ぼくと、いもうと
※この小説は、暴力表現、残酷かもしれない描写、胸糞悪くなる事柄がモリモリ含まれている青春ストーリーです。
そう言う物が駄目な読者様、影響されて本当に犯罪を犯す中二病患者様は、ブラウザのバックボタンを押すか、拙作である《推理をしない熱血系学園ミステリ・籠の中の記憶探偵》をご覧ください。
そうでない分別をわきまえた常識人様、いらっしゃいませ。救いがあるのかないのか分からない、青春ミステリ開幕です。
ツン、とした刺激臭が呼び水と鳴り、僕の意識は現実に呼び戻された。
どれだけの間気を失っていたのだろうか。
視界が定まらない。耳がよく聞こえない。ただ、鼻だけが周囲を覆いつくす大嫌いなあの臭いを感じ取っていた。
放置された三角コーナーの臭い。洗わずに捨てたコンビニ弁当や、カップラーメンの容器の臭い。
鼠と鴉が集まるゴミ捨て場に漂う臭いが家中を覆い尽くしている。
最悪で、劣悪で、不快で、吐き気を催す臭いだけが、今の僕が感じられるすべてだった。
同時に、気付く。ここは夢でも幻でも無い《地獄》なのだと。
頭がどうにかなりそうだった。もう、限界だった。
――殺される。
冗談や誇張では無い。もちろん、被害妄想や幻覚でも無い。
徐々に機能を取り戻しつつある五感が、僕の考えに現実味を与えていく。
僕の視界に映るのは、荒い息で立ちつくす男の顔。汚らしくて、最低で、大嫌いな男。
「なんだその目はッ! ふざけやがって!」
何が気に入らないのだろうか。男は血走った瞳をさらに充血させ、僕の腹を踏みつけた。
息ができなくなり、蛙の様なうめき声をあげてしまう僕。余程面白かったのか、男が「ひひっ」と下品な笑いを洩らした。
「いい加減やめといたら? アザになったら面倒だし。外に出したらヤバいでしょ」
男の後ろから女が制止の言葉を放つのが聞こえた。
ヤバい、と言う単語の割に、危機感や罪悪感、緊張感は一切感じられない。
きっと、面倒になると言った意味以上の物は含まれていないのだろう。
二人にとって《僕たち》が生きようが死のうが関係無いのだ。
《僕たち》は、二人にとってその程度の存在でしか無いのだ。
「うるせぇよ。俺の勝手だろうが」
女の言葉が気に障ったのだろうか。踏みつけていた足が、地団太を踏むように身体へと叩きつけられる。
何度も、何度も、何度も。
肋骨が軋み、内臓が潰され、ただひたすらに暴力の雨が降り注ぐ。
もはや、どこを攻撃されているのか分からない。それほどまでに痛みが体中に走っていた。もしかしたら骨が折れたのかもしれない。
それでも僕は耐え続けた。何も言わず、歯を食いしばり、男を睨み続けていた。
謝罪も、命乞いも、怯えも恐怖も見せない事が僕のたった一つの抵抗だった。
だけど、もう限界かもしれない。
「早く死ねよ。クソガキ」
男が吐き捨て、もう一度蹴りをいれる。
男たちからすれば僕が死んだ方が都合がいいのだろう。
いつだったか《ギゾウシンダンショ》とか《イシャ》とか《ホケンキン》とか言う単語を口にしているのを聞いてしまった。
断片的すぎて意味は分からなかったけれど、僕たち《兄妹》は生きていれば《カネヅル》で、死んでも《カネヅル》らしい。
涙で滲んだ視界に、男の顔が映った。
吊りあがった目に、笑っている様な、怒っている様な狂った表情を浮かべ、僕を見下ろしている。
「生意気言った罰だ。今日はメシ抜きだからな」
男が僕の体をもう一度蹴り飛ばしながら宣言する。衝撃でリビングから玄関へと飛ばされてしまった。
――《今日は》? 《今日も》の間違いでしょ。
僕の記憶にある中で、三食与えられた記憶なんて数えられる程度しか無い。
学校の給食だけが命綱。しかし、今日は日曜日である以上、それすらもままならない。
しかも、もうすぐ夏休みだ。
――どうしよう。
どうしようもない。《人質》がいる以上、家の事を誰かに言う事は出来ない。誰も助けてくれない。そんな事は僕の十年程度の人生でも嫌と言うほど分かっている。
何も言い返せない僕を見て満足したのか一瞬、男が下品な笑みを浮かべリビングへのドアを閉める。
あとに残されたのは腐敗臭を纏った静寂だけだった。
