3・《人と違うのがそんなにおかしいのかよ!?》
間黒に聞かれた。最も聞かれてはいけない相手に、絶対に耳に届いてはならない陰口を。
普通の大人ならたかだか高校生の戯言と、例え内心ではらわたが煮えくりかえっていようと表面上は許せるはずだ。
だが、間黒は普通の大人では無い。
陰湿で、陰険で、支配欲に忠実な、教鞭をとっている事が信じられないような相手なのだ。
百八十センチを超える巨体が無言で末藤を見下ろす。
「すいません。謝ります」
素直に謝って許してもらえる相手だとは思わなかったが、まずは頭を下げる。
「身体障害者のオトコは精神障害者か。お似合いだな?」
謝罪の言葉は完全に無視。いつものやり口だ。
間黒は体罰を行わない。不正も行わない。ただ、陰湿に相手の欠点や弱点を指摘し、人格否定をし続ける。
気に入らない生徒の問題点を上げ、莫大な量の反省文や追加課題を押しつける。そして、無視をすれば考課にマイナスを加える。
勿論、反抗や抵抗をしても同じだ。指導を無視したという名目で何らかのペナルティを科される。間黒のいびりに耐えかねて不登校を余儀なくされた生徒もいる。
「良いんスかね。それ、差別発言じゃないんですか?」
末藤が精一杯の虚勢を張り、言い返す。しかし、無駄だと言う事は分かっていた。
上級生達が言うには、間黒の行為や発言が問題になった事が何度かある。しかし《調査の結果、裁量権に則った正当な指導であると言える。ただし一部過度な物もあったので厳重注意を行う》との結果。
公務員の身分の保証。身内びいき。悪質な不正隠し。いつの時代でもよく聞く話だった。
「差別ではない。事実だ。貴様みたいな不良も――」
間黒がまず末藤を指差し、そして
「貴様のような、《ロクに喋る事も出来ない》ヤツも――」
続けて、紗耶香を指差す。そして。
「《普通の学校》に来ちゃ駄目なんだよ。知らなかったのか?」
間黒の表情に、仕草に、発言に、末藤の胸が疼き吐き気がこみ上げるを感じた。
紗耶香は顔を俯け、目に涙を浮かべて震えていた。
「……は……だろ」
意識せず、声に出た。
自分の事は何と言われても構わない。ただ、紗耶香の事だけは許せなかった。
彼女への侮辱が、まるで自分へ向けられているように感じられた。
「何か言いたい事でもあるのか?」
「村松さんは関係無ぇだろって言ってンだよ! 事故じゃねぇかっ。なんでそこまで目の敵にするんだよ!」
紗耶香は、入学直後の事故によってピアノだけではなく《言葉》も失った。
吃音症。何かを喋ろうとするとき、言葉が出ずにつっかえてしまう。言葉の出だしが震えるように詰まってしまう。
それも、本人の自覚無く、だ。
会話に関しては日常に支障はない。だが、思春期の少女にとって突如降ってわいた後遺症は言葉を奪われたも同じことだった。
何かを口に出す事を恥ずかしがり、次第に無口になっていく彼女を見て胸が痛くなった事を末藤は思い出す。
それでも、彼女は笑った。末藤たちを見て、涙を流すほど笑ったのだ。
紗耶香は普通の少女だ。自分達と一緒に学び、遊び、そして卒業できる。そう言ったつもりだった。
しかし、間黒の答えは違った。
「例え事故でも、死ねば学校に来れないだろう? 障害も一緒だ。腕が無くて勉強ができるか? 体育ができるか? ロクに鉛筆も握れないような人間が普通の授業を受けるなんておかしいだろう」
事実、彼女の握力はピアノどころか、シャープペンシルで文字を書く事も苦労するほどに落ち込んでいた。体育の授業はすべて見学。見る者が見れば学生生活を送れているとは思えないだろう。
それでも、彼女は中間テストではどうにか平均点をキープし、ハンデの中でも必死にもがいている。
末藤の拳が力強く握りしめられた。どんなに悔しくても、拳に力を込める事すらできない紗耶香に代わるかのように。
「人と違うのがそんなにおかしいのかよ!? じゃあ何だ? テメェのハゲも障害か? あぁ?」
