インディゴ・クリスマス 2
「あなたが雪の女王様ですか……?」
「そうですゲルダ。よくここまでやってきましたね?」
「どうかカイを……カイを返してください!」
「それは、あなたの心次第です。さぁ……私にあなたの真実を見せてください……」
教会の集会室の壇上で繰り広げられる劇は限られたスペースながら、衣装、小道具など、なかなか凝ったものになっていた。特に衣装は手先の器用なボランティアの手によるものだろう、市販の服をベースに見事な装飾が為されていて、女王様のドレスの真っ白なトレインを観客の女の子たちはうっとりと見入っている。優菜も一番後ろの長椅子の向うに立って夢中で劇を見ていた。出演者は皆女学生で、主人公のゲルダを教育実習に来ていた松居かおりが演じている。彼女がこの教会のボランティアだったことも、今日はじめて知った。
ぽん! と突然優菜の肩に手が置かれた。
「ひゃ……」
「や、スマン。遅くなった」
びっくりして振り向くと志郎が立っている。作業用ジャンパーにジーパンという、いつものスタイルだ。
「あ……こんばんは。お仕事ご苦労様。思ったより早かったわね。車は?」
「ちょっと離れたところに止めたんだ。俺だってバレないように」
「そっか、衣装はあっちなの。急ごうか? 劇はもうクライマックスだし」
優菜は皆に気づかれないように、集会室を出た所のホールの脇の小部屋に志郎を導きながら囁いた。
「……だな、ちょっとしか見てないけどキレイなもんだな」
志郎も感心したように呟く。大道具置き場にもなっている小さな部屋は寒かったが、志郎は衝立の後ろで手早く用意されていたサンタの衣装を付けた。
「コレでいいか? ……なんだよ? 笑うな」
志郎は体が大きいので衣装が体に合わず、長い腕と足が赤いベロアのサンタ服の裾からニュッと突き出ている。サンタの衣装は縦は短いが、横は大きく作ってあり、お腹にクッションを詰め込めるようになっているのだ。ツンツルテンなのにダブダブしていておかしな感じになっている。
「あ~、ホントだ。だいぶ小さいね。まぁ手袋とブーツでなんとかなるかな。後は髭と帽子だわね」
言いながら、手早く優菜はクッションを志郎のお腹に詰め込み、ベルトを閉めた。幸い、白いボア付きのブーツと手袋をつけると短い裾も何とかカバーできそうだ。次に銀色の巻き毛の髭つきカツラと口ひげを付ける。
「ちょっと、屈んで?」
「コウカ?」
優菜は自分にぐいと顔を寄せた志郎に注意深く鬘を被せてゆく。志郎は目の前に晒された彼女の顔をじっと見つめた。
今夜の優菜は髪をいつものように後ろで一つに結わえず、背中に波打たせている。白いシャツの襟を立てて、黒い半袖ニットを重ね着し、珍しくツイードのスカートをはいていた。足元は柔かそうなレザーブーツ。
「髪がうまく収まらない……」
見つめられているとも知らず、優菜は志郎の剛毛と絡みつく巻き毛のカツラに難儀しながら、なんとか自然に見せようと苦戦している。自分に触れられる指先が心地がいい。志郎はそれを感じながら目の前に差し出された、グロスの効いた紅を引いた唇にうっとりと見入っていた。
こいつ、色っぺぇ~~……唇と、顎と、首のラインがなんとも白くて……
吸いついたらどんな色に染まるだろうか――
「うん……えっと、コレがこうだから……こうなって……口ひげはこうで……よし! 後は帽子ね。深めに被って……わあ! 結構似合うよ!」
優菜は志郎の邪な妄想に気づかず、会心の作品を見る芸術家のように晴ればれと笑った。
「……そぉか?」
如何に爺ぃの扮装とはいえ、褒められて悪い気はしない。すっくと背を伸ばした志郎は照れながらポーズをとった。
「うん、冬木君は体が大きいから立派なサンタだわ! はい、プレゼントの袋はコレね。もう一個あるから……」
「お。おお、見かけの割に軽いな」
「お菓子だからね」
その時コンコンとノックの音がした。
「サンタさん、用意はいいですか? あと少しで出番ですよ?」
「はい! どうぞ」
「失礼、入りますよ……まぁ! ステキなサンタですね!」
入ってきたシスターはサンタの志郎を見てぱっと顔を輝かせた。
「駅前の酒屋さんの冬木さんですね? プレゼントのご寄付をありがとうございます。それと今夜はお忙しいのに無理をお願いして申し訳ありません」
「いえいえ、ボクでお役に立てるなら嬉しいですよ。どんどん使ってやってください」
志郎も営業スマイルで応じる。
「冬木君いつもと違う……」
「これが普段のボクですよ、羽山さん。心の準備もばっちりです。さぁ、いつ出たらいいですか?」
胡乱な顔の優菜を横目に志郎は、シスターに爽やか青年を演じている。
