インディゴ・クリスマス 1
インディゴというのは限りなく黒に近い藍色。ジーンズの染料としてよくつかわれます。
『パーティのお手伝い? ……いいわよ。手伝ってあげる』
電話の向こうの優菜の声はいつも通り落ち着いたものだった。志郎としては割合気負って頼んだ一件だっただけに、優菜があっけなく承諾してくれたことに拍子抜けしてしまう。だが、同時に思わず顔がにやけるほど嬉しかったのも事実。優菜が前言撤回する前に勢い込んだ。彼には一つの危惧があったからだ。
「え! いいのか? マジ? 助かる、いや~~~、マジ助かる。どうしても断れなくってさぁ。で、時間は六時から七時半くらいまでなんだけどな……けど、ただ……場所が問題アリで」
『問題アリ?』
「もしイヤなら無理しなくても断ってくれてもいいんだ……」
『一体どこの事を言ってるの?』
「えと……あの……陵央町のキリスト教会で……」
『よね? 知ってるわよ』
「へ? 知ってんの? なんで?」
優菜があっさり答えたので、その場所に対してものすごく気を使っていた志郎は拍子抜けし、間抜けな声で聞き返した。
『だって私もそのパーティに普通に招待されているから』
「え!」
『あなたが役持ちだとは知らなかったけど』
「けどお前……あそこは……そのぅ……」
『は? なんですか? 聞こえないわ』
受話器の向こうで志郎がもごもご唸っている理由を百も承知で、優菜は意地悪く突っ込んだ。
二人がなにを言い合っているかというと――
この地区で唯一のキリスト教会では毎年、近所の子供向けにクリスマスパーティを行っていた。信者であるか否かに関係なく招待される。それはなかなか本格的な催しで、最初に神父さんのお話を聞き、賛美歌を歌った後は大学生を中心とした信者達による劇を見て、お楽しみのケーキとプレゼント交換、そしてお菓子の詰め合わせを貰えるのだ。
家の居間ではなかなか置けないような大きな樅の木、洒落たオーナメント、厳かな聖堂、晴れがましい顔をしたシスターや信徒の人たち。何もかもが非日常的で、子ども達を夢の世界へ誘う。
そして勿論この教会は昔、志郎が優菜に酷い意地悪をした、二人にとっては曰くつきの場所である。志郎の気兼ねはここに由来しているのだ。
「酒屋のご主人、はっきり言ってくださいな」
「お前……もしかして俺よりタチの悪いいじめっ子なんじゃ……」
教会のクリスマス会では、毎年アメリカ人の神父がサンタの役目をするのだが、今年は持病の腰痛がひどくてあまり身動きが出来ず、ミサを上げるだけで手一杯。とても大きな荷物を抱えるサンタの役ができそうにない。大学生のボランティアは女の子ばかり。又、子ども達の父兄に頼もうにも壮年の働き手は年末でどこも忙しく引き受け手がなく、地元の商店会に話しが回ってきた。誰か担ってくれる人材はいないかという訳だ。そして、商店会の会長が志郎に白羽の矢を立てたのである。
『ええ? 俺? 何で俺が……』
『わりぃなシロちゃん、あんた背ぇ高ぇしイケメンだし、意外と子どもたちに人気あるじゃないか。頼むわ』
『意外とは余計だ。それに俺、にこやかにプレゼントなんか配れねぇよ。店も大忙しだし。サンタなんてクリスマスに関係ない米屋の親父がやればいいじゃねぇか?』
しかし、言いながら志郎は子どもの扱いに慣れない年配の米屋の主は、サンタ役にはよろしくないだろうとは思っていた。
『いいじゃないか。志郎、やってやれよ。小学校の子も来るんだろ? お前仲のいい子もいるじゃないか。店の方も二時間くらいならなんとかなる。バイトも増やすし』
兄の悟朗もそう言って取りなすので、仕方なく志郎は折れた。
『……分かったよ』
しかし、実のところ志郎が受けたのは小学校という言葉に反応したからである。仲がいいのは子どももそうだが、特に彼が仲良くしたいのは、その子達を教える一人の教師に対してなのである。
商店会は毎年地元の教会のクリスマスパーティに、お菓子の寄付をしている。だが酒屋も当然、クリスマスや年末はかき入れ時で、ギリギリまで配達がある。教会へ出向いてクリスマス会の段取りの打ち合わせもできない。だから、志郎はダメモトで優菜に応援を頼んだ。台本の確認や着替えを手伝ってもらおうと思ったのである。
ところが優菜もクラスの子ども達と一緒に、パーティに参加することになっていた。優菜にしても例の教会の中に入るのは十年ぶりだったのだが、クラスの児童で教会の信徒の子どもがいて、クラスメイトと優菜を招待してくれたのだった。そして、招待されるだけというのも手持ち無沙汰なので、少し手伝うことにしたのだった。準備と劇の裏方を。そしてその予定を先ほど志郎が知ったと言う訳だ。優菜への依頼はギリギリで駆け込む志郎にサンタの衣装を着付け、出待ち合図等、必要な指示を出して欲しいということだった。
「で……いいのか?」
『どうしてそんなに気を使うの?』
「いや……だからあの教会はお前にとってヤな場所かもって思ってたから……」
『昔のことだわ。そんな事で折角の子ども達の招待を断ったりしません』
「俺だって受けてくれたのは嬉しいんだけど、実は場所が教会ってんで、なんてゆーか、結構気を使ってたとゆーか……」
『そんなに気を使わなくても大丈夫です』
「あ、そぉ? そう……ならいいけどな。俺としても結構トラウマだったモンで……」
志郎の語尾は煮え切らない。いつもは張りのある声が弱々しい。
『あら、そうなんだ~。ちっとも知らなかった、へぇ~』
「う……(ケンがあるじゃないか)。真面目にトラウマだったのに……まぁいいや。じゃあ、悪いけど頼んでいいか? 七時ごろには俺も行けると思う」
『ええ。だけど一つ守って欲しい事があるの』
「ああ。何?」
『私に必要以上に話しかけたりしないでね?』
「……なんで?」
『だってあなたはここでは顔がしれているし、私は地区の小学校の教師で、そんな二人が親しくしてたら変に思われるかもだもの。うちのクラスの子も来るし、もしかしたら保護者に会うかもしれないし、あなたと知り合いだと思われるのは良くないわ』
「俺たちって知り合いなのか?」
付き合ってるんじゃないのかよ?
『どうだろう……?』
本当なら恋人同士と言って欲しい志郎に優菜の返事は冷淡である。無論、わざとそうしているのだ。
「俺としてはもっと親密になりたいな~~なんて……ダメデスカ?」
『とにかく! 気安く話しかけないでね!』
志郎の甘えた声音に珍しく焦った様子の優菜に志郎は思わず笑ってしまった。
「ははは! 俺は気にしないのに」
『私はするんです。それ、守れる?』
「わかった。守る」
『ん。ならいいわ。お手伝いします。だけど……あなたがサンタさんになるのかぁ……似合わないなぁ』
「俺だってイヤだよ。ガラじゃねぇもん。だけど、しかたなくてさ。兄貴がウルサイし……」
『だけど、引き受けたんでしょ? やらなきゃ』
「わかってるよ。やるとなりゃ、子ども達に夢を与えるサンタクロースのおじさんに徹したる!」
生真面目な優菜の声に志郎はヤケクソで応じた。確かに一旦引き受けた事はやるべきだろう。
『楽しみにしてるわ』
「おお。……で、あのな?」
『まだ何か?』
「お前、何か欲しいものある?」
『ない』
「おい、速攻で言うな! クリスマスだろ? 俺がサンタになるんだろ? サンタのおじさんになんかお願いとかないんかよ? なんならホテルのディナーとかでもいいぞ……クリスマス当日は無理だけど」
『ホテルのディナー? そんなゼイタクいらないわ』
「……いらない?」
ホテルのディナーと聞いて女性に断わられた経験の無い志郎の意気は一気に下降した。下心だってないではない。しかし、彼の想い人はそんなに甘くはなかった。
『だって……う~~ん、ホントに欲しいもの無いんだもん……しいて言えば、十二月は忙しすぎたから、クリスマスくらいゆっくり休みたいって事かな?』
「ヤな女だな。こっちはかき入れ時だってのに」
志郎は文句を言った。
『すみませんねぇ』
「まぁいいさ。俺もサンタの後もまだ仕事あるし。年末までは休みが取れそうに無い。けど元旦は休む予定だから……いいな?」
『何の事かしら?』
「うっせ! いいから空けておけ……いてくださいね?」
『はいはい、わかりました』
「……OK。じゃあ二十四日にな。恩に着る」
『はい。おやすみなさい』
「おやすみ」
パチン、と志郎は携帯を閉じ、ダッシュボードの上に投げ出した。ほう~~っと大きな息が漏れる。
手ごわい恋人。最も恋人と思ってもらっているかどうかも怪しいが。しかし、断られなかった事だけでも酷く嬉しかった。とにもかくにも彼女と会えるのだ。
丘に登って夕焼けを見た時から二人の距離はぐんと近くなった。心の垣根を取り払った優菜はもう志郎を避けたりはせずに信頼を寄せてくれているようだ。しかし態度だけは相変わらずそっけない優菜に平身低頭で迫りたおし、なんとか付き合っていると志郎は思っているのだ。
それから二カ月。忙しい二人の休日はバラバラだから週末ごとに会える訳でもない。電話だけは殆ど毎日掛けるようにしているが、二人きりのデートなど一度もした事がなかった。せいぜいいつもの居酒屋に食事をしに行く程度である。無論その後はハイツに送ってさようならだ。
頼子と付き合っていた時は志郎の休日に合わせて頼子が会社を休んでいたが、優菜はそんな事思いもしないだろうし、それを分かっている志郎も強請ったりしない。そもそも数週間くらい会えなくても優菜から文句を言われた事もない。頼子からは散々愚痴を聞かされたものだが。
もしかして、付き合ってると思ってんのは俺だけ?
淡々としている癖に隙のない優菜になかなか手が届かないのだ。優菜が果たして自分の事を想ってくれているのかは分からない。聞く勇気もない。何しろ、やっと昔の所業を許して貰えたばかりなのだ。この上ヘタに手を出したりしたら今度こそ絶交される。それが怖い。怖くて踏み込めない。だがなんとかして会えて、一緒に笑ったり喋ったりすると、どうしようもなく嬉しい自分がいる。さっきの電話のように、素気なくされてもそうなのだから、我ながら情けない。情けないが仕方がない。これが惚れた弱みという奴なのだ。
くそっ! 嬉しいじゃねぇか
志郎はガッツポーズをとりたいのをぐっと拳を作る事で我慢した。取りあえずはこれで良し、後はどんな風にしたら初めてのクリスマスを二人にとっていいものに出来るだろうか?
「さぁて……お姫さんのご協力は頂けたし……どうするべぇか? 俺」
嬉しいのと照れくさいのを隠す為に、志郎は事務所の中で大きく独り言を言った。クリスマスは子ども達だけでなく、恋人たちにとってもドキドキする季節なのだ。例え色々と問題が多くても。
それは今も昔も変わる事なく―――
そんなふうにイヴの夜は訪れた。