――もしかしたら、今度こそ本当に死ぬかもしれないなぁ。
自分自身の事なのに、どこか他人事のように思ってしまう。
――そう言えば、今何時だろ。
どれだけ蹴られ続けられたのか記憶がはっきりしない。下駄箱の上に置かれているはずの時計を見ようと、渾身の力を込めて身体をねじる。
だけど、僕の視界に埃を被ったデジタル時計の表示が入る事は無かった。それより先に、もっと《重大なもの》が映ってしまったのだ。
怯え、声をひそめて泣きじゃくる妹の姿。
玄関のドアの前で、身体を丸めて、恐怖から、現実から目を背けようとしている姿。
僕と同じように満足に食事を与えられず、年齢不相応に小さく、がりがりにやせ細った姿。
――死ねない、なぁ。
僕が死ねば、次は妹の番だ。僕が死ねば、彼らから身を守るすべは無い。
僕が抵抗すれば、暴力の矛先は妹へと向かう。彼女は《人質》なのだ。
僕が痛いのはどれだけでも我慢できる。だけど、たった一人の肉親が傷つき、痛めつけられるのだけは我慢ならなかった。
――でも、このままじゃ殺されちゃうし、どうしたらいいんだろ。
涙と、青タンと、痛みでぐちゃぐちゃになった頭の中で整理する。
妹を守る方法。僕がもう殴られずにすむ方法。
二人が、幸せになる方法。
頼れる人もいなければ逃げ場所もない。
もし脱走が見つかれば本当に殺されてしまうかもしれないのだ。
――殺され……殺、す?
二文字の単語が浮かんだけれど、瞬時に却下する。
無理だ。不可能だ。相手は大人二人だ。それに、僕は満身創痍。ご飯も満足に食べていないのだ。敵う訳が無い。
「お兄?」
気付けば、妹が僕に語りかけていた。
顔は殴られなかったけれど、歯を食いしばっている内に口の中を切ったらしい。痛みと溜まった血のせいで、返事もろくにできないので、顔だけを向ける。
「お水。飲んで」
風呂場から掬ってきたのだろうか。妹の小さな両手には、澄んだ色をした水が満たされていた。
しかし、彼女の手は小さく、しかも持ってくる途中にほとんどの量がこぼれおちていた。
「足りなかったら、また取ってくる」
気持ちは嬉しいけど、止めるんだ。伝えたいけれど、口は動かなかった。
床を濡らした事が見つかれば、男からさらに暴力が振るわれる。恐らく、次は彼女の番だ。
「大丈夫。今度は、私が叩かれればいいだけだから。だから、飲んで」
思っている事が読まれたのだろうか。何も喋っていないはずなのに、妹が微笑んで答えた。
――ごめん。
強がって拒否をしたかった。だけど、出来なかった。
ごめん。僕は、弱いお兄ちゃんだ。
口の中にたまった血を吐きだし、水を貰おうと震える口を開く。血と一緒に歯も外に出された。多分、力を込めすぎたせいで乳歯が抜け落ちたのだろう。
新しい歯が生えてくる、だなんて感動はどこにもない。ただ、床を汚したせいでまた殴られるな、と重たい気持ちだけが浮かんだ。
「のめる?」
激痛のせいで、水の冷たさも、気持ち良さも感じられなかったけれど、心配する妹の気持ちだけは痛みの中に染み込んできた。
水を飲み干すのを確認し、妹が足音を忍ばせ、風呂場の方へと向かう。おかわりを取りに行ったのだろう。
僕は、無力だ。
どうすればいいのだろう。いつになったらこの地獄の様な日々から抜け出せるのだろう。
どうやったら、僕たちは幸せになれるのだろう。
――《殺せ》
どこからか、声が聞こえた。
――無理だよ。
辺りには誰もいない。
――《だけど、殺さなきゃ、殺される》
声は、現実のものではなさそうだった。たぶん、僕の胸の中から出ているのだ。
――そうだけど、どうすればいいのさ。
分かっていても、どうしようもない。僕に、抵抗する方法は無い。
――《それは僕が考えるんだよ。このままだと、妹も殺されるぞ。
妹の笑顔が頭に浮かぶ。いつか見た、無理矢理作ったものではない、心の底から笑う本当の笑顔が。
――嫌だ。妹だけは。月花だけは。
立ち向かう力も、逃げる方法もない僕は、ただ力なく妹の持ってくる水を待つ事しか出来なかった。
と、言う訳で始まりです。
少々暗いイメージですが、感想など一言でも頂ければ小躍りして回転しつつ土中で喜びます。
どうぞよろしくなのです。