何物でもない。
「電話口で、村松さんは辞めると言う事以外に何か言ってましたか?」
「……それ以外?」
顔を上げ、しゃくりあげながらも問いに応えようとする担任。
「そういえ、ば……」
何かを口にしようとした瞬間、彼女の口が閉じられた。
嫌な予感がした。
担任の目線は、末藤たちの背後をじっと見つめている。
そして、彼の背中には敵意と悪意がたっぷりと込められた視線が叩きつけられている。
「その質問には私が答えてやろうか?」
タバコで焼けた、しゃがれた声。百万の虫が這いずりまわる音より不快な男の声。
予想通りの、そして今一番聞きたくない男の声。
「私みたいな障害者は普通の学校には通えません、って言ってたんだよ」
「間黒ォォォォォォォォォォ!!」
振り向くなり末藤が拳を振り上げ、背後の男を睨みつける。
「さぁ、殴ってみろ」
恍惚とした表情で間黒が両の腕を広げる。
衆人環境の中、教師を殴ったと言えば言い訳は利かない。最悪の場合、警察沙汰にさえなりうる。
しかし今の末藤の頭には一切の打算は無く、ただ目の前の敵を叩きつぶす事した存在していなかった。
全身に力を込め踏み込む。
二人の距離は一メートルもない。
腕を振りおろせば、簡単に間黒の顔面に拳が叩きこめるだろう。
「ブッ――殺すッ」
今、まさに間黒へと拳が届こうとしたその時。
末藤の体が宙を舞った。
いくつかの椅子を巻き添えにしながら、リノリウム張りの床を末藤の体が転がる。
起き上がり、周囲と自分の体を確認する末藤。
散らばった書類の山、乱れた椅子。どうやら、間黒を殴る事は出来なかったらしい。
アバラが痛む。しかし、転がった時に腹は打っていないはずだった。
何が起きたのかが全く分からない中、彼の耳に飛び込んできたのは――
「すみません。末藤君って、時々急にジャンプして床を転がる奇行癖があるんですよ」
――呑気とも言える櫻井太陽の声だった。