後日譚 4 無頼で行こう! 前
「おらぁ、うるせんだよ! どけ!」
校門の脇に置いてあるプランターを蹴とばして男が凄む。
男は校門のわきの通用門から業者に混じって侵入してきたと思われるが、学校出入りの業者に市から配布され、着用を義務付けられている名札を付けていなかったため、それに気づいた職員、四年担当の藤木悠介に呼び止められたのだ。
「名札ぁ? そんなもんいらねんだよぉ、親がてめぇのガキに用があって来たんじゃねぇか。さっさと通しやがれ!」
「なら、何年何組の、どの児童の保護者の方ですか? 申し訳ありませんが、これも規則なので一応お答えください」
藤木は落ち着いて対応する。男をこれ以上刺激しないように大きな声は立てず、端正な眼もとに頬笑みさえ浮かべて応じていた。騒ぎを聞きつけて別の男性職員と優菜が校舎から駆けだして来るのが見える。
「誰の保護者だっていいだろ! 探せばすぐに出てくるさ。おらさっさとそこをどけ! なんだお前らも先公か?」
男の目が新たに現れた若い二人の教師に据えられた。
「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ」
藤木よりも若い二年目の榊原清司が優菜を後ろに庇いながら口を挟んだ。しかし、その声はどこか弱々しく態度も及び腰だ。
それも当然で、男は体格が大変いい。黒い半そでのTシャツから覗く日に焼けた上腕二頭筋も逞しく、身長も180センチ以上はゆうにある。腕力には相当自信がある様だった。男は冷静な藤木よりもこっちの方がやりやすいと見たか、鋭い眼光をギラリと向けた。
「あ~、お前、女の前でヒーロー気取りか?」
今度は榊原に脅しをかけ始める。その隙に、藤木はさりげなく優菜に向かって微かに頷いた。
「!」
優菜も視線だけで応え、できるだけ静かな足取りで校舎に引き返し、屋内に入った途端廊下を脱兎のように駆けだした。
職員室は二階である。階段を二段飛ばしで駆けあがる。
「大変です! 校内に不審者が侵入しようとしています。今、藤木先生と、榊原先生が校門付近で対応しています。応援と通報お願いします。それと緊急放送を!」
ガタガタガタ
職員室で仕事をしていた職員たちは一斉に立ち上がる。廊下に数人の男性職員が飛び出していった。後は二人一組で教室のある校舎に向かうもの、電話に走るもの、校長室へ向かうもの、様々だ。一年学年主任の永嶋が職員室の前に備えられている校内放送スイッチを押す。
「連絡します。コトウ・マモル先生、コトウ・マモル先生、職員室までお願いします。児童の皆さんは担任の先生の言う事を聞いてください」
流れるような落ち着いた声だった。
「おいこら、舐めてやがると承知しねぇぞ! 痛い目見たいかコラ、これを見な!」
男はそう叫ぶと、後ろのポケットから何かを取り出す。何かしかけがあるのか、くいと柄を捩じると短いながらも鋭く銀光を放つ刃が飛び出た。
「……!」
藤木も榊原も声もなく後退する。そこへサスマタを手にした数人の男性職員が出てきた。
「なんだ、おまえらぁ! やる気か!」
「……」
藤木は黙ってサスマタを構えている壮年の男性職員と並んだ。
「子どものいる学校で、そんな物騒なものを振りまわす人を校舎に入れる事はできません。帰ってください!」
「うるせぇ!」
男は叫び、ナイフをめちゃくちゃに振り回しながら藤木に向かって突進してきた。
