2.「ソレ」
いつの間に黒の景色に慣れてしまったのだろうか。
記憶を幾ら遡ってみても、思い出せるのは一面黒一色。
人も建物も植物も何もかも。
慣れてくれば、それが黒だけではなく淡い黒や濃い黒といった無限に近い種類を持つ黒だと判別出来るに至る。
しかし慣れない人が見たら、それはさながら黒い海のようであろう。
否、我らを見渡せる他者など此処には存在しない。
ならばその様な可能性を考えるだけ、時間と労力の無駄というものだ。
光の世界には、我らの世界にはない色という濃淡以外の違いのある概念があるらしいが…
それを拝む機会など今後ないだろうし、拝みたいとも思わない。
何を見ているのですか、と少女の形をした影は尋ねた。
それは一見すると少女の形をしているが、ともすると老婆の様にも見える。
喋り方からは判別する事が難しいが、「ソレ」は男に尋ねた。
男は何も答えなかった。いや、もしかすると答のかもしれないが、それは私たちが聞き取れる言語ではなかったように思える。
何を見ているのですか、と少女の形をした影は尋ねた。
男は、●●じゅ●●●●です、と今度は聞こえるように答えた。
しかしながら「じゅ」という音以外は、私たちが通常使っている言語とは明らかに異なると思われる音で構成された単語であった。
それを聞き取れたのか、また聞き取れなかったのかは分からないが、「ソレ」は頷いてみせた。
私も好きですよ、あくまで空にある場合に限り…ですが、と「ソレ」は語った。
男は、成る程…それもそうですね、と感慨深げに答えた。
その後、暫く2つの黒い影はある1点を見つめているようであった。
顔まで真っ黒なので、一体何処を見つめているか判別は不可能であったが、さながら「見つめている」といった風体であった。
何かを欲しているのだろうか。
何かを望んでいるのだろうか。
私は手に入れたいのです、と男。
おやめなさい、と「ソレ」。
「ソレ」は急にゆっくりとした口調になり、男を諭し始めた。
違いは争いを生み出します。
争いは変化を生み出します。
変化は違いを生み出します。
違いは争いを生み出します。
争いは変化を生み出します。
変化は違いを生み出します。
生み出します、生み出します、生み出します、生み出します。
生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します生み出します。
気付くと、「ソレ」の口元が裂けていた。
顔よりも暗く深い黒が、男の腕に喰らいついていた。
すると、男の腕にあった色のついた腕時計はなくなってしまった。
これで貴方も完全に私たちの仲間ですね、と「ソレ」は通常通りの口調で述べた。
男は真っ黒な帽子を何処からか取り出し、目深にかぶって其処を離れた。
螺旋階段を目指して。