1.腕時計
暗く、どこまでも深く続くように見える暗闇の底には何があるのか。
その問に答える術を私は持ち合わせていない。
それは酷く悲しむべき事であり、また「知らずに済んでいる」という事実に喜ぶべきなのかもしれない。
人間の欲というものはあまりにも醜い。
見る必要性のない事柄を見たがり、知る必要性のない事柄を知りたがる。
此処はそんな虚栄に満ちた光の世界とは一線を画した黒い世界。
モノクロの世界に表情のない住人。
光はなく、影の濃淡でかろうじて輪郭が分かる世界。
そんな…情報が僅かにしかない世界に、彼らはいた。
すいません、と男は尋ねた。
男は真っ黒なスーツらしきものに、真っ黒な帽子を被り、真っ黒な靴を履き、上から下まで真っ黒であった。
奇妙な事に、その男の右腕には本来ならばあるはずのない色のついた腕時計があった。
これを直して頂きたいのですが、と続けて男は喋った。
貴方、これを何処で手に入れたのですか、と店主は問うた。
黒の住人である以上、そこに表情など殆どないはずなのだが、その店主は不思議そうな顔をしているようだった。
これはこの世界にはあってはならない品物ですね、何処で手に入れたのですかと店主は問うた。
それは言えません、と男は答えた。
秘密…という事なのですね、それはそれで構いませんよ、と店主は答えた。
秘密…という程の事ではないのですが…男は躊躇いながら言葉を選んでいるようであった。
濃淡でギリギリ目だと分かる男の目が、遥か彼方に見える螺旋階段を見つめていた。
見つめていたという表現をするのには抵抗があるが、それしかその男の行っている行動を表現する方法が他にはない。
成る程、あの階段に近づいたのですね?と店主は無関心そうに聞いた。
知りたかったのです、と男は述べた。
知的好奇心が旺盛なのは構いませんが、好奇心が願望に変わらない事を切に祈っていますよ、と色のついた時計を弄る店主。
男は何も答えずに、螺旋階段を見つめ続けていた。
おや、これはおかしいですね、と黒い眼鏡を黒い顔から外して店主は述べた。
そうなのです、秒針がついたいないのです、と男。
男は秒針がない事に対する苦労話を熱心に始めた。
私はよく夢を見るのです。
しかし、その夢はあまりにも現実と似すぎていて区別がつきません。
そして気付くと夢は終わり、私は現実に引き戻されるのですが…困った事に、今が夢の中なのか現実なのか分からなくなってしまうのです。
不勉強ながら夢の始まりというものを知らない為に、一層区別がつかなくなってしまうのです。
終わりは唐突にやってくるが、始まりには気づく事が出来ない。
しかし、私はある方法を使って今が夢の中なのか現実なのかを区別する事にしたのです。
時計です。
現実にそっくりな夢の中では、時間が酷く早く進むという事実に気付いたのです。
なので秒針の進み方を見れば一目瞭然なのですが、生憎私の持っている腕時計には秒針がついていないのです。
なので、今が1秒なのか32秒なのか56秒なのかが私には分からないのです。
それは常に同じ1分であり、1分から2分へは唐突に変わってしまうのです。
そうですか、お気の毒にと大して気に留めずに店主は答えた。
いえいえ、聞いて下さってありがとうございます、と男は答えた。
それでは時計をお返ししますと言って、黒い秒針のついた色つきの腕時計を男に返した。
ありがとうございます、それではまた、と満足そうに男は店主と別れた。