「はい! そこまで!」
野太い声が訓練の終了を告げた。
「っはぁ~! 緊張したぁ~」
若い榊原が額の汗をぬぐった
「……いいから早くどいてくださいよ」
志郎はぶっすりと呟く。彼は三方から延びる三本のサスマタと、二人の屈強な男性教師によってコンクリートの地面に押さえつけられているのだった。
「あっ、すいません」
榊原は、はっと我にかえって腰を浮かせた。彼は志朗の両足首の上に座り込んでいたのだ。
「いってぇ~(何だってんだよ、畜生)」
志郎はパンパンと砂を払って立ちあがる。ふと目を脇にやるとばっちり優菜と目が合った。優菜は白々しく眼を反らし、隣の同僚と喋っている。
おま、俺がこんな目にあってんのに眼ぇ逸らすか? 普通
志郎は憮然と肩をそびやかした。黒いTシャツが汗に濡れている。男性職員に地面に押さえつけられたところを見られたことも面白くない。しかも、両手首を背中に回して押さえつけていたのは、嘗て優菜に交際を申し込んだことのある藤木悠介なのである。
面白くない、誰が何と言っても絶対に面白くない。これがたとえ小学校から要請があった不審者対応訓練の一環としてもだ。
「お疲れ様でした~」
「いやぁ、迫真の演技だったですね! まさに無頼漢でした!」
周り中で見学していた教職員からぱちぱちと拍手が起きる。
ぶらいかんだと!? ブライカンた何だ。アメリカの俳優か!? 俺は! 失礼じゃないか、この校長。
「……」
これ以上ないほどの仏頂面で、それでも志郎はひょいと頭を下げた。
「皆さん、お疲れ様です。それでは先生方は場所を体育館に移して、東署、生活安全部の牧原さんのご高評とご指導を受けましょう。冬木さん、本日はお忙しい中、無理を聞いてくださって学校までお運び頂き、職員の安全講習に協力してくださいまして、どうもありがとうございました。後は職員達だけで行う訓練ですので、控室でお休みくださいね」
校長が進み出て志郎に丁寧に挨拶する。周りから再び拍手が巻き起こった。優菜も盛んに拍手をしている。これでは文句の持っていく場所がない。
校長の言葉を期に職員たちはぞろぞろと校舎内に戻っていった。夏休み中なので児童の姿はない。それでも午前中はプール開放で結構沢山の児童たちが集うが、午後からは教職員の様々な研修が入る日が多く、児童が居残ることはできないのだ。
そして今日は不審者対応実地訓練付きの研修なのであった。
葛の葉小学校には世相を騒がす様々な事件を受けて、数年前に制作した不審者の対応マニュアルがあった。一昨年からは地域の警察署から防犯専門の講師を招き、夏休みを利用して対応の仕方や、避難時の心構え等の講習を受けている。しかし今年は一度本格的に実地訓練をしようと言う事が若い教師たちから提案された。
本当なら、児童がいる時間帯に行わなくては避難誘導の練習にはならないが、職員が経験をしていないと低学年の児童等は訓練だとは思わず、混乱する可能性があるため、今年度はまず職員たちだけで実施しようと言う事も決まった。
――で?
肝心の不審者役なのだが
最初は二十代の若手教師を不審者役にしようとしたが、同僚だとどうしても緊張感が得られないのでは? という意見もあり、校長が保護者役員会でPTA会長に相談してみたところ、自分たちの知り合いから選んだらどうかと言う事になった。
――それで俺かよ!
