雨上がりの別れ
羽山優菜は俗に言う、いじめられっ子だった。
小学六年の女子として、別にのろまなだったり不潔だったりした訳でもなく、頭はむしろ良いほうだったし、運動もまぁまぁ出来た。目鼻立ちは目立つ方ではなかったが、端正な造作はむしろ美しいとさえ言える子供だった。普通ならばいじめられる要素はない。だがいじめの理由など、その多くが些細なきっかけから始まるのである。羽山優菜の場合は貧しさだった。
ボシカテイであったり、セイカツホゴだのシュウガクエンジョだのという、大人達の話を聞きかじったおませな女子生徒が、どうやらそれが世間的にいいものでは無いらしいと勝手に思い込み、友人同士で噂している内に誰かが「貧乏人は無視しよう」とか言い出し、それからのことだった。
当時の田舎の小学生にとって、その属するコミュニティーから締め出されると言う事がどんなにつらいことか、当事者になってみないと分からない。
いじめを仕掛けてくるのは主に女の子で、遊びの仲間に入れないとか、持ち物をバカにするとか、一つ一つは地味だが、徒党を組む為陰湿である。男子はもっとおおっぴらに「ビンボー」等とからかった。そして彼等の精神的支柱となっているのは、クラスのリーダー、冬木志郎だった。
志郎の家は駅前の大きな酒屋で、祖父は県会議員をしている旧家であった。親戚は造り酒屋も営んでいて、立派な家に住んでいた。体も大きく、勉強も運動も人並み以上にできて誰からも一目おかれる存在であったが、どういうわけか優菜は志郎にひどく嫌われていた。クラスの皆は志郎が優菜を嫌っていると思い込んでいたし、志郎自身も優菜を目の前にして「こんなネクラな奴!」と口に出すこともあった。
だが、優菜が泣いたところを見た者はいなかったし、学校を休んだりもしなかった。だが、そのことが一層いじめに拍車をかけたことも事実だった。
彼等の街は大きな市街地まで特急でトンネルを越えて30分、田園風景が広がり、奈良時代の遺跡が多く点在するベッドタウンだった。大きなスーパーも進出し、都会から私立の有名校も移転してきたから、これからますます発展していきそうだったが、昔からそこに住む人々の意識は良くも悪くも保守的な気風が残る。
その街はそう言うところだった。
優奈が五年生の一二月。街に初めてできたキリスト教会で、クリスマスに地区の小学生の子供たちをクリスマス会に招待すると言う行事があった。田舎にしては珍しく、本格的な西洋の香りが漂うクリスマス会に子供たちはワクワクしながら教会に集まった。
イエス様の生涯の話や、賛美歌を2曲ほど教えてもらった後は、いよいよお楽しみのパーティである。
教会は木材をふんだんに使った懐古的な建物で、机や椅子を隅にどけた大きな部屋に本物の樅の木のツリーが立てられいる。それだけでも珍しいのに、銀色の付け髭を輝かせて大きな外国人のサンタクロースが現れるとパーティは最高潮で、小さい子も大きな子も歓声を上げてサンタに群がった。
サンタは皆にサテンのリボンで結んだ可愛らしいプレゼントの包みを配り歩き、シスターたちはにこにこしながら大きなケーキを切り分けた。ケーキを配るのは大きな子供の役割で、指名された志郎はきびきびと皿を配って回る。
パーテイには優菜も来ていた。
志郎は小さい学年の子供から順にケーキを配ってゆく。やがて自分の学年に配り始めた時、皆の期待に満ちた眼が自分を取り囲んでいるのに気が付いた。優菜は一番最後の席に大人しく座っている。目立たないように、静かに視線を落として。
ケーキはぴったり皆に行き渡るように切り分けられていた。これだけの大きさと数のケーキ焼くのはさぞかし大変な作業だったろう。だが、子ども達の瞳の輝きをみて、シスターたちはとても嬉しそうだった。
