婚約者が弁護士の配信で「私の三百万円を返さずに別れる方法」を相談していた。
婚姻届を出す前日、匿名の音声相談を受け付けているYouTubeの法律相談ライブから、婚約者の声が聞こえてきた。
「婚約者が新居のために三百万円出してるんです。でも元カノが戻ってきて。向こうから別れを切り出させて、その金も返さずに済ませたいんですけど」
コメント欄に、ふざけた書き込みが流れた。
「男と付き合ってるって言えば? 向こうから逃げるんじゃない?」
数分後、私のLINEが光った。
「真由、ごめん。実は今、付き合ってる相手が男なんだ。明日の婚姻届は出せない」
七年続いた関係だけを切って、私の三百万円は手元に残す。
直人が弁護士に相談していたのは、その方法だった。
1
宮坂弁護士の配信はまだ続いていた。
直人が通話を切ったあと、コメント欄はものすごい勢いで流れていた。
「普通に金騙し取ろうとしてない?」
「これ本当に婚約者いるの?」
「三百万は別れたら返さなくていいって話じゃないでしょ」
私はチャンネル概要欄を開いた。
そこにあった相談フォームに、一文だけ入力した。
「今、三百万円について相談していた男性の婚約者です」
送信して一分もしないうちに、事務所のスタッフから返信が届いた。
指定された通話リンクを開き、イヤホンをつけた。
「佐伯さんで間違いないですか?」
宮坂先生の声が聞こえた。
「はい」
「先ほどの相談者が婚約者だと、確認できるんですね?」
「七年付き合っています。声は分かります。それに……」
私はスマートフォンに届いたLINEを見た。
「さっきコメント欄に書かれたことを、そのまま私に送ってきました。今、男の人と付き合っているから婚姻届は出せないって」
スタッフの案内に従い、LINEのスクリーンショットと送金記録を相談フォームから送った。
少しして、宮坂先生の口調が変わった。
「佐伯さん、まず今あるものは全部保存してください。LINEも送金記録も、配信の録画もです」
「分かりました」
「三百万円を渡したとき、用途が分かるやり取りは残っていますか?」
「あります。新居の購入資金として渡すって書きました。直人も、私のお金だから勝手には使わないって返してます」
少し間が空いた。
「それなら、そのやり取りも必ず残してください。名義が彼だからといって、それだけですべて決まるわけではありません」
声が少し柔らかくなった。
「それから、今から彼に会うつもりなら、感情的に追及しすぎないほうがいいです。お金の話はあとから専門家を通せます。まず自分の安全を優先してください」
「……はい」
通話を終えた。
机の上には、明日市役所へ持っていく予定だった婚姻届が置いてある。
証人欄も埋まっていた。
昨夜までは、提出したあと二人で何を食べるか考えていた。
紙を裏返した。
タクシーに乗り、自宅へ向かった。
窓の外には、七年間で見慣れた街が流れていた。
大学を卒業したときも、就職したときも、引っ越したときも、直人は隣にいた。
彼の実家は裕福ではなかった。
就職したばかりの頃は収入も安定せず、デート代も旅行代も、私のほうが多く出すことが珍しくなかった。
家電を買い替えるときも、日用品をまとめて買うときも、いつの間にか私が払うことが増えていた。
父は何度か言った。
「金がないこと自体は悪いことじゃない。ただ、その人が真由のしていることを当たり前だと思ってないかは、ちゃんと見なさい」
そのたびに私は直人を庇った。
結婚の話が具体的になった頃、両親が何年かにわたって私に渡してくれていた結婚資金の中から、三百万円を新居に使うことにした。
父は通帳を私の前に置きながら言った。
「これは誰かに気に入られるための金じゃない。結婚しても、自分の逃げ道は自分で持っとけ」
その後、直人が桐川市で中古マンションを見つけた。
駅から近く、内装も新しい。
私たちは何度も内見し、ここなら結婚後も暮らしやすいと話した。
住宅ローンは直人名義で組むことになった。
「どうせ結婚したら一緒に住むんだし、手続きは俺名義で進めたほうが早いよ」
そう言われ、私は疑わなかった。
購入手続きのため、三百万円を一時的に直人の口座へ移した。
そのときLINEで念を押した。
「これ、お父さんたちが私にくれた結婚資金だからね。新居以外には使わないで」
直人はすぐに返してきた。
「分かってる。真由の金だよ。俺が手続きのために預かってるだけ。もし入籍前に事情が変わったら、そのまま返すから」
私はそのメッセージを母にも見せた。
「ほら、直人も分かってるから大丈夫」
