4・《大怪獣ケムラ》
「ってか櫻井。何でお前、《ヒトゴロシ》先輩と仲良いワケ? あの人はガチでヤバイだろ」
五限目が始まる直前、太陽の前の席の生徒――末藤剛毅が押し殺した声で問いかけてきた。
《ヒトゴロシ》。太陽の所属する部活の先輩である高嶺が影で呼ばれている名が、彼の胸をざわめかせる。
「ヤバい、って何が?」
またか、と内心で嘆息。しかし、顔には出さないよう素知らぬ顔で問い返す。
高嶺千晶と一緒にいる所を見た者は誰もが太陽に聞くのだ。
――どうして《ヒトゴロシ》と一緒にいるのか?
――《あの噂》は本当なのか?
ただの興味本位。野次馬根性。
自分で真実を確かめる気などない。ただ、進学校と言う現実にぽつんと浮かぶ非日常を覗き見したいだけだ。
誰も本心から高嶺に関わりたいと思っている訳ではない。
「噂は噂だよ。普通に考えて高校に人殺しが学校に通ってる訳無いでしょ」
いつもの質問に、いつもの答えを返す太陽。
誰も彼も同じ事しか聞いてこない。まるで小学校の転校生が質問攻めに遭っている時のようだった。
「でもよ、火のない所にケムラは立たずって言うじゃん?」
答えに満足できなかったのだろう。末藤は太陽の机に肘を乗せ、目を輝かせて質問を続けてきた。まるで樹木に抱きつくコアラだ。
「煙だろ。なんだよケムラって。怪獣じゃないんだから」
太陽の頭に、カラフルな背びれを光らせた怪獣がスカイツリーをなぎ倒すビジョンが浮かぶ。
「大怪獣ケムラはともかく、噂が気になるなら本人に聞けばいいじゃないか」
「大怪獣とか一言も言ってねーだろ。ってか《人殺ししましたか?》なんて聞けるかよ」
確かにその通りだ。見知らぬ人間から「あなたは人殺しですか?」などと聞く人間は頭がどうかしている。
それでも、興味本位の問いに答える義務も義理も太陽は持っていない。出来るだけ角の立たない言葉ではぐらかすことにする。
「確かに、大怪獣にしては弱そうな名前だよね。それはともかく、噂だけで人殺し扱いは無責任だよ」
「やっぱ、大怪獣って言うくらいならガとかドとかバとかの濁点が欲しいよな。でもよ、どうしたらヒトゴロシなんてアダ名がつくんだよ。やっぱおかしいだろ」
「うーん、ケムリの怪獣だから濁点なんか付けたら原型が無くならない?」
あまりにも喰い下がってくる末藤。大怪獣の話で誤魔化せそうにない。今のこの男の瞳には、《ヒトゴロシ先輩》のことしか映っていないようだった。
「あぁ、確かに原型は無いよな。んで、どうしてあの先輩、ヒトゴロ――」
「それこそ――」
突然のことだった。太陽の表情が変化し、末藤の質問を遮ったのだ。
睫毛の長い大きな目が鋭く細められ、幼い顔立ちが厳しい表情へと変わる。
突然の出来事に口を開いたままの末藤。呆けた級友に向かい、太陽は「話は終わりだ」とばかりに続きを口にする。
「――《噂に尾ひれがついて、もとの話の原型が無くなってしまったり》とかさ」
太陽の言葉に、末藤が苦い顔で口をつぐんだ。
「……そうだよな。悪ぃ」
彼は気付いたのだ。噂話でレッテル貼りをする自分が、障害と言う理由で生徒を排除しようとする男と同じになっていた事を。
「知りたいなら本人に話しかければ良いよ。僕は噂の元になった話も知ってるけど、誰にも話さない。噂やレッテルがどんな影響を与えるから知ってるからね」
末藤が頭を下げた途端、笑顔を浮かべる太陽。反省した人間に追い打ちをかけるほど彼は愚かでもサディストでも無い。
「分かった。気をつけるわ」
「もう授業始まるし、早く準備しなよ。あと、《アレ》どうすんの」
太陽が視線を《アレ》に向け、末藤が追う。
「見なかった事にしよう」
迷いの無い末藤の言葉に太陽は頷いた。
彼らの視線の先にあるのは、声を押し殺して身体を震わせる女生徒。末藤の隣の席に座る村松紗耶香だった。
「ふふっ……だ、大怪獣ケムラ……真面目な話なのに、ケ、ケムラ」
何故か爆笑している紗耶香から目を逸らし、太陽は鞄から英和辞典を取り出すことしたのだった。
■
「と言う事があったんだ」
午後十一時半。
葦原高校から徒歩で十五分ほどのマンションの一室。
アルバイトから帰った太陽は、妹の背中に向かい今日の出来事を披露していた。
壁一面には隙間なく本が敷き詰められた巨大な本棚。そして、本棚に収まりきれずに、山のように積まれた書籍と雑誌。
ナントカ賞を受賞したベストセラー小説から、漫画本、コンピュータ・プログラミングの専門書に、果ては《裏ツール! これがあればP2Pは完璧! ウイルス対策付き!》等と言ういかがわしいものまで、六畳の部屋は本で溢れかえっていた。