「……貴様。教師を何だと思ってる」
ハゲ、と言う言葉に間黒の顔色が変わる。コンプレックスなのかもしれないが躊躇する気持ちは無い。
「逆立ちする八ツ足金無垢マントヒヒ様」
「俺は、テメェを教師とは認めねぇよ、ツルッパゲ」
二人の顔が接近する。
もう、何もかもどうでも良かった。例え学校を追われることになっても、この腐った大人を思い切り殴らなければ気が済まなかった。
いつの間にか多くの野次馬が末藤たちをかこっていた。証人は数えきれないほどいる。手を出せば間黒の思い通り。
それでも構わない。
一触即発。緊迫の時間。
一秒、二秒、三秒。
永遠とも思える数秒が末藤の決意を固めて行く。
そして、今まさに拳を振り上げようとした瞬間――
違和感に気付いた。
「八ツ足金無垢マントヒヒ?」
今、何者かが自分たちの会話に割り込まなかっただろうか。
そう言えば、誰かを忘れている気がした。
少しだけ頭に冷静さが戻り、声の方へと振り向く。
目に入ったのは、末藤の予想通りの顔。
やや小柄な体躯、そしてよく整った童顔が末藤を諌めるような瞳で見つめていた。
――末藤君が退学になったら誰が紗耶香さんを守るんだ?
気のせいかもしれない。思い込みかもしれない。しかし、櫻井の瞳は確かにそう語りかけているように感じられた。
「すみません。急用だから割り込ませてもらいました。先生、ちょっといいですか?」
櫻井が、末藤を押しのけ前へと進み出る。
「今は忙しい。見て分からないのか?」
「妹が先生の財布を拾ったって言ってて、二組の教室の前で待ってるんですよ。委員会の仕事でご飯も食べてないから、行ってあげてくれませんか」
間黒の問いには答えず、櫻井が一方的に用件だけを述べる。謝罪を無視した間黒が末藤に行った事をそのまま返されていた。
「財布?」
まさか、と言う顔で間黒がポケットを調べる。ズボンを叩き、スーツをまさぐり、徐々に焦りが見えて行くのがありありと見えた。
「早く行ってあげてください。もうすぐ昼休みが終わってしまうので」
「くっ……」
末藤に手を出させる事が出来なかった悔しさと、良い年をして財布を落とした情けなさの混じった表情。ざまあみろと舌を出したいくらいだった。
「一年二組だったな」
「はい」
「分かった。すぐに行く」
――早くどこかにいっちまえクソ野郎。
背を向けた間黒に向かい、中指を立ててやろうと末藤が力を込めた時だった。
「末藤と村松は放課後に生徒指導室に来るように」
振り返り、捨て台詞を吐き捨てる間黒。まだ受難は終わっていないようだ。
「あと櫻井!」
「はい」
「お前の制服もおかしい。いい加減夏服に変えなさい」
「善処します」
未だに春用の長袖ワイシャツを来ている櫻井にも説教をする事を忘れていなかった。
葦原高校の校則に衣替えの義務は無い。つまり、完全なとばっちりなのだが櫻井は涼しい顔で間黒の背を見送っていた。
■
「やっと行ったか。あー、ムカつくな畜生」
間黒の姿が見えなくなるなり、末藤が毒づく。気分は最悪だった。
「あ、あ、ああありがとうっ。ふ、ふ二人とも」
「俺は何もしてないって。って言うか今のは俺のせいだったし。礼を言うなら櫻井だろ。マジで助かった」
恐らく、櫻井がいなければ末藤は間黒に殴りかかっていた。そして、良くて停学、最悪の場合退学さえもあり得たのだ。心からの礼を口にし、頭を下げる。
「僕は何もしてないよ。お礼なら八ツ足金無垢マントヒヒにでも言えばいいんじゃない?」
「だから何なんだ。そのマントヒヒ……」
大したことはしていない、とばかりに肩をすくめる櫻井。思わず脱力する末藤。そして、二人を見てくすくすと笑う紗耶香。
放課後の事を考えれば気が滅入ったが、とりあえずの危機は去ったのだ。
同時に、末藤の頭に疑問がよぎる。
――どうして、都合よく間黒の財布が見つかったんだ?