志郎はいよいよ高学年の一団にケーキを配りはじめた。順に直接手渡してゆく。優菜の近くに座る女子たちは好奇心いっぱいで志郎を見つめていた。その中にははっきりとした挑発の意思が読み取れた。そして、志郎はその意味を正確に理解した。
最後のケーキを優菜の前に持っていったとき、彼はわざとよろけ、皿からケーキを落とした。ケーキは優菜の目の前を通過し、膝をかすめ、床にぼってりとひしゃがる。
「あっ! ああ……あ~~あ」
志朗はおどけて見せる。
「あ~~、ダメじゃん、志郎君」
「もったいな~い、ケーキ、かわいそー」
たちまち女子たちが非難じみた声を上げる。しかし、その中にはかなりの割合で嘲弄が混じっていた。
優菜は足元の無残なケーキを見つめている。そして、ゆっくり顔を上げた。
志郎と目が合った時、大きく見開かれたその瞳は虚ろで、別に何者をも映してはいなかった。それが志郎を恐ろしく怯ませる。
「な、なんだよ。よろめいただけだろ、睨むんじゃねえよ。おっかねぇ~」
わざとらしい志郎のいい訳に答えは無い。
「あらあら」
気が付いたシスターが慌てて近づいてくる。しかし優菜はそちらを見ようともせず、床に落ちたケーキを拾い上げて汚れた床をハンカチで拭いた。そして、まっすぐゴミ箱に向かって歩いてケーキを捨てると、そのまますたすたと部屋から出て行った。
その様子はいかにも自然だった。まるで要らなくなった皿を洗ってきますとでも言うように。だから誰も後を追わず、何も言わなかったが、勿論優菜は二度と戻ってはこなかった。
「……あの子出ていっちゃった……」
「ちょっとかわいそうじゃない?」
ケーキを頬張りながら女の子たちが囁き合っている。
「……でも、いてもしゃべんないしウザイしさぁ……・ねえ、志郎君?」
志郎は何も答えなかった。ただおいしそうなケーキの味がさっぱりわからなくなっただけで。
そんな事があってから、ますます志郎は優菜を毛嫌いするようになった。言葉でからかうと目立つ自分が不利になるため、馬鹿にした表情で無視をするという姑息な手に出た。クラスの皆はそれを志郎が優菜を嫌っているからだとしごくまっとうに解釈し、やがて優菜に挨拶するものすらいなくなった。
見かねた担任が、幾度か学級会で話をして、優菜にも何度か声をかけてくれたようだが、とりあえず無視される以外はほとんど何もされるわけでなく、当の優菜があまりにも無反応な為、あまり効果はなかったようだった。志郎も様子を尋ねられたが、巧妙に切り抜けた。担任の女教師は気が優しく、確たる現場も押さえていないのに、あからさまに注意ができない。志郎はそのあたりのこともちゃんと承知していた。ただ、自分が卑怯なことをしている感覚は時々心の隅をよぎったが、無理やりそれを押さえつけた。
羽山優菜はこの小学校に四年生の途中で転校してきた生徒だった。
学年の途中で転校して来るだけでも割合珍しいのに、少しイントネーションの違う喋り方や、その神秘的―――とは言い過ぎかもしれないが、少し冷めたような、妙に悟ったような雰囲気のおかげで、最初から皆にしっくり溶け込めたとは言い難かったのは確かだ。
それでも最初のうちは二クラスしか無いこの学年でも、しゃべり合う友人はいたようだったし、優菜も自分から仲間外れにされるような事をしてはいなかった筈だ。志郎も何度か口をきいた事がある。
四年生の冬、彼女が転校してきてしばらくたった頃の事だ。
「おまえ……なんで髪くくらないんだ? うっとおしくないんか?」
休み時間にその長い髪を見て志郎は尋ねた。
「別に? この方が好きだから……ラプンツェールみたいで。」
「……?」
らぷんつぇーるがなんなのか、彼にはさっぱりわからなかったが、当時の女子はほとんど短い髪型にしていたし、長めの子も大概くくるか、三つ編みにしていたから、優菜のおろした髪は目立つな、と志郎は思った。
そういえばいじめが始まったのも、彼女が唯一、自己主張をするかのように下ろしていたその髪が背中の半ばを過ぎた、四年生の終わりの頃からだったように思う。