「じゃあ……寒くて申し訳ないんですけど、ホールで合図を待っててもらえますか?」
そう言ってシスターは出ていった。二人は寒い玄関ホールで出待ちである。壁には集会室を見れる小窓が付いていて、そこから中の様子がよく見えた。劇はいよいよ最後の場面だった。
『カイ……お前の心がわかった今、私はもう何もいう事はありません……あなたを自由にしてあげます。ゲルダとふるさとへお帰りなさい』
真っ白な衣装を身につけた背の高い雪の女王は、威厳たっぷりに杖を振った。
『私は又、ここで一人で……たった一人で、遠くからあなた達を見ていましょう』
『女王様!』
少年と少女が跪く。
『いいのです。さぁ、お行きなさい。その温かい心をなくさないように……!』
紙とチュールレースの吹雪が吹いて舞台の上には雪の女王が取り残される。ピンスポットが当たり、美しい女王を照らし出した。
「ちょっと! 近いわ!」
「へ?」
いつの間にか二人は小窓にべったり張り付いて劇を見ていたのだった。
「私はともかく、あなたがそんなにしてたら、中の子にバレるでしょうが!」
「お、ごめ……なんかキレイなもんだから」
志郎は離れてしまった優菜に未練たらしく言った。無論彼の「きれい」は女王に向けたものではない。
「まぁ……それはそうだよね? 毎年学生さんが頑張ってくれるそうなんだって……今年の劇は特気合が入っているようよ」
「おい」
「何?」
「お前、人前で話しかけないでって言っといて、さっき俺の名前呼んでたぞ? いいのかなぁ?」
志郎がにやりと笑った。
「あっ! 思わず……しまったぁ」
「ええがな。自然なことなんだし……おあ! 合図だ」
観客席の後ろでさっきのシスターが振り向いて頷いた。舞台はすっかり明るくなっている。
「ほんとだ、じゃあ、がんばってね!」
優菜がドアを開け放ち、サンタを送りだす。すぐに「わぁっ!」という歓声と共に、子ども達が志郎を取り囲んだ
クリスマスパーティは盛況の内に無事に終った。暗い夜道を歩きながら優菜は微笑ましく今日のことを思い返していた。
子ども達に囲まれたサンタの志郎。配っているお菓子の入った袋は今日の午後、優菜も手伝ってラッピングしたものだった。志郎は立派に役目を果たし、皆で揃って記念写真を撮った後、八時までに終えなければならない配達のために帰っていった。子ども達は幼稚園から低学年の子どもが大半だったが、中には高学年の子どもや男子中学生も混じっていたが、皆、雰囲気を壊す事無く会を盛り上げてくれた。最後にみんなでジュースで乾杯し、ケーキを食べてクリスマスの賛美歌を歌うとお開きとなった。
子ども達は迎えに来た保護者と共に、手に手にキャンドルをもって帰ってゆく。その光の列が暗闇の中に夢のように続いていた。そして優菜は、松居や学生ボランティアと一緒に後片付けを手伝い、それも終わって漸く家路を辿っている。既に九時に近かった。
楽しかった……こんな楽しかったクリスマスは久しぶりかも。
あんなに苦々しく思い返していた思い出の場所だというのに。
今日の夕刻久しぶりに足を踏み入れた教会は殆ど変っていなかった。あの頃真新しかった集会室は、少し古びただけで、かつて優菜が遠慮して座った一番後ろの席もそのままに。床は汚れてはいたが、無残にひしゃげたケーキの後など何処にもない。当たり前だが。
そして今夜はあの辛かった記憶に楽しい思い出が加わった。忘れることはないが、もう夢で苛まれることはない。
忘れられなくったって、苦味はどんどん薄れて行くものなんだわ。
優菜は空を見上げた。暖冬だとの事でホワイトクリスマスなど望むべくも無かったが、空気は冷え切って澄み渡り、上気した頬に気持ちがいい。冷え込んではいたが風は無く、藍色の空に星がいくつか輝いている。このあたりは家々がまばらで街灯も少なく、星明りがよく見えた。優菜はこんな冬の夜が好きだった。
静かだ。
パールグレーのダウンコートのポケットに手を突っ込んでもくもくと歩いた。もっと大きな道もあったが、優菜は敢えて農道を選んだ。道は地道で曲がりくねっているが、大きな田んぼをはさんだ先には車の走る道も通っているので、まったく真っ暗という訳でもなく、見通しもいいのでかえって安全だと思ったからだ。
「よぉ、ごくろうさん」
「きゃあ!」
農具倉庫らしいプレハブの小屋からの影から大きな男が現われ、優菜は尻餅をつきそうになった。
「おま、きゃあって、シツレイだろ?」
「冬木君! ……ああ、びっくりした。痴漢かと思った」
「痴漢て、あのなぁ……ナイトと言え、ナイトと!」
志郎は、はおっているカーキ色のキャンバス地のジャケットのおかげでいつもよりよほど大きく見えた。寒さに強いのか、前のファスナーを閉めない所為で、黒いコットンタートルの下の厚い胸が見える。仕事が終わって着替えたらしい。
