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第17話 醸造という概念

ゴトゴト、ゴトゴト……。

 

荒野の悪路を走る改造車『ノア』の不規則な振動が、薄いシートを通して背骨に直接伝わってくる。

 

車体のフレームが悲鳴を上げるたび、内臓が揺さぶられるような不快な浮遊感が襲う。車内に充満しているのは、長年染み付いた古い機械油の酸化した匂いと、リィンが淹れた安物のハーブティーの青臭い香り。それらが混ざり合い、なんとも言えない独特の「生活の体臭」を醸し出していた。

 

俺――アステリア王国第二王子、アルス・アステリアは、運転席でハンドルを握りながら、バックミラー越しに後部座席の様子を伺った。

 

そこには、つい先ほど拾ったばかりのエルフの少女、リィンが座っていた。

 

彼女は膝の上に分厚い古文書を広げているが、視線はページの上を滑るだけで、内容は頭に入っていないように見える。その身体は、借り物の毛布にくるまり、シートの隅にできるだけ小さく縮こまっていた。

 

まるで、ここが安全な場所かどうかを警戒し、いつでも逃げ出せるように筋肉を硬直させている小動物のように。

 

「……リィン、少し窮屈じゃないかい? 荷物をどかしてもいいんだよ」

 

俺が声をかけると、リィンはビクリと肩を震わせ、長い耳を伏せた。

 

「……いいえ、大丈夫よ。人間」

 

彼女の声は硬い。

 

助けられたことへの感謝はあるのだろう。だが、それ以上に根深い「人間への不信感」が、彼女と俺たちの間に見えない壁を作っていた。

 

(ま、無理もないか)

 

俺は視線を前方に戻した。

 

彼女は荒野で行き倒れていた。その原因は「魔力欠乏症」だが、そこに至るまでに人間たちから酷い扱いを受けてきたことは、彼女のボロボロの装備や、最初に俺を見た時の怯えようから容易に想像がつく。

 

エルフにとって、人間は野蛮で、強欲で、すぐに裏切る「短命種」だ。修理屋の俺が、いきなり信用されるはずもない。

 

「ガハハ! 遠慮すんなって! 俺たちは仲間だろ?」

 

助手席のゼノが、空気を読まずに大声で笑う。その振動だけで車内がビリビリと震える。

 

「仲間……」

 

リィンはその言葉を噛み締めるように呟き、そして自嘲気味に俯いた。

 

「……私は、ただの荷物よ。壊れかけで、役に立たない。貴方たちが気まぐれで拾っただけの」

 

その言葉には、自分自身への諦めと、他者への期待を捨てた冷たい響きがあった。

 

「……ん、ここかな」

 

俺はリィンの言葉には答えず、車を路肩に停めた。

 

「どうしたの大将? 小便か?」

 

「違うよ。エンジンの吹けが悪いんだ。吸気フィルターが砂で詰まってる」

 

俺はエンジンを切り、工具箱を持って外へ出た。ゼノとリィンも続いて降りてくる。

 

ボンネットを開けると、熱気と共に焦げたオイルの臭いが鼻を突く。俺は固定金具を外し、砂埃にまみれて灰色に変色したフィルターを取り出した。

 

通常なら、魔法で汚れを吹き飛ばすか、新品に交換するところだ。だが、今の俺たちにそんな物資の余裕はないし、魔法で無理に掃除すれば繊維を傷める。

 

俺は水筒の水と、特殊な溶剤を混ぜた液体をフィルターに垂らし、指先で優しく揉み洗いし始めた。

 

「……何をしてるの?」

 

リィンが背後から声をかけてきた。警戒心よりも、職人の手つきへの好奇心が勝ったようだ。

 

「洗濯だよ。……このフィルターは羊毛ウールでできてる。強く擦ると目が詰まるからね、こうやって繊維の隙間を広げてやるんだ」

 

俺は時間をかけて、丁寧に汚れを落としていく。指先に伝わる繊維の感触を確かめながら、詰まっていた砂粒を一つずつ解きほぐしていく。

 

「……変な人ね」

 

リィンが呆れたように言った。

 

「人間はもっと、効率を求めるものだと思っていたわ。壊れたら捨てる。汚れたら買い換える。魔法で一瞬で解決する。……貴方のやり方は、ひどく時間がかかるわ」

 

「効率、か」

 

俺は手を止めずに苦笑した。

 

「確かに、魔法使い連中がやるのは『現象』の書き換えだ。燃やせ、凍らせろ、直れ。世界に対して一方的に命令コマンドを書き込む」

 

王都にいた頃、宮廷魔導師たちはそうやって全てを解決していた。壊れた壁を一瞬で直し、汚れた服を魔法で清浄化する。だが、そこには