末藤達が口論していたのは、ほんの三分から五分程度だった。その間に都合よく櫻井の妹――月花とやらが財布を拾い、連絡を取るだなんて事があり得るのだろうか。
まぐれや偶然では考えられない。昼休みの廊下を通る生徒は数えきれないほどいる。そして、財布を拾ったからと言って月花が櫻井に連絡する必然性はどこにもないのだ。
「まさかお前……」
窃盗たのか? とは聞けなかった。
例えどのような手段にしろ櫻井が自分たちを助けたのは事実なのだ。
末藤の疑いの目に気付いたのか、櫻井の唇の端が吊りあがる。
やはり、と身構える末藤。しかし、櫻井は笑いながら首を横に振った。
「違うよ。すぐそこで知り合いが拾ったんだ。で、通りかかった妹に頼んだ。二人から離れて貰う為にね。先輩は間黒と面識が無いし、頼めなかったんだよね」
いささか釈然としない答えだったが筋は通っている。
櫻井が盗んだにしろ、知り合いとやらが盗んだにしろ拾ったにしろ、あまり深く考えることではないと思い直す。
「まぁ、いいけどよ。その人にもお礼言っといてくれよ。あと、妹さんにも」
「拾った本人なら目の前にいるよ」
散り散りになっていく野次馬の一人を櫻井が掌で差す。
彼の差した先には、上品そうな立ち振る舞いの女生徒が立っていた。
最上級生の証である胸元の青いリボン、きっちりと切り揃えられた前髪。よく手入れされた背中までの黒髪。
自分たちを助けた生徒の姿を確認し、末藤の、そして紗耶香の顔がこわばる。
「高嶺先輩。お礼言っとく?」
高嶺千晶。紹介されなくても知っていた。
何故なら、彼女は学校で一番の有名人だからだ。
それも、悪い意味で。
「いや、悪い。お前から言ってくれないか?」
「ご、ごめんなさい」
末藤達の答えを予想していたのか、笑顔のまま櫻井が頷く。
「お前、凄ぇ人と交流があるんだな」
末藤の呟きに応えず、櫻井は《高嶺先輩》へと向かっていく。
一言二言の会話を交わし、高嶺が二人を見て微笑んだ。
末藤たちはぎこちない顔で頭を下げることしかできない。
内心で怯える二人に気付いてか気付かずか、櫻井たちは笑顔で何かを言いあっている。何を言っているのかは末藤には分からなかった。
無言で二人を眺めている内に用件は終わったのか櫻井が頭を下げ、高嶺が背を向ける。
その時だった。
末藤の背中に、おぞましいほどの寒気が走ったのは。
――いや、気のせいだろ。
気のせいだと思い込みたかった。信じたかった。
――だって、ここまで声なんて聞こえる訳ないし。
常識的に考えてあり得ない。
――だけど、だけど!
それでも、末藤の耳には間違いなく聞こえた。
――あの先輩のアダ名って。
「あの男は、殺さないの?」と。
――《ヒトゴロシ》、なんだよ。
もしかしたら、自分はとんでもない男とクラスメイトなのかもしれない。
笑顔で《ヒトゴロシ先輩》と話していた櫻井太陽を見て、末藤は動揺を抑える事が出来なかった。
つづく。