「今終わりか? 遅くなったな。九時過ぎてんぞ」
「うん。片づけが終ってから、ボラのみんなでシャンパンで乾杯してたから。その後片付けもしてきたし……冬木君は? お仕事終ったの? 私がよくこの道を通るってわかったね」
「仕事は終らせたよ。さすがに九時以降の配達は無いな。後の事は明日に回してきた。道路沿いに歩いてきたんだが、お前らしい白いコートが暗闇に見えたもんでここで待ってた。」
「……迎えに来てくれたの?」
「まぁそういうこった」
「電話してくれたらよかったのに」
「したら、大丈夫だからって断られると思ったんだ」
「……」
神妙な志郎の言葉に優菜は黙って微笑んだ。そんなことしないのに。
「車は?」
「置いてきた。疲れたか?」
「ううん……歩きたかったからちょうどいい」
「そうか。なら、歩こう。寒くないか」
「平気」
志郎は前を向いたまま優菜の肩に腕を回した。二人して黙々と歩き、農道を折れて道路を渡る。ここまで来ると優菜の家まであと少しだった。ここからならハイツの裏手の方から帰ることになる。山のほうの空は暗く広い。けれども真っ暗闇ではなく、深く、そしてどこか温かい藍色の天である。
「ほら……コレ」
ハイツの裏の畑の脇で志郎は立ち止まり、ポケットから包みを取り出した。
「え?」
「お前は欲しいものは無いって言ってたけど……」
「ひょっとしてプレゼントなの?」
「まぁ、そんなもんだ」
可愛らしいラッピングを施した包みは軽くて、優菜の両手の上にそっと乗せられた。
「……柔らかい。なんだろう? ここで開けていい?」
控えめすぎる小さな街灯の下で優菜は志郎を見上げる。
「ああ……カバンよこしな、持っててやる」
かさかさと音を立てて優菜は包み紙を丁寧に開いた。柔らかな不織布が現われ、その中から濃い橙色の揃いのマフラーと手袋が出てきた。カシミアなのか、とても柔らかな手触りの素材で、両方とも端に雪の結晶がニット刺繍されている。
「……」
「どうだ? 俺はこういうものよくわからないんだけど」
「キレイ。持ってない色だわ」
優菜は暖かそうなマフラーの手触りを頬で確かめながら答えた。
「そうだろ? 俺はお前にはこういう色が似合うって思うんだけど、お前わりと黒とか白とかしか着ねぇから……」
「だって無難だし……でも、そうね……こういう色もいいかも。どう?」
優菜はマフラーを首に回して結わえた。
「おお! いいじゃんか、似合ってる。俺ってセンスいいな!」
「そぉねえ……ありがとう。人から物を貰うって慣れてなくて、どう言っていいのかよくわからないけど……ありがとう。とても嬉しい」
「そか。よかった」
「だけど、私何にも買っていないわ。男の人の欲しいものなんてわからないし……お返しはゴハンでいい? 元旦だけよね? お休みって言ってたのは」
「そうだけど、欲しいものならいろいろあるぜ?」
志郎はどう言う訳か優菜から眼を逸らし、柿の木に向かって言っている。
「ほんとう? なぁに?」
「おま……聞くか、ふつう」
「だって聞かなきゃわかんないじゃない」
「くそ……口で言えるモンなら言ってるわい……だから言わない……って、ほら! それ以上さがるとケツから畑に突っ込むぞ!」
もぐもぐ文句を言っている志郎に不審を抱いて後ろに下がった優菜が、地道を踏み外す前に強い腕が腰に回って引き戻した。
「わ! も少しでコートが台無しになる所だった。ありがと、お世話かけて……」
優菜が礼を言って離れようとしても腕は解けない。
「俺はもっと世話したいの! だけどお前……自分でなんでもできるし……ちっとも俺を頼ってこねーし……まぁソコがいいんだけど、俺はもっと……くそっ!」
「!?」
キスされていると優菜が気が付いたのは、唇が重ねられてからしばらくしてからのことだった。身長差がかなりあるので、志郎は上半身を深く折っている。
「ん……」
優菜が苦しそうに身じろいで志郎は僅かに唇を浮かせたが、熱い吐息がかかると感じる間もなく直ぐに又、角度を変えて塞がれてしまう。顎ががっしりとした指に掴まれているので逃げることも出来ない。それは熱を帯びて痛いほど熱く、甘いというよりは苦しいくらいの口づけだった。
「こんなんじゃ全然足りねぇ……」
やがて顎を引くと熱っぽい瞳で志郎は囁いた。
「わかったか? 俺の欲しいもん」
「……」
優菜は答えられない。志郎も返事を待っていたのではなかった。ただ茫然と志郎を見上げる彼女の視線を隠すように胸に抱え込む。抵抗されないのが幸いだった。優菜に拒絶されたら志郎は何もできなくなってしまう。不意打ちのように奪った口づけを怒ってはいないだろうか?