ごく緩やかにウェーブを描くその髪はひどく美しく、志郎は時々こっそり眺めていた。
一度席替えで偶然、志郎の前の座席に優菜が座った事があり、教室の前の部分を大きく開けて先生が理科の実験を見せていた事があった。
ぎゅうぎゅうと詰まった座席に大きな体で窮屈そうに座っていた志郎がふと手元に眼をやると、優菜の髪が自分の机まで流れているのに気が付いた。
それは窓からの光を密やかに反射し、黒色なのに色々な色が交じり合っているように見えた。
「引っ張らないで!」
トゲのある声が頭の上から聞こえ、はっと気が付いた志郎は、自分が優菜の髪の一房を握ってしげしげ眺めている事を知った。
「あ……」
そんなつもりはなかったのに、初めて優菜がキツイ口のきき方をしたことに志郎はかなり狼狽した。指を離れた髪は微かな香りを放ちながら、音もなくノートの上にこぼれる。
「だって、お前の髪の毛が邪魔でノートがみえねぇんだよ!」
動揺を隠すかのように言い放った声は、思いのほか大きく、クラスの皆が自分に注目している。志郎の顔に血が上った。
「うっとおしいぞ! もっと前行けよ!」
優菜は黙って席を前にずらし、豊かな髪はすとんと椅子の背に落ちた。クラスがひそひそとざわめいている。
その時、教師がやんわりと注意を与え、その時はそれで収まったのだが、志郎が優菜を目の敵にし始めたのはその頃からだったようだ。志郎の態度の変化は知らず知らずクラスの皆にも影響を及ぼしていくことになる。
やがて学年が上がるにつれ、徐々に小賢しくなった彼等は、優菜が当時、振り込み制ではなかった給食費の納入にたびたび遅れたり、参観日に誰も来ないなどと言うことに気が付き始め、五年生の半ばを過ぎる頃には彼女は完全に孤立していたのであった。
しかし、どれだけ無視をされ、グループ学習のメンバーから一人外されても、優菜は無口でよく勉強し、長い髪を揺らしていた。
六年生の秋には遠足の代わりに修学旅行がある。夏休み前からクラスの皆はワクワクし、二学期になってから事前学習をしたり、夕食のアンケートを取ったりと計画を練っていて、後二週間で待ちに待った旅行の日という頃。
優菜は突然学校に来なくなった。
最初の二日ほどは皆、ただの欠席だと思って皆気にしなかった。だが考えてみれば、今まで優菜はどんなに苛められても学校を休んだ事がなかったので、奇妙と言えば奇妙なことだったのだが。
次の日も優菜は登校せず、四日目になると、クラス中がヒソヒソと噂をし始めた。
「……ちょっとヤバくない?」
「え~、私らのせいだって言うの?」
「関係ないじゃん、口きかなかっただけでさぁ」
「そろそろ先生が何か言いだすよ。もうすぐ修学旅行だってのに、つまんない学活で時間とられんのいやだよねぇ。どっかの班活動に入れてやりなよ」
「ウチは七人でもう一杯だから。そっちは六人でしょ」
「ええ~、あんな暗い子いやだぁ。せっかく楽しみにしてんのにさぁ」
そんな女子のおしゃべりを聞くたび、志郎はなんともいえない苛立ちを感じた。
授業中幾度も前列の空席に目が行き、どうして先生は何も言わないんだろうと怪しんだ。
その日の夕方。
朝から降っていた雨はすっかり上がり、秋の夕暮れにふさわしい、すばらしい夕焼けが刈り取られた田んぼを照らしていた。そばを走る古い県道を、使いに出された志郎は自転車で走っていた。
田んぼの奥に小学校が見える。校門から伸びる一本の地道を羽山優菜がひとりで歩いていた。ぬかるんだ道を意識してのことだろう、傘は持っていなかったが、赤い雨靴を履いているのがわかる。
志郎は思わずそちらへとハンドルをきった。田の縁を縫うような畦道に幾つも水溜りができ、夕焼け空を映している。赤く染まった水溜りを乱暴に破壊しながらペダルをこいだ。
後ろから近づいてくる自転車の気配に優菜は振り返った。
