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1・《ヅラ、ズレてるっすよ》

いるよね。こう言うムカつく教師。


■六月二十七日(木) 午後零時二十五分


 葦原(あしはら)高校一年一組の教室は、不快な空気に包まれていた。

 梅雨時の湿気混じりの暑さのせいではない。そもそも、物理的なものではない。

 全ての原因は、《ある女生徒》を罵倒し続ける壮年の男にあった。


「授業の邪魔をするなら立ってろ。みんなの迷惑なんだ」 

 嗜虐的な物すら感じらせる声色と表情で、女生徒に向かい男が言い放つ。女生徒は、困ったような、泣きそうな顔で俯いている。


 末藤剛毅(すえどうごうき)は、むかつく胸を押さえながら見ている事しか出来なかった。


――違う。彼女は何も悪くない。

 人を見下す厭らしい瞳を光らせる男に向かい、胸中で呟く。恐らく、教室中の全員が同じ事を思っている事だろう。


「なんだその目は? 文句があるなら言いなさい」


――違う。文句があるのは彼女だけじゃない。ここにいる全員だ。

 この男は、彼女が何も言い返せないのを知っていて攻撃している。自分の絶対的な《力》を確信して行動している。

 弱者を食い物にする大人の見本。最低の男。

 男の言葉に、末藤の胸が痛くなる、喉の奥が熱くなる。叫ばずに、言い返さずにいられなくなる。


 それでも、彼ら子どもは抵抗する事は許されなかった。

 否、過去に何度となく抵抗したのだ。声を大にし叫び、抗議し、訴えた。しかし、事態は動かなかった。

 そしてその後も《彼女》と、《男の意向に添わない者》は攻撃され続けた。


 末藤の隣の少女を罵倒する男――間黒(まぐろ)修光(おさみつ)にはそれだけの力があったのだ。

 教師という立場、学年主任と言う立場、大人と言う立場。

 全ての権限と立場を用いて、間黒は女生徒を自分自身の欲望の為に狙い撃ちしていた。


「何でお前みたいな《障害者》が高校に通ってるんだ? 恥を知れ。恥を」


――違うっ。彼女は、彼女は!

  

