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後日譚 3 梅香る

 

 

 


「え? なんだって? 今なんて言った?」


「だから! ……次の休日は志郎の言う事全部聞いてあげる……って、何度も言わせないでよ」


「全部って……お前……」


 志郎は恋人の顔を穴のあくほど見つめた。




 今年のバレンタインは土曜日。半年前にオープンした冬木リカーショップ二号店は順調に売上を伸ばし、固定客も出来ていた。なのに駅前の本店で仕事をしていた時ほど多忙ではない。それは二号店が郊外の幹線道路沿いにあるので車で来る客が多く、今までのように配達に出ることが少なくなった事が主な理由だった。


 無論、農地が広がる郊外には元々の地元民である年配の人々も多く、車を運転しない人たちも大勢いるので、配達そのものが無くなった訳ではないが、そういう家は昼間に宅配を頼むから夜はあまり走りまわらなくていい。

 七時過ぎになると車通りも少なくなるので、九時には店を閉められるし、志郎は二号店を任されて良かったと思った。これまでが忙し過ぎたのだ。因みに冬木リカーショップは兄の吾郎が奔走してこの秋めでたく法人格を取得し、曲がりなりにも会社になった。それまでのパートやアルバイトに代わって、数人だが正社員も雇用したし(それまで長い間勤めてくれた人たちが主だが)、この二号店にも現在短時間のアルバイトを含めて十人の従業員がいる。

 志郎がいろいろ勤務形態を考え、二交替制で店には少なくとも四人の人手があるようになったから、今までのように彼がのべつまくなしに店にいる必要もなくなった。その分綿密な市場調査もできるようになったし、何より優菜と過ごせる時間が増え、志郎は大満足だったのだ。

 だがしかし流石に週末は忙しく、その上、今週末は国民的女子行事と重なってしまっていたからどうしても体は空かなかった。女子従業員が二人も休みを取ったことが主な理由だが(内心舌打ちしながらも志郎は許してしまった)。


 彼は今では二号店の奥にある事務所の裏に借りた部屋に住んでいるが、そのハイツの横が手ごろな大きさの更地で、裏に小さな梅林があった。駅からは遠いが、その分安く景観もいい。

 実を言うと、この土地を既に志郎は手に入れてしまっている。




 木曜日。

 志郎は後の事社員に任せて六時に店を出ると、優菜と待ち合わせて近くに出来たレストランで食事をした(この店も冬木リカーショップの得意先の一つだ)。無論平日ではあるし、明日は学校行事であるので二人とも酒は飲まない。

 冒頭の衝撃発言は明日、今年度最後の授業参観があるという優菜を迎えに行き、食事の後で彼女を送るために店の裏に置いてある車を取りに寄った直後のもので―――




「それ、マジ本当か? うへぇ」


 空気にほのかに梅の香りが漂うが、志郎にはそんな風流な感慨の入り込む余裕のない顔付きで。


「ちょっと、顔!」


 優菜はだらしなく鼻の下を伸ばした志郎の胸を指先で突いた。

 辺りが暗くて、人気がないのが幸いしているが、とても見られたものではない。普通にしていれば結構凛々しいイケメンなのに。


「え? ああ……」


 顔だけはどうやら引き締めたが、志郎はまだうっとりと夢見る目つきだった。


「志郎……今、すご~くえっちな想像してたでしょ?」


「してた」


 ちっとも悪びれずに志郎は胸を張る。

 あたりまえだ。惚れた女が何でも言う事を聞いてくれるなどと言ってくれたのだ。これでえっちな妄想が炸裂しなかったら男じゃない、志郎は真剣にそう思っているのだ。


「もうぅ~。勘違いしないでね? 土曜日に休みが取れないって言うし、私もチョコレートなんて今更感があるから、埋め合わせにそう言っただけなんだから」


「え? チョコ貰えないの!?」


 頓狂な声に優菜は首を竦めた。この男といるといつもこうなる。


「だって……仕事でチョコ売ってる人にあげてもなぁ……って」


 確かに志郎の店の菓子スペースではこの時期ささやかではあるが、バレンタインフェアを行っている。都会の専門店まで出かけられない女性のために、手ごろなものから、数は少ないが某有名店の物まで意外と品揃えもいいのだ。苦心したリサーチの賜物である。


「まぁ、そうかもだけど、お前がくれるんだったら……」


「じゃあ、あげてもいいけど、さっきの発言はなしでいい?」


 悪戯っぽく眉を上げて優菜は笑った。

 彼女はいつものように黒のパンツスタイルに白いダウンのコートを羽織っている。そのせいで以前志郎が送った赤いマフラーが映えてよく似合う。長い髪は髪留めで、ふんわりと纏められ、ほつれたおくれ毛が柔らかく首筋に流れていた。


「……いやだ」


 恋人をうっとりと見下ろしながら志郎は首を振った。


「もぅ……じゃあ、何かしたい事を考えててね? あ、えっちな事はなしよ?」


「それもいやだ」


「え?」


「あったりまえじゃないか。好きで堪らねぇ女にしたい事って言ったら一つじゃないか」


「……」


 余りにもストレートな志郎に優菜は思わず頬を染める。普段顔に出ない彼女にしては珍しいことだ。


「そんなの……別に特別なことじゃないし……」


「特別だ。今日はできないんだからな」


「だって……」


「分かってるさ、明日は参観で大変なんだろ? それはいいんだ。だけどな!」


「きゃ!」


 突然引き寄せられてぐいと顔が近づく。


「俺は何時でもお前を抱きたいんだ。お前けっこう危なっかしいし、しっかり繋ぎとめておかないと不安になんの!」


「私……そんなにふらふらしてるように見えるかな……」


 意外にも真面目に受け止めた優菜は視線を泳がせて考え込む。


「してる。優菜、お前……俺以外の男に絶対なびくんじゃねぇぞ」


「そんなことしないわ」


「どうだか……さっきだってあいつに助けられたって話があったじゃないか。お前はしっかりしているくせにそう言う事に無防備すぎるんだよ!」


 あいつとは優菜の同僚、藤木悠介の事である。優菜の受け持つ六年生は卒業学年と言う事で、この時期は受験を控えた児童もいて、懇談会などでも保護者との応対に非常に神経を使うと、食事をしながら話していたのだった。就職二年目の優菜は藤木にかなり助言をもらいながら年度末の多忙な時期を過ごしていた。志郎に大した事は言ってないはずだが、この妙にカンの鋭い男は言外に様々な事を汲み取ったのだろう。