「済まん……堪えきれんかった。……嫌だったか?」
「…………嫌じゃない」
たっぷりとした沈黙の後、優菜は小さく呟いた。嘘ではなかった。この男の高い体温に包まれるのは心地いい。
「ありがとう。迎えに来てくれて、プレゼントもくれて……暖かくしてくれて」
小さく微笑んだ優菜に今度は志郎が驚いた。
「お前……それ反則。俺はまだ戦闘態勢なんだぞ……ヤる気満々なんだ。そんな顔されたら調子にのっちまうじゃねぇか……くそ」
光の強い瞳が苦しげに顰められたと思うと、いきなり優菜の体が突き離された。
「さぁ、とっとと部屋に入りやがれ! ……俺が紳士でいる間にな! おやすみ!」
ヤケクソのようにがなると大きな掌が優菜の背中をぐいと押した。慣性に従い、そのままとたとたと階段を上がる。二階に上がったところで優菜が振り向いて手を振ると、志郎も情けなそうに追い払う手つきで返した。
「風邪引くんじゃないぞ!」
ドアが閉まり、部屋に明かりがつくのを見届けると志郎は歩き出す。体が火照っていて大変歩きにくい。
何処が紳士だ。優菜は気づいていたに違いない。俺は正直なんだ、正直すぎるのも困りもんだ、と心の中で繰り返す。仕方がないので、できるだけ大またで歩いた。本当は有無を言わせず優菜をひっ攫い、どこか暖かく柔らかい場所にもぐり込んで冷たい素肌を擦りあわせ、そのまま朝まで眠りたかったのに。惚れた弱みの痩せ我慢だ。
「あほか、俺」
ヤバイくらいあいつの事が好きだ……。あんな冷たい雪の女王様をさ。
今夜見た劇の場面を思い出す。優しさを氷の仮面の下に隠した孤高の女王。
だがようやく手に入りそうな距離まで近づく事を許して貰えたのだ。いくら欲しくても、二度とその距離を離してはならない。大切に育ててゆかなければ。志郎は自分の唇で確かめた優菜の柔かさを思い起こしていた。
家まではだいぶ歩かなくてはならない。空気はピリリと冷たかったが志郎は気にせずポケットに両手を突っ込んだまま、ひたすらのしのしと進んだ。荒く吐く息が真っ白い。だが、ちっとも寒くなどなかった。
カーテンを細く開け、優菜は振り返りもしないで去ってゆく志郎の後姿を見ていた。
何故こんなにドキドキするんだろう? さっき体を離された時、ダウン入りのコートを着ているというのに急に寒くなった。そして少し悲しくなった。そんな自分の気持ちがなぜだか愛おしい。冷たいガラスに額をつけて闇を透かした。足の速い志郎の背中がどんどん夜に飲み込まれていく。
明日私から電話をしよう。そうしていろいろ話をしよう。そうしたらこの変な気持ちがきっと落ち着くにちがいないわ。
心の中で優菜はそう決めた。巻きつけたままのマフラーに顔を埋め、瞳を凝らして志郎の去った方角を見つめ続ける。大きな背中は藍色の闇に溶けてもう見えない。
聖夜の空は限りなく深く、澄み渡っていた。