 末藤の目の前が真っ赤になる。次に間黒が口を開いた時、飛びかかって殴りつけてやる。後の事など知った事では無い。

 そう決意を決め、立ち上がろう全身に力を込める。


 その時だった

 末藤の真後ろで、誰かが立ち上がろうとする気配を感じたのは。


――駄目だ。俺がやらなきゃ。誰かに任せちゃ駄目なんだ。


 椅子が擦れる音が、無音の教室に響き渡った。

 後ろの《誰か》ではない。


 気付けば、末藤自身が立ち上がっていた。


 教室中の視線が末藤に集まる。もちろん、間黒の目も。

 余程凄まじい形相をしていたのだろう。傍若無人な壮年の瞳は怯えの色を纏っていた。

「なんだ。文句があるのか?」

 睨みつける末藤に向かって言葉が放たれる。

 彼もまた、間黒に目をつけられている生徒の一人なのだ。彼の着崩した制服や、脱色した長髪が気に食わないのだろう。


 二人を囲う沈黙が、静寂が、視線が、敵意が、そして期待と不安の入り混じった空気が教室を破裂させるかのように膨れ上がっていく。


 しかし当の本人の頭は――


――完全に白けていた。


 飛びかかるタイミングを逸してしまっていたのだ。

 普通の人間にとって、暴力と言うのは余程の衝動とタイミングが合致しないと振るう事は出来ない。

 しかも今は校内で、さらには授業中。

 飛びかかるより先に立ちあがってしまった末藤は、完全にその《タイミング》を逃していた。

 間黒のどこか怯えの混じった表情も、彼の暴力衝動を沈下させる一つの要因と言えた。


 お互いが睨み合ったまま、沈黙が教室を支配する。


「あのー。センセー」

 先に口を開いたのは末藤。

「何だ?」

《お楽しみの時間》を邪魔された事が不快だったのだろう。間黒が睨みつけたまま応える。

「ちょっと言いにくいんスけどー」

 へらへらと、間黒の神経を逆撫でするように末藤が続ける。


 途端に、周囲を支配する緊張感。

 もしかしたら暴力沙汰になるかもしれないと、周囲の生徒の期待と不安が突き刺さる。

 しかし、彼の口から放たれたのは緊張感とは全く無縁なものだった。


「あの、ヅラ、ズレてるっすよ」

「……っ!」

 指摘された間黒の顔が真っ赤になった。直後、汚らしい汗を噴出しながら頭部を軽く触り、目を白黒させる。

 余りの滑稽さに教室から漏れ出る失笑が間黒の怒りを加速させる。

「誰だっ! 今嗤ったのは!」

 自身の頭を押さえながら周囲を見渡す。カツラなんてズレてはいない。だが、間黒の挙動そのものが指摘を真実と裏付けていた。

 再び、何人かの生徒からの失笑。当然名乗り出る者はいない。


 教室内の重苦しい雰囲気が、一瞬にして乾いた空気へと変化する。


――よし。上手く行った。

 内心で拳を握りしめる末藤。後は授業終了のチャイムを待つだけだ。


 しかし、状況は彼の思惑通りには進まなかった。


「ふざけるな!」

 間黒の怒号が、そして吐き出された唾が末藤の顔面に襲いかかる。

「何がヅラだ。今は授業中だぞ!? 貴様ら全員、試験範囲の漢字の書き取りを五十回ずつだ! 提出しなければ考課がどうなるか覚悟しておけ!」

 何人かの生徒が射るような視線が末藤に向けられた。期末試験を目前とした今の時期に理不尽な課題を出される事を嫌がったのだろう。

 諸悪の根源は間黒(オトナ)なのに、いつの間にか末藤(コドモ)が悪い事にされてしまう。

 それでも末藤は相変わらずへらへらとした様子で「うぃーっす」と、着席する。


 彼の着席と同時に遅すぎるチャイムが鳴り、間黒は不機嫌なまま退出して行った。

 乱暴にドアが閉められたと同時に教室に呼吸が戻る。徐々にではあるがざわめきも広がりつつある。

 一部の生徒からはいまだに痛い視線が送られていたが無視。そんな事よりやらなければならない事があった。


《やらなければいけない事》。それと比べれば間黒に反抗する事など肩についた糸くずほどにも感じられない。

 大きく深呼吸。心臓の鼓動がドラムロールのように早まっているのが自分でも分かった。

 ゆっくりと首を右に回す。

 彼の隣の席に座っているのは少女が視界に入った。

 ほんの先ほど、間黒に陰湿な嫌がらせを受けていた少女だ。

 視線に気づいたのか、少女が末藤をちらりと見る。

 控えめなまなざし。どこか小動物のような印象を抱かせる顔立ち。長い黒髪からは甘いシャンプーの香りが漂ってくる。

 不安そうな彼女と目があった瞬間、末藤の呼吸は止まってしまう。何かを言おうと思っていたのだが、どう言う訳か喉の奥に引っ込んでしまっていた。


「え、え、えっと。な、なに?」

 震える声で少女が問いかける。もしかしたら怖がっているのかもしれない。

「あー。えーっとさ!」

 女子と話すのは慣れているはずなのに、何故か言葉が続かなかった。

 何かきっかけが無いものかと、周囲を見回す。

 不思議そうな顔で末藤を見つめる女生徒、昼食へと向かうクラスメイト達。


 そして――


 末藤の目に、一人の生徒の姿が止まった。

 やや小柄な、男子生徒だ。

 その生徒は、末藤の後ろの席の男。童顔で、やや小柄な体躯の少年。

 どこのグループにも属していない、しかし孤立している訳でも無い。

 話しかければ答えるし、冗談も言う。どこにでもいる生徒。


「なあ、櫻井(さくらい)っ」

 気付けば、口に出していた。

 鞄から弁当を取り出していた生徒――櫻井が顔を上げる。

「メシ食いに行こうぜ。三人で!」

 目があった瞬間にまくしたてるように誘いをかける。

 末藤にとって《彼女》と二人きりと言うのはハードルが高すぎた。かと言って彼の友人を誘えば、間違いなく茶化されることだろう。

 自分はどんなに馬鹿にされても良いが、そのせいで《彼女》が傷つくのだけは避けたかった。

 その点、櫻井ならば何も詮索しないだろう。学校内外に多くの友人を持ち、多くの同年代の少年たちを見てきた末藤には確信があった。


「ごめん。妹とご飯食べたいから」

 末藤の思惑を知ってか知らずか、櫻井からは冷たい返事。その上、あまりに申し訳無さそうに頭を下げるので強要するのも気が引けた。


――四人でも構わないからっ。


 そう声に出そうとした時、微かな振動音が末藤の耳に届いた。

「ちょっとごめん」と断りを入れたのは櫻井。ポケットから携帯電話を取り出す。どうやらメールのようだ。

 数秒無言で画面を眺め、溜息をつく。櫻井は痛々しいほどに沈痛な表情をしていた。

「ど、ど、どどうしたの?」

《彼女》が心配そうに櫻井の顔を覗き込む。一瞬、末藤の胸がちくりと痛んだ。

「妹、用事が出来たってさ」

 櫻井が携帯電話の液晶をひっくり返し、二人に見せる。


『ごめん。委員会の仕事で呼び出された。ご飯は先に食べてて』


 メールの主は、恐らく妹なのだろう。

 差出人の部分には名前が記されていた。


《月花》と。


「はぁ。分かったよ。付き合う。僕は弁当だけど、二人は?」


 睫毛の長い瞳を何度か瞬かせ、どこか諦めたような微笑みで、櫻井――《{櫻井太陽さくらいたいよう》は席から立ち上がった。

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