 今は目が笑ってない。


「いいか? 男ってな、すぐに自分に都合よく解釈しちまうんだからな! お前は変に義理がたいところがあるし……」


「意味わかんないんだけど……」


「つまり下心のない親切はないってこと!」


「そんな事ないと思うわ。だって私がヘマしたら職場全体の信用にも繋がるもの。公務員に厳しい御時世だし……経験の浅い私を助けようとしてくれてる藤木先生の事そんな風に言うもんじゃ……」


 優菜にしてみれば、不本意な邪推に対して当然の抗議であろう。


「わぁったよ! 悪かった……要するに俺は……」


 こいつにめちゃくちゃ恋しているんだ


 志郎は自分の腕の中で機嫌をそこねかけている優菜を見て口籠った。

 可愛い。人によっては美人と言うだろうが、志郎にとって優菜はとにかく可愛い。真面目なところも、しっかりしているところも意外に寂しがりやなところも何もかも。

 優菜は志郎の言葉を待っていたが、彼は複雑な表情で彼女を見つめていた。


 しょうがないなぁ……


「愛しているわ」


 だしぬけに優菜はまっすぐに志郎を見上げて、耳を疑うようなことを言ってのけた。


「!」


 言ってから優菜はふっと笑った。照れたように自分から胸に頬を寄せてもたれかかる。飲んでもいないのに、これは一体どういう事だ?

 志郎は面食らった。


「愛してるの。だから……大丈夫なの」


「おま……反則」


 志郎は甘い香りを放つ髪に指を突っ込むと後頭をぐいと持ち上げた。


「そぉ?」


「うわ……俺そーとーやばいかも……なのに、今夜はダメなんだな」


「ごめんね?」


「……」


「やぁねぇ。そんな顔されると私がイジワルしているみたいじゃ……」


「みたいじゃなくて苛められてんだよ! 充分! ご近所のみなさぁ~ん、がっこのせんせぇがイジメしてしてきますぅ~」


 子どもの頃は志郎が優菜を苛めていた。立場が逆転した今となっては遠い昔の話である。


「しいぃ~! 声が大きい」


 優菜は慌てた。ご近所と言ってもかなりの距離があるが万一と言う事もある。しかし志郎は全く悪びれてはいなかった。


「じゃあさ……さっきの話なんだけどな……いっこだけ言う事聞いてくもらえる?」


「え~? 何?」


 急に元気よくなった志郎に、優菜が用心深く眉をひそめた。


「急には思いつかん……けど考えとく」


 にやり。


「ちょっと……ヘンな事は絶対嫌ですから」


「いしし……」


 志郎は元の締まりのない表情に戻ってしまった。


「ちょっと、やだ!」


「チョコプレイとか……うへぇ、いいなぁ~」


「チョコ……!? 何それ? 絶対嫌! もう前言撤回! 言う事聞くのはなし!」


「あ~、ウソ嘘。もうちょっとまともな事考えとくから。いやホントに。ゆ~なちゃん! 大丈夫、俺を信用しろ!」


「……」


 絶対信用ならないこの男は、という目つきで睨む優菜に、志郎は白い歯を見せた。


「楽しみだ!」


「言わなきゃよかった……」


 がっくりと落ちる前に大きくて熱い両手が肩を掴んだ。勢いよく唇が塞がれる。


「むぐ!」


 戸惑ってよろけた瞬間、がっしりと片腕が巻きつく。おまけに一方の手はさわさわとコートの中に入り込み、お尻のあたりを撫でまわしていた。


「んん~!」


 じたばたじたばた


「あ~! 抱きて~」


「触りまくってるくせに……」


「わはは! いいじゃないかこのくらい。今晩の俺の心情を思えば……」


「ああ……ここが暗くてよかった……こんな醜態、他人様には見せられない」


「そうでもない。直に明るくなるぞ」


「……は?」


「ここにお前と俺の家が建つんだからな」


「え!」


「お前らしい可愛い家にしたらいい。俺のツレに一級建築士がいるからな、そいつと相談して」


「志郎……!?」


「いつ言おうかと思ってたんだが、やっと言えた。あ~すっきりした。嫌だなんて許さねぇし。そら!」


 いきなり志郎は優菜を抱え上げた。そのまま草だらけの更地を走り回る。


「ちょっ……志郎! 怖いよ、怖いからっ」


 確かに更地とはいえ、真っ暗で石がごろごろしている。二人していつ転ぶかわからない。優菜は必死でしがみついた。


「あ~!楽しみだ! いろいろ楽しみだ!」


 志郎は腕に優菜を抱えたまま、子供のようにはしゃいでぐるぐる走り続けている。


「わかった! わかったから、やめてぇえ~」


 風も吹いていないのにちらちらと花びらが舞った。夜気に花の香りが溶け出している。




 恋人たちを包んで春が笑っていた。







完結して約一年の後。バレンタイン頃のお話です。ちょっとだけ時期がずれました。(笑)

と言う訳で、新居(の土地)決定。

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