志朗は勿論最初は断ろうとした。既に志朗は駅前店からは半ば撤退しており、郊外の二号店(新居付き!)の店長として忙しい。しかし、PTA会長(米屋の若主人)のみならず、駅前商店組合の組合長からも頼まれ、おまけに優菜からもいいんじゃない? と言われて(実はこれが一番の理由かもしれないが)、その気になったのだ。その結果――
――こんな、情けねぇ姿をアイツに晒すくらいなら引き受けなけりゃ良かったぜ
志朗の憤懣はやる方ない
――大体俺はそんなに弱かねぇ。昔からケンカは負けたこたねんだ。それをこんなチンピラ役にしやがって……しかも藤木さんなんかに押さえつけられてよ……文句言ってやる。絶対抗議してやる。まず、森本のおっさん(米屋)、そいで組合長の爺ぃに……
頭の中で文句を言ってやるべき顔ぶれを想像すると休む気も起きず、ムカムカしながら体育館の前を通りかかると、開け放した扉の奥にちらりと優菜の姿があった。
「はい! それでは先ほどの訓練の復習をします!」
白いTシャツの上からでも分かる、筋肉質でがっちりとした体格の中年の男性が声を張り上げた。胸には牧原と刺繍が入っている。
教師たちは真面目な面持ちで牧原の周りを取り囲んだ。各々Tシャツとジャージになっている。
「絶対に相手の手足が届く範囲に入らないでください。さっきの先生は言葉かけは良かったけど、相手に近づきすぎていました。刃物を持っているかも知れない相手にこれでは危険です。また、壁際に立ってもいけません。背水の陣と言う言葉の通り、逃げ場がなくなる。相手の間合いに入らないように注意しながら、必ず、後ろの開いた場所で落ち着いて言葉を掛けてください」
「たはぁ、俺は近づきすぎてたんだな」
藤木はその言葉を聞いて頭を掻いた。
「本当ですね。もし凶暴な相手だったら怪我をするかもしれません。流石に現場の警察官の方の言葉は重みがありますね」
隣に立った優菜も同意する。
「それから校内放送ですが、あれは緊急体制を敷くと言う合図になっているのですね?」
牧原は背後の教頭を振り返って尋ねた。
「そうです。コトウ・マモルと言う名の職員は本校には存在せず、『子ども守る』と言う意味の暗号になっています。その放送が鳴ったら職員は緊急事態に備えると言うマニュアルで……」
「成程。それはいいと思います。知らないものにはただの校内放送にしか聞こえないでしょうし。それに声も落ち着いていた。これが緊張した声だと、犯人は勘ぐってしまうかもしれないです」
放送を担当した永嶋はそれを聞いて嬉しそうに牧原に頭を下げた。
それから実際にサスマタの使い方の説明に入る。サスマタというのは先が丸く二つに分かれた柄の長い道具であるが、立っている者を動けなくするには押さえつける場所によっては有効であるが、本来攻撃には向いていない道具だという事や、一旦相手を地面に抑えつけてしまったら、二股になった先のほうではなく、柄のほうを使うほうが効果的だという事も初めて優菜は知った。
「へぇ~、なるほどなぁ。確かに相手が地面に伏せてしまったら、二股で抑えてもするりと逃げられちゃうわな」
「そうですねぇ」
「でもできるかしら?」
皆感心したように呟いている。
「だけど、私なんか実際に危機に遭遇したらきっとテンパっちゃって何にもできないと思います」
「まぁ、女性なら仕方がないかもね。教員だって自分の命は大事だもの。逃げた方がいいよ」
藤木も真面目に答える。
「だけど、子どもを人質に取られたらどうしたらいいんでしょう?」
「そうはさせないための水際での対応の練習なんじゃないか」
「あ、そうか」
優菜は再び真剣な面持ちで警察官の牧原の方を向いた。
「次は簡単な護身術です。僅かな力でもかなり有効ですから特に女性はよく覚えてくださいね。二人一組でペアを作ってもらえますか?できたら男女ペアで」
それを合図に牧原を囲んでいた教師はその輪を解き、近くにいた同僚と二人組になる。二十組ほどのペアができた。優菜は自然に隣にいた藤木とペアになる。
――こらぁ! そこの二人離れろ! オイコラ聞こえねぇのか! なに見つめ合ってる! 離れろっちゅーとんじゃ!