あの日の自分に会えるなら、スマートフォンを取り上げたいくらいだった。
タクシーがマンションの前に止まった。
少しだけ座席に残ってから、車を降りた。
玄関を開けると、寝室から衣類を動かす音がした。
直人がスーツケースに荷物を詰めている。
私を見ると、手を止めた。
「真由……帰ってたんだ」
視線を落とす。
「LINE、見たよな?」
しばらく口を閉ざしたあと、苦しそうに息を吐いた。
「ごめん。ずっと言えなかった。でも、これ以上嘘ついたまま結婚するほうが駄目だと思って」
顔を上げる。
「明日の婚姻届、やめよう。俺たち、別れたほうがいい」
「分かった」
直人が目を瞬いた。
私は手を出した。
「じゃあ、三百万円返して」
「……え?」
「私が出した三百万」
まっすぐ彼を見る。
「今、返して」
2
直人の表情が固まった。
「真由、七年付き合ってきて、最初に出てくるのが金なの?」
ベッドに腰を下ろし、疲れたように額を押さえる。
「俺だってずっと苦しかったんだよ。こんなこと誰にも言えなくて、やっと本当のことを話したのに」
顔を上げた。
「少しくらい、他に聞くことないの?」
昔なら、この顔に弱かった。
仕事で失敗したときも、実家ともめたときも、こういう顔をされると、それ以上責められなくなった。
今日は違った。
「宮坂先生の配信で三百万をどうやって返さずに済ませるか相談してたときは、ずいぶん元気そうだったけど」
直人の顔から表情が消えた。
私はスマートフォンを取り出し、保存しておいた録画を再生した。
部屋に、よく知っている声が流れる。
「向こうから別れを切り出させて、その金も返さずに済ませたいんですけど」
再生を止めた。
直人は画面を見つめたまま動かなかった。
やがて、口を開く。
「……俺じゃない」
「そう」
「今どき、声くらいAIでいくらでも作れるだろ」
急に勢いがついた。
「こんな録音一つで俺だって決めつけるの、おかしくない?」
「じゃあ返して」
「何を」
「三百万」
私は一歩も動かなかった。
「それで終わり。二度と連絡しない」
直人が目を逸らした。
「もうマンションに入ってる」
「新居のために出したお金だからね」
「でも、名義は俺だよ」
声の温度が変わった。
「俺たちまだ結婚してないだろ。真由が自分で俺の口座に振り込んだ金だ」
「新居の資金だって、LINEにも残ってる」
「それが法的にどう扱われるかは、弁護士に聞けばいいだろ」
さっきまでの「長年秘密を抱えて苦しんできた男」は、どこにもいなかった。
「新しいマンションの鍵は?」
「何?」
「合鍵。それとスマートロックの暗証番号」
直人が視線を外す。
「番号変えたから、今すぐ出てこない」
「昨日まで出入りしてた家の番号を?」
「会社に予備の鍵もある」
「どうして番号変えたの?」
直人はスーツケースを閉めた。
「今日はもう話したくない」
そのまま玄関へ向かう。
私はドアの前に立った。
「理由だけ言って」
「どいて」
「なんで変えたの?」
「真由、どいて」
肩を押された。
思っていたより強く、背中がドア枠にぶつかった。
肩甲骨のあたりに鋭い痛みが走る。
直人の顔にも、一瞬だけ驚きが浮かんだ。
それでも彼は何も言わず、スーツケースを引いて出ていった。
ドアが閉まった。
壁に手をつき、しばらく呼吸を整えた。
洗面所へ行くと、背中の一部が赤く腫れている。
鏡越しに何枚か写真を撮り、時刻もメモした。
宮坂先生に言われた言葉を思い出す。
証拠を残す。
感情でぶつかり合うより、今はそちらのほうが大事だった。
その夜、眠れないまま資料を整理していて、以前二人で使っていたiPadを思い出した。
旅行写真や結婚式場の資料を見るために買ったものだ。
直人のクラウドフォトがまだ同期されたままになっていた。
新しい写真を開く。
最初に出てきたのは、新居のリビングだった。
ソファに、一人の女性が座っている。
高梨美緒。
直人が大学時代に付き合っていた相手だ。
大学の同窓会や、共通の知人の結婚式で何度か顔を合わせたことがある。
直人はずっと、「もう何とも思ってない」と言っていた。
撮影日は一週間前。
別の写真では、美緒が私の買ったマグカップを使っている。
ダイニングテーブルには二人分の食事。
寝室の鏡の前では、私が新居用に置いていたルームウェアを着ていた。
さらに遡った。
先月、ホテルの地下駐車場で撮られた写真があった。
運転席に直人。
助手席に美緒。
その先はもう見なくても分かった。
一枚ずつ保存した。
最後の写真を閉じる頃には、なぜ玄関の暗証番号が変わっていたのかも、はっきりしていた。
3
翌朝、桐川市のマンションへ向かった。
何度かインターホンを鳴らしても応答はない。
さらに一度押したところで、室内から足音が近づいてきた。
開いたドアの向こうに、高梨美緒がいた。
ゆったりした部屋着。
無造作に下ろした髪。
まるで自分の家で休日を過ごしているような姿だった。
「佐伯さん?」
私の顔を見ても、大して驚かない。
「直人から聞いてる。来るかもしれないって」
視線を下げる。
「それ、私の服なんだけど」
美緒も自分の服を見る。
「ああ、これ?」
「ずっと置いてあったから。使ってないのかと思った」
「どうしてここに住んでるの?」
美緒は少し笑った。
「どうしてって……ここ、直人のマンションでしょ?」
肩をすくめる。
「もう別れたんじゃないの?」
エレベーターの到着音が響いた。
振り向くと、直人がコンビニ袋を二つ持って歩いてくる。
私を見た途端、足が止まった。
「真由? なんでここにいるんだよ」
「見に来たの」
「何を」
「昨日LINEで言ってた交際相手」
直人の顔色が変わる。
美緒が眉を寄せた。
「交際相手って?」
直人が一歩前へ出た。
「真由、こんなところで騒ぐなよ」
「騒いでない」
私は開いたままの玄関を見る。
「私の両親が出した三百万円が入ってるマンションに、あなたの元カノが住んでる」
美緒の着ている服へ視線を移す。
「しかも私の服まで使ってる」
直人を見る。
「それで昨日は、男の人と付き合ってるから結婚できないって言ったよね」
向かいの部屋のドアが少し開いた。
廊下の先でも誰かがこちらを見ている。
直人は周囲を気にして声を落とした。
「中で話そう」
「入らない」
美緒が直人の腕に手を絡めた。
「さっきから自分の家みたいに言ってるけど、名義は直人だよね?」
笑みを浮かべる。
「ローンも直人。佐伯さんが振り込んだお金だって、借用書があるわけじゃないんでしょ?」
「美緒」
「何?」
「もういい」
止められても、美緒は口を閉じなかった。
「別れたあとになって詐欺だとか、自分の家だとか言い出すほうがおかしくない?」
私は直人を見る。
「直人もそう思ってる?」
彼は目を合わせなかった。
「金の話は弁護士に任せればいいだろ」
「そう」
「ここで騒いでも、近所の人には真由が押しかけてきたようにしか見えないよ」
胸の中で、何かが切れた。
七年。
両親と何度も話し合ってまで選んだ相手だった。
この人と暮らすために、仕事の選択を変えたこともある。
昨日まで、どの部屋を将来子ども部屋にするか考えていた。
なのに彼は今、私に向かって「ここは俺の家だ」と言っている。
美緒が髪をかき上げた。
手首のブレスレットが目に入った。
見覚えがあった。去年、直人の誕生日があった月だけ、カードの請求額がいつもより高かった。
「何買ったの?」
そう聞くと、直人は笑った。
「ずっと欲しかったもの。たまには自分へのご褒美」
その「ご褒美」が美緒の腕にあった。
私の視線に気づいた美緒が、わざと手首を持ち上げる。
「これ?」
笑った。
「直人にもらった。意外とセンスいいよね」
「美緒、やめろ」
直人の声が低くなる。
「どうして?」
美緒は私を見る。
「佐伯さんってすごいよね。毎朝電車で通勤して、スーパーの値引き時間まで気にして、結婚のためにずっと貯金してたんでしょ?」
少し首を傾げる。
「そこまで頑張ったのに、直人が誰と暮らしたかったかは分からなかったんだ」
怒りで頭が真っ白になると思っていた。
逆だった。
不思議なくらい冷静になった。
「じゃあ、私が節約したお金で直人はあなたに物を買ってたんだ」
直人を見る。
「両親がくれた三百万でマンションを買って、住ませたのも美緒さん」
息を吐く。
「ずいぶん準備がよかったね」
「もうやめろって」
「どうして?」
「廊下で言うことじゃないだろ!」
直人が私の腕をつかんだ。
「触らないで」
振り払おうとした瞬間、足が滑った。
肘が壁の角にぶつかる。
「痛っ……」
擦れた皮膚から血が滲んだ。
直人が手を止める。
「真由……」
私は傷を見てから、バッグの中のスマートフォンを取り出した。
「何するんだよ」
110番を押す。
「桐川市桜丘三丁目のマンションです。婚約者と揉めて、腕をつかまれた際に転倒して怪我をしました」
住所を伝える。
「それと、三百万円の住宅購入資金を返さないために、虚偽の理由で婚約を解消しようとした可能性があります。録画とLINE、送金記録があります」
直人の顔から血の気が引いた。
「真由、警察まで呼ぶ必要あるか? 俺たちの話だろ!」
彼から距離を取る。
「それを決めるのは私たちじゃないよ」
4
警察が到着すると、私たちは別々に事情を聞かれた。
一人の警察官に肘の傷を見せ、前日からの経緯を時系列で説明した。
もう一人は少し離れたところで直人の話を聞いている。
「婚約を解消する話の途中で揉めただけです」
直人の声が聞こえた。
「三百万だって、彼女が自分から振り込んだものです。騙してません」
私はスマートフォンを開き、送金履歴とLINEを見せた。
その中には、直人自身が送った文章も残っている。
「これは真由の金。新居の手続きに使うだけで、俺個人の金にはしない」
警察官は何度か内容を確認したあと、直人へ向き直った。
「配信で、婚約者から三百万円を返さずに別れる方法を相談したのはあなたですか?」
「違います」
「その日のうちに佐伯さんへ、男性と交際していると連絡した理由は?」
「それは本当だからです」
私だけでなく、美緒まで直人を見た。
「美緒とは友達です」
直人は言い切った。
「今付き合ってるのは男です」
警察官が室内を見た。
「その方も今、この部屋に?」
直人が黙る。
「……います」
少しして、奥の部屋から男性が出てきた。
二十代後半くらい。
髪はまだ少し湿っていて、Tシャツにスウェット姿だった。
「田辺圭介です」
直人の隣に立った。
「直人とは付き合ってます」
警察は二人を分けて話を聞いた。
田辺は「半年前にバーで知り合った」と言った。
直人は「共通の友人の集まり」と答えた。
付き合い始めた時期も、一方は四か月前、もう一方は半年ほど前。
質問が増えるほど、答えがずれていった。
やがて田辺だけが少し離れた場所へ連れていかれた。
何分か経った頃だった。
「すみません」
田辺が警察官を呼び止めた。
顔色が悪い。
「俺、恋人じゃないです」
直人が勢いよく顔を上げた。
「田辺!」
「三浦さんに頼まれただけです」
田辺は直人を見ようとしなかった。
「今日ここに来て、恋人だって言ってくれたら二万円払うって」
喉を鳴らす。
「普通の別れ話だと思ってました。三百万とか、警察沙汰になるなんて聞いてません」
「田辺、お前……!」
美緒まで声を上げた。
「直人、話が違うじゃない!」
直人を睨む。
「男と付き合ってるふりすれば真由が諦めるって言ったの、あんたでしょ!」
「美緒!」
「田辺だって、知り合いに頼めばなんとかなるって――」
そこで美緒の口が止まった。
警察官が彼女を見る。
直人も黙り込んだ。
私は何も言わなかった。
もう説明する必要はなかった。
自分たちで全部壊してくれた。
5
その後、私たちは警察署でそれぞれ事情を説明することになった。
田辺も、金を受け取って交際相手を装うことになった経緯を詳しく聞かれた。
美緒も別室へ呼ばれた。
直人については三百万円の経緯に加え、私が怪我をしたときの状況も確認された。
終わった頃には、外はもう暗かった。
事前に相談していた宮坂先生から、こうした案件を扱う弁護士を紹介してもらった。
その日のうちに資料だけ預けた。
「三浦さんとは、ここから先は財産について直接話さないでください」
弁護士は送金記録を並べながら言った。
「住宅ローン、所有名義、三百万円を渡した経緯を分けて確認します」
「分かりました」
「家具や家電で、佐伯さんが単独で支払ったものもありますか?」
「あります。ただ、三百万ほど大きいものではないです」
「それも一応一覧にしておきましょう」
警察署の廊下へ戻ると、直人が端の椅子に座っていた。
ずっと下を向いている。
しばらくして、慌ただしい足音が聞こえた。
「直人!」
三浦美代子だった。
息を切らしながら息子のところへ駆け寄る。
「どうしたの? 警察から連絡きて、びっくりしたじゃない」
「母さん、今はいいから」
「いいわけないでしょ」
美代子はすぐに私にも気づいた。
「佐伯さん」
困惑した顔で近づいてくる。
「何があったの? 二人、明日婚姻届を出すって言ってたじゃない」
私は包帯を巻かれた肘を見せた。
「直人が、両親からもらった三百万円を返さずに済ませる方法を、弁護士の配信で相談していました」
美代子の動きが止まる。
「そのあと別の男性を恋人だと偽って、婚約を解消しようとしました。今日、揉めたときに怪我もしました」
美代子が息子を振り返る。
「直人、本当なの?」
直人は答えなかった。
「何やってるのよ!」
声が響き、近くにいた警察官がこちらを見た。
美代子は慌てて声量を落とす。
それから私の手を取ろうとした。
「でも、佐伯さん。七年も一緒にいたんでしょう?」
「……はい」
「お金なら、直人に少しずつ返させるから」
必死な声になる。
「警察まで入れなくても、二人で話せない? こんなことになったら、佐伯さんだって次に結婚するとき困るでしょう?」
私は美代子を見た。
七年間、彼女は私に親切だった。
正月には食べ物を送ってくれたし、結婚が決まったときも喜んでいた。
それでも息子が困れば、私に我慢してほしいと言う。
弁護士が一歩前へ出た。
「今後、返金や損害については代理人を通してください」
穏やかな口調だった。
「佐伯さんへ直接、示談や返済の話をするのは控えてください」
「でも……」
「ここは警察署です。静かにお願いします」
近くの警察官にも言われ、美代子は口を閉じた。
外へ出た。
夜の空気が冷たかった。
肘には白いガーゼ。
スマートフォンの中には、七年間信じてきた相手を疑うための証拠が何十枚も残っている。
直人との関係は、もう終わっていた。
あとは、私の三百万円を取り戻すだけだった。
6
数日後、直人側の弁護士から連絡が入った。
示談を希望しているという。
私の弁護士は、まずマンションのローン残高と現在の資産状況を調べた。
「三浦さんには、現金で三百万円を一括返済する余力はありません」
「やっぱり」
「マンションを売却するのが、一番現実的でしょう」
資料を見せてもらった。
「売却代金から残っている住宅ローンと諸費用を精算して、その残額から三百万円を返す」
「それで足りなかった場合は?」
「不足分は別途請求します」
弁護士がページをめくった。
「怪我の治療費と慰謝料、それに弁護士費用の一部も示談条件に入れます」
「直人が売らないって言ったら?」
「民事で請求を続けます」
淡々とした答えだった。
「刑事のほうも、示談が成立したからといって、私たちだけで終わりにできるものではありません」
「分かりました」
私は資料を閉じた。
「分割でそのうち返す、みたいな約束だけは嫌です」
「そのつもりです」
直人は最初、マンションの売却を拒んだらしい。
最近周辺の相場が上がっている。
今売ったら損をする。
自分の住む場所がなくなる。
何度もそう主張したという。
けれど、他に三百万円を用意する手段はなかった。
数日後、直人は売却に同意した。
示談書には、三百万円の返還に加え、怪我の治療費、慰謝料、弁護士費用の一部についても記載されていた。
マンションは指定の不動産会社を通して売却し、ローンなどを精算したあと、合意した金額を支払う。
直人が署名する日、私も弁護士事務所へ行った。
数日ぶりに見た彼は、ずいぶん痩せていた。
シャツには皺があり、目の下も暗い。
「真由」
私を見る。
「本当に売るしかないの?」
「三百万ある?」
「……ない」
「じゃあ売って」
直人の手が止まる。
「あのマンション、何か月も探したんだぞ」
「知ってる」
「もう少し持ってれば値上がりするかもしれない」
「それも私には関係ない」
直人が顔を上げた。
「前は、二人の家だって言ってたじゃん」
「前はね」
私は書類を見る。
「今は誰が住んだかも、これからいくらになるかも興味ない」
直人を見る。
「私のお金を返して」
長い沈黙のあと、直人はペンを取った。
署名する。
達成感はなかった。
ただ、話がようやく前に進んだと思った。
売却前にマンションを空にする必要があり、私も残っている私物を確認するため立ち会うことになった。
美緒はまだそこにいた。
リビングには大きなスーツケースがいくつも並んでいる。
化粧品や服を乱暴に詰め込んでいた。
私を見るなり、表情が険しくなる。
「佐伯さん、これで満足?」
答えず、自分の荷物を確認した。
立ち会いの担当者が美緒へ説明した。
「本日中に私物を搬出して、鍵を返却してください。今後は内見の準備に入ります」
美緒が鼻で笑った。
「結局、このマンション佐伯さんのものにもならないんでしょ?」
私を見る。
「ここまでして、三百万取り返すだけ?」
「そうだけど」
美緒が少し固まる。
「私は最初から三百万を返してって言ってるだけ」
バッグに最後の私物を入れる。
「直人もこの家も、もういらない」
美緒の口元が歪んだ。
次の瞬間、矛先が直人へ向く。
「家までなくなって、私どうすればいいの?」
「知らないよ」
「は?」
「自分で探せばいいだろ」
直人の声も荒くなる。
「私、あんたのためにここまで――」
「俺のため?」
直人が笑った。
「俺が金なくなった途端これだろ」
美緒の荷物を指す。
「バッグも服もアクセサリーも、誰が買ったと思ってんだよ」
「自分で買ったくせに!」
「欲しいって言ったのはお前だろ!」
声がどんどん大きくなる。
立ち会いの担当者が困った顔をした。
私は自分の荷物を持ち、玄関へ向かった。
エレベーターに乗る直前まで、二人の言い争う声が聞こえていた。
ドアが閉まった。
急に静かになった。
それで十分だった。
7
マンションの売却手続きが始まり、私は普段の生活へ戻った。
弁護士から連絡が来れば返事をする。
警察から追加確認があれば出向く。
それ以外は仕事をして、家に帰る。
高校時代の友人から、美緒が直人の仮住まいから出ていったと聞いた。
「すごい喧嘩したらしいよ」
「そうなんだ」
「気にならない?」
「別に」
本当に、それ以上の感情はなかった。
その数日後。
昼休みに社員食堂で食事をしていると、部署の後輩が慌てた様子で入ってきた。
「佐伯さん、大変です」
「どうしたの?」
「一階で女の人が騒いでます。佐伯さんが自分の彼氏を取って、家まで売らせたって……」
箸を置いた。
「分かった」
一階へ降りた。
受付の前に、美緒がいた。
手には、昔の私と直人の写真。
「この人です!」
私を見つけると、大きな声を上げた。
「この佐伯真由って人が、弁護士使って私の彼氏のマンションを売らせたんです!」
昼休みということもあり、周囲には人が多かった。
「私たち、住むところまでなくなったんですよ!」
美緒が続ける。
「自分が捨てられた腹いせに、ずっとお金と家に執着して!」
同僚たちの視線が集まる。
私は美緒の前まで歩いた。
「高梨さん」
「何?」
「ここは私の勤務先です。帰ってください」
「なんで?」
声がさらに大きくなる。
「やましいことないならいいでしょ!」
「直人に振られたのが悔しくて、私たちから家を奪ったんじゃない!」
警備員が二人やってきた。
続いて、人事担当者も姿を見せる。
「ここは会社の施設です」
人事担当者が美緒へ言った。
「業務に関係のないトラブルで、これ以上社員や来訪者へ迷惑をかけるようでしたら、警察へ連絡します」
美緒はすぐに人事担当者へ向いた。
「こんなことする社員でも、会社は何も言わないんですか? この人、私の彼氏から家まで取り上げようとしてるんですよ!」
人事担当者が私を見る。
「警察と弁護士が入っている件です」
私は落ち着いて答えた。
「マンションの売却も、双方の代理人を通して決まった示談内容です」
「必要なら、担当弁護士の連絡先と警察への相談記録を提出します」
人事担当者は一度頷いた。
「分かりました」
そして美緒へ視線を戻す。
「こちらでは社員の私的な財産問題について判断しません」
「お帰りください」
「ちょっと、待って!」
美緒が私のほうへ来ようとした。
警備員が間に入った。
「あんた、勝ったと思わないで!」
出口へ誘導されながら叫ぶ。
「直人はあんたなんか愛してないから!」
「金しかない女のくせに!」
自動ドアが閉まった。
ざわめきだけが残る。
近くにいた同僚が小声で聞いてきた。
「……あの人が、マンションの件の人?」
「うん」
「大変だったね」
人事担当者も私のところへ来た。
「今日は必要なら早退して構いません」
「大丈夫です」
「もしまた来るようなら、受付で対応します。佐伯さんが直接出る必要はありません」
「ありがとうございます」
エレベーターに乗り、職場へ戻った。
何人かの同僚がこちらを見る。
けれど、一人一人に事情を説明する必要はなかった。
私を会社で追い詰めるつもりだった美緒は、自分でここまで来て、自分から騒ぎ、自分がこの件の当事者だと周囲へ知らせて帰った。
それだけだった。
8
その日の仕事を終え、会社を出ると、少し離れた場所に直人が立っていた。
以前より痩せていた。
私に気づくと、急いで近づいてくる。
「真由」
「何?」
「今日、美緒がここに来たって聞いた」
「それで?」
「俺が行かせたわけじゃない」
慌てて言う。
「もう美緒とは完全に終わってる。会社に来たことも知らなかった」
目の下が赤い。
疲れ切った顔だった。
「マンション売るって決まってから、美緒、ずっと俺に当たり散らしてて」
声が弱くなる。
「カードも勝手に使われた。持っていけるもの全部持って、出ていったよ」
私は黙って聞いていた。
「真由」
直人の喉が動く。
「俺、本当に後悔してる」
七年間、何度も呼ばれた名前だった。
「俺たち、七年だよ」
「それが?」
「本当に、これで終わりなの?」
直人はその場で深く頭を下げた。
「口座もカードも全部見せる」
「金のことで、もう隠し事はしない」
頭を上げようとしない。
「だから、もう一度だけ話をさせてほしい」
その言葉を聞いても、胸は少しも揺れなかった。
ただ、昼間の美緒の姿が頭に浮かんだ。
三百万円を返さずに済ませる計画。
あの中で美緒がどれほど関わっていたのか、まだはっきりしていない。
直人なら知っている。
「顔上げて」
直人がゆっくり顔を上げた。
「許したなんて言ってない」
彼の表情が固まる。
「美緒さんが三百万の件に関わってたと思うなら、知ってることを全部弁護士と警察に話して」
「え?」
「LINEも、お金のやり取りも、どんな相談をしてたかも」
直人を見る。
「隠さず全部」
直人は少し黙った。
「それやったら……」
「何?」
「俺たちのことも、もう一回考えてくれる?」
私は答えなかった。
「まず、自分がやったことをきちんと話して」
直人は唇を噛んだ。
そして、小さく頷いた。
「分かった」
「全部出す」
彼は駅とは反対方向へ歩いていった。
私はその背中を見送ったあと、駅へ向かって歩き出した。
美緒をどうするかは、もう私の仕事ではなかった。
知っていることがあるなら、直人が正しい場所で話せばいい。
9
直人は翌日、弁護士へ連絡した。
思った以上に、いろいろ持っていたらしい。
数日後、私の弁護士から連絡が来た。
「三浦さんから追加の資料が提出されました」
「美緒さんの?」
「はい」
高梨美緒は、ここ数年、複数の既婚男性と交際していたという。
それぞれに違う事情を話していた。
家に借金がある。
母親が手術を受ける。
今の仕事を辞めて一緒に暮らしたい。
相手によっては、「離婚してくれたら結婚する」とまで言っていたらしい。
数十万円を何度も送っていた人。
合計で百万円を超える金額を渡していた人もいた。
直人の手元には、美緒が以前自慢げに送ってきたLINEのスクリーンショットが残っていた。
さらに、彼女が以前勤めていた会員制バーの知人も、何人かの客と金銭トラブルがあったことを知っていた。
弁護士は、今回の件に関係するものだけを整理し、警察へ提出した。
その後、別の被害を訴える人も出てきた。
正式に相談した人もいれば、被害届を出した人もいるらしい。
共通の友人から、
「美緒、直人が警察にいろいろ出したって知ったみたい」
と聞いた。
「そう」
「毎日すごい電話してるらしいよ。二人でずっと怒鳴り合ってるって」
それからしばらくして、直人から電話が来た。
「真由」
「何?」
「持ってたもの、全部出した」
「そう」
「警察も、美緒の昔の金のこと調べてるみたい」
どこか期待するような声だった。
「俺、ここまでやったよ」
少し間が空く。
「そろそろ……俺たちのことも考えてくれない?」
「直人」
「うん」
「それは私のためにやったことじゃないよ」
電話の向こうが静まる。
「あなたは、自分が関わったこと、知ってることを説明しただけ」
「でも――」
「当たり前のことだよ」
返事がなくなる。
しばらくして、
「じゃあ、俺たちは?」
と聞かれた。
「まだ考えてない」
通話を終えた。
嘘だった。
考える必要なんて、もうなかった。
元カノと一緒に婚約者を騙せる男。
自分が追い詰められれば、その元カノの秘密をすべて差し出せる男。
今どちらの味方をしているかは関係ない。
私はもう、そんな人の隣では眠れない。
その後、美緒を取り巻く状況はさらに悪くなった。
金銭トラブルを訴える人たちが弁護士を通じて返金を求め始めた。
警察へ相談する人も増えたという。
友人によれば、美緒の両親にも話が伝わったらしい。
実家へ戻ろうとしたものの、受け入れてもらえなかったそうだ。
仕事も安定しない。
住む場所も決まらない。
そこへ複数の返金請求。
共通の友人によると、美緒は周囲に「全部直人のせいだ」と言い回っていたらしい。
10
深夜、桐川警察署から電話が入った。
「佐伯真由さんのお電話でよろしいでしょうか」
「はい」
「三浦直人さんの携帯電話に、緊急連絡先として佐伯さんの番号が登録されていまして」
嫌な予感がした。
「今夜、三浦さんが自宅付近で刃物による傷害を受け、病院へ搬送されました」
私はスマートフォンを耳に当てたまま黙った。
「高梨美緒さんは現場で確保されています。三浦さんのお母様へ連絡しているのですが、現在つながらないため、こちらへご連絡しました」
「私はもう、三浦直人とは婚約を解消しています」
声は落ち着いていた。
「親族でもありません。お母様へ連絡してください」
警察官が少し間を置いた。
「承知しました」
「今後、高梨さんに関する捜査で確認事項が出た場合は、改めてご連絡することがあります」
「その場合は対応します」
通話を終えた。
スマートフォンをベッドサイドに置き、灯りを消した。
翌朝。
共通の友人から何件もメッセージが来ていた。
美緒は直人が暮らしていたアパートの近くで、かなり前から待っていたらしい。
直人が帰宅すると、すぐに口論になった。
「なんで警察にあんなもの出したの」
「真由のために私を潰す気?」
近所の人がそんな声を聞いていたという。
やがて争いが激しくなった。
美緒が持っていた刃物で、直人は腹部と脇腹を数か所刺された。
叫び声を聞いた近隣住民が110番した。
警察と救急隊が到着した時、直人は地面に倒れていた。
緊急手術で命は助かった。
ただし怪我は重く、長期の治療が必要らしい。
美緒はその場で身柄を確保され、その後、傷害容疑などで捜査を受けることになった。
それまでの金銭トラブルについても、引き続き確認されているという。
友人から届いた内容を読み終えた。
スマートフォンを伏せた。
七年続いた関係は、三百万円をめぐる嘘をきっかけに、元恋人や偽の恋人まで巻き込み、警察沙汰と示談にまで発展した。
ずいぶん遠くまで来た気がした。
冷めかけたコーヒーを一口飲み、パソコンを開いた。
午前中の仕事が始まった。
11
マンションの売却には、一か月以上かかった。
幸い、購入時より少し高い金額で買い手がついた。
残っていた住宅ローンや仲介手数料などを精算した。
その後、示談内容に従い、私の口座へ三百万円が振り込まれた。
治療費や弁護士費用の一部、慰謝料の支払いも確認した。
三百万円が戻った日。
私は銀行アプリの画面をしばらく眺めていた。
数字は、あの日と同じだった。
三百万円。
ただ、今は意味が違う。
誰かと暮らすための新居資金ではない。
直人の口座に預けられた金でもない。
私のお金だった。
父の声を思い出した。
「自分の逃げ道は、自分で持っとけ」
ずいぶん遠回りした。
それでも、戻ってこられた。
私は長めの休暇を取り、一人旅を予約した。
結婚や住宅購入のために、ここ数年はまとまった休みをほとんど使っていなかった。
行き先もホテルも、何を食べるかも、朝何時に起きるかも、全部自分で決めた。
出発前日。
荷物を整理していると、引き出しの奥から一本の鍵が出てきた。
以前、直人と住んでいた賃貸の予備鍵だった。
弁護士に連絡すると、
「三浦さんのご家族へ返せば問題ありません」
と言われた。
念のため美代子へLINEを送ると、
「今は病院にいるから、面会受付に預けておいて」
と返ってきた。
翌日は空港へ行く途中で、その病院の近くを通る。
私は鍵を封筒に入れ、受付へ預けることにした。
病院は静かだった。
面会受付で事情を説明し、
「三浦さんのお母様へ渡してください」
と封筒を預けた。
そのまま帰ろうとした。
病棟の面会スペースの前を通ったとき、聞き覚えのある声が耳に入った。
「なんでこんなことになったのよ……」
三浦美代子だった。
泣いている。
「マンションもなくなって、お金も払って、今度は入院って」
「治療費だってかかるでしょう? 仕事はどうするの?」
直人の弱い声が聞こえる。
「母さん、もういいよ」
「よくないわよ!」
「全部あの高梨って女のせいじゃない!」
少し間が空いた。
「佐伯さんだって……どうして本当に一度も来ないのよ。七年も付き合ってたんでしょう?」
室内が静かになる。
やがて、直人が言った。
「真由のところには行くな」
「でも――」
「三百万は、最初から真由の金だった」
声はひどく弱かった。
「俺が騙して取ろうとした」
「だからもう、真由は関係ない」
私は面会スペースの外に立っていた。
ドアを開けなかった。
嬉しいとも思わない。
可哀想だとも思わなかった。
ただ、聞こえてくる声が、ずいぶん昔に知っていた人のものに感じられた。
そのままエレベーターへ向かった。
病院を出ると、外の空気が気持ちよかった。
スマートフォンに、航空会社から搭乗案内が届いている。
キャリーケースを引き、タクシー乗り場へ向かった。
「空港までですか?」
運転手に聞かれる。
「はい」
「旅行?」
「そうです」
窓際へ座った。
「久しぶりの休みなので」
車が走り出した。
病院が後ろへ遠ざかっていく。
七年前の私は、こんな終わり方を想像していなかった。
結婚して、マンションを買って、いつか子どもができて――そんな未来を当然のように思い描いていた。
その未来はなくなった。
でも、三百万円は戻った。
仕事もある。
旅行から帰れば、両親と食事をする約束もしている。
人生までなくなったわけじゃない。
窓の外へ目を向ける。
もう後ろに置いてきたものを、わざわざ拾いに戻る必要はなかった。
私の人生は、まだずっと先へ続いている。