一応、部屋の隅にはデスクトップ型のパソコンの鎮座する勉強机と安物のベッドが備え付けられているが、本の山でほとんどが隠れている。
妹――月花は申し訳程度に置かれた勉強机に向かい、無言で本へと向かっていた。
「珍しい。お兄が、クラスの話をするの」
読んでいたハードカバーの本にしおりを挟み、月花が振り返った。
年齢にそぐわない小柄で華奢な体躯と、兄によく似た童顔の少女の顔が目に入る。普段から無表情な妹の口元は僅かに緩んでいた。
「ごめん。邪魔した?」
「ううん。楽しい」
腰の近くまで伸びる長い黒髪を、指で弄びながら答える。伏し目がちな瞳は太陽の顔ではなく、彼の座るベッドを見ていた。
「友達の話、聞きたい」
「友達、か」
月花の言葉に太陽が苦笑を浮かべる。
思えば、彼にとって友人と呼べる相手はいなかったように感じたからだ。
《過去の事件》をきっかけに、彼ら兄妹は他人を信じる事を止めた。
どんなに苦しくとも、どんなに辛くとも、見返りなしで他人が助けてくれることはあり得ない。
あらゆる困難も、苦痛も、自分の力で乗り越えなければならないと自らの身で学んだからだ。
他人とは適度な距離を置き、誰も助けない代わりに誰にも助けを求めない。
そう決めていたにも関わらず、今日の太陽は自らの掟を破った。
末藤たちが間黒に絡まれた時、彼は気配を殺してその場から離れた。
そして、《特殊な技能》を持つ知り合いに連絡を取ったのだ。
思惑通り、高嶺千晶は嬉々として動いてくれた。間黒のポケットから財布をスリ取ったのだ。
そして、盗んだ財布をメールで呼び出した月花――委員会が終わり、今まさに昼食に口をつけようとしていたらしい――に預け、末藤たちから離れた場所で待機して貰った。
どうして、単なるクラスメイト相手にそこまでしようとしたのか。
末藤とも、そして紗耶香ともほとんど交流は無かった。
――なのに、どうして?
「友達じゃないよ。クラスメイト」
答えの出ない問題を前に、彼は妹に向かい否定の言葉を口にすることしかできなかった。
同時に、何故か――胸の奥がちくりと痛んだ。
「それより試験勉強は大丈夫なの?」
胸の痛みを振り払うように、無理矢理に話題をすり変える。
明日から期末試験。
年子の妹は、クラスは違えど太陽と同じ学校に通う同級生だ。当然、彼女もテスト期間に入る。
「お兄よりは時間があるから」
――この本全部読んでおきながら、僕より時間がある、か。
胡散臭さを具現化させた装丁のパソコン雑誌を手に取り、嘆息する。
まさに乱読家。知識を吸収する巨大なスポンジ。妹の才能を誇ると同時に、呆れさえ覚えてしまう。
「僕にはとてもじゃないけど出来ないや。じゃあ、凡才は試験勉強してくるよ」
軽く声を上げ、立ち上がる。
妹と違い、特に秀でた才能が無いと信じる太陽が将来の為に出来る事は、勉強くらいしか無いように思えた。
「お兄には、お兄にしか出来ない事、あるよ。頑張って」
クマのプリントされたピンクのパジャマをひらひらさせ、月花が見送る。
「ありがとう。おやすみ」
静かにドアを閉めた瞬間、太陽の体に一気に疲労が襲いかかり膝が折れた。
ここ数日、アルバイトと試験勉強でロクに寝ていない。
職場に事情を話せば簡単に休みは取れる。しかし、今後の生活の事を考えれば休んでいる暇は無かった。お金はいくらあっても足りないのだ。
気合を入れるため、大きく深呼吸。
明日は自分が朝食の当番。期末試験なので弁当を作る必要はないが、それでも早起きが必要だ。
中間試験の成績は上々だった。しかし、維持するには少し足りないように感じる。
試験は気が重い。
明日の事は考えたくない。
間黒の姿を五感で捕らえるのはうんざりだ。
それでも、それでも――
――明日はあの二人、どんな顔をするんだろうな。
二人のクラスメイトの顔を思い浮かべる。
軽薄そうな顔を羞恥に染めて口ごもる直情的な少年と、その男の行為をどんな顔をで受け止めて良いか分からずに戸惑う少女。
彼ら二人の姿を見れるなら、少々の嫌な事なら無視できそうな気がした。
初めて抱く感情。形容しがたい高揚感を抱き、彼は自室の勉強机へと向かう。
だが――
彼の期待とは裏腹に――
翌日、村松紗耶香が登校してくる事は無かった。
翌日も――
その翌日も――
そして、試験が終わっても。
どうしてこの男は大怪獣ケムラの話で煙に巻けると思っていたのだろう。