志朗の飛ばすガンの威力も虚しく、彼の位置から斜めを向いている優菜たちには志朗の心の叫びは届かない。教師たちは真剣な表情で牧原が実施に説明する護身のスキルを得ようとしているのだ。
「相手がこう手首を掴んできたとします。はい、ペアの男性の方、相手の手首をぐっと握って! 手加減しないで」
ざわざわざわ
どのペアも同じように相手の手首をぐいと握った。
――こらこらこらぁ! てめぇ、藤木! 俺のゆーなの手ぇ握ってんじゃねぇ! 今すぐ離せコラ! ぶん殴るぞ!
志朗は体育館の鉄の扉を握り潰す勢いで藤木を牽制している。次第に役柄ではなくても挙動不審になりつつあるが、当の藤木は細い優菜の手首を握りしめたまま、牧原の講義を聴いていて志朗のほうを振り向く気配はない。
「それでは掴まれたほうの人、何とかしてその手を振りほどいてみてください」
牧原の合図で女性職員達は、足を踏ん張ったり、腕を振ったりして手首を振りほどこうと頑張ったが殆どのペアはうまくいかなかった。勿論優菜も同様で、藤木の立ち位置すら動かせていない。
「どうですか? 皆さん、なかなか上手くいかないでしょう? ここから見ていると大抵の方が後ろへ引っ張ってほどこうとしていましたね。人間の本能で振りほどこうとする者には余計に強く握ってしまうのでこれはよくありません。男性と女性なら尚更で、相手はますます強く握って女性に恐怖を与えるでしょう」
「……ふわぁ、本当だ。全然敵わないわ」
「羽山先生の力が弱すぎるんですよ。まったくこれじゃあ逆効果だ。男の嗜虐心をつけ上がらせるだけだわ」
藤木は漸く優菜の腕を放して笑いかけた……が、瞳は意味深な光を湛えている。
「その調子で”彼”を図に乗せているんじゃないかな?」
「……! そんなこと全然ないです!」
優菜は真っ赤になって否定した。
――ゆーなっ! 何赤くなってんだ! てめ藤木! 俺の優菜に何を言いやがった!? ぶっ殺す! 絶対にぶっ殺す!
じたばたじたばた
マイクで話す講師と違って二人のささやき声は志郎の耳には届かない。最早完全に不審者である。
「ではどうしたらいいか? 見ていてください。あなた、こちらへ」
牧原が一人の女性職員を前にして手本を見せる。
「後ろに逃げようとするから相手は逃すまいとさらに力を入れる。こうしてください。相手の方へ足を一歩踏み出し、掴まれた手首を相手の胸に突き入れ――払いのける……そう! ほら外れたでしょう?」
「わぁ、本当だ!」
手本の相手役となった若い教師は感心している。柔道をやっているというごつい牧原の手を難なく振りほどくことができたのだ。
「さぁ、皆さんもやってみてください。まずは足から!」
「なるほど! 力の入る方向を逆に利用するのか。羽山さん俺たちもやろやろ!」
「はい! えっと一歩相手の懐に……そん……えいっ! わぁ! 外れた! 藤木先生手抜きしてませんか?」
「してない! 絶対してないよ。引っ張られると強く掴もうとするけど、こう入ってきて指の隙間から下に引かれると弱いもんだな」
藤木も自分の手を見て不思議そうにしていた。
「でも、実際に襲われたとしてこんな風に相手の方へ自分から寄っていけるかなぁ。絶対にできない自信あるわぁ」
「だからそうならないように訓練してるんじゃないか。さぁ、もう一回!」
「はい!」
――あああっ! また……
仲良く手を取り合って見つめ合う(志朗フィルター)二人を見せつけられ、邪魔することもできず、無味乾燥な鉄の扉を噛みしめ、志朗は内心のた打ちまわっていた。
二人の間に漂う真剣な様子がまた妙にいい雰囲気なのだ。ジャージ姿の彼らの体が微妙に触れ合い笑ったり、手を取ったまま話したりしている。志朗の眉間の皺が次第に深くなっていった。
長くなったので分けます。
完結後、1年と少し後の夏休みのお話。優菜は教職三年目。今は多分低学年の受け持ち。