「おい」
自転車から降りもせず、志郎はぶっきらぼうに声をかける。
「……」
「なんで、学校来ないんだ? 病気でも無いのに」
答えず、優菜は穏やかに志郎を見上げる。夕日に真正面から照らされて、優菜の体全体がオレンジ色に輝き、黒髪がつややかな栗色に見えた。
「サボリかよ?」
「……関係ないでしょう?」
投げやりな声。その瞳は遠くの空へ向けられ、志郎等、映していない。
その一言に志郎はカッとなった。それがどういう事なのか考える間もなく、言葉が勝手に口から飛び出す。
「関係ないけどな、俺には! だけどお前がサボっている間、皆迷惑してんだ。お前がいないから修学旅行の班とか、班別行動がちっとも決まらないってな!」
「……まるで私がいない事がとっても大事なように聞こえるね」
「!」
その言葉はひやりと志郎の胸を刺した。優菜がこんな事を言い返すとは、思いもしなかったのだ。ぐぅっと言葉に詰まる。
「冬木君」
静かに優菜は志郎の名を呼んだ。
「なっ……なんだよ!」
「さようなら」
優菜が背を向け、長い髪がふわりと舞った。赤い雨靴がぬかるんだ地道を踏む度にぐちゅぐちゅと音が鳴り、小さな背中が遠ざかっていく。
大人っぽい態度と子供らしい仕草の不思議な調和。そんなものを語れるほど志郎は言葉に長けてはいなかったが、自分が優菜に圧倒され、本当に言いたかったことの最初の一言すら伝えられなかったことは自覚できた。
――学校に来いよ。
次の日も優菜は学校に来なかった。
志郎は昨日のことを思い出しながら、担任が朝の学活をしに教室に入ってくるのをぼんやりと眺め、気の抜けた声で号令をかけた。
「きりぃ~つ……れぇい」
ガタガタガタ。皆が席につく。
「おはようございます。はじめにお知らせがあります。休んでいた羽山優菜さんが、転校することになりました」
「!」
級友たちがひそひそと顔を見合し、中には志郎に話しかける者もいる。だが、志郎は誰の声も聞いてはいなかった。
「みんな静かに。……実は羽山さんのお母さんは一昨日亡くなられたのです。そして羽山さんは、お葬式を済ませて親類の家に行く事になったそうです。昨日、学校に挨拶に来て、皆さんには会えないけれどよろしく、そして、修学旅行を楽しんできてくださいと伝言を貰いました。……残念ですが、羽山さんにとってはよかったかもしれません」
最後の一言はきっとクラスの皆に対する先生の皮肉だろう。自分の大きな心音を聞きながら、志郎はそんな風に感じた。
普通こんな田舎の町では葬式は重要な行事で、近所なら手伝いに行ったり、役持ちの家は受付に借り出されたりとけっこう大騒ぎなる。それが子供とはいえ、何も気がつかなかったということは如何に付き合いの少なかった家とはいえ、何か不自然な匂いがした。後になって聞いたことだが、実際は親戚の意向で儀式らしいものはほとんど行われず、優菜の母はひっそりと役場で火葬にふされたらしい。
『さようなら』
昨日、優菜が言った事はきっとこのことだったのだと、志郎は今更ながらに思いあたった。あれは学校に転校のことを告げに来た帰り道だったのだ。たった一人で。
サボリだなんて、無慈悲な自分の言葉を優菜はどのように聞いていたのだろうか?
母親を亡くしたなんて、どのような心持がするんだろうか?
このクラスに、そして自分に、優菜はなんのいい思い出も無いはずだった。親戚の家に行くことになって今頃ほっとしているのだろうか?
ざわめいたクラスの中で彼だけが凍りついたように動かなかった。
もう確かめようも無い。
行って欲しくはなかったのに。
やっと素直な気持ちが心の中で言葉の形を取った。昨日夕日に染まった小さな背中に感じたのと同じ思い。
何事もなかったかのように一時間目の授業が始まる。
窓の外には昨日優菜が歩き去った道がまっすぐに田んぼの中に伸びていた。
次項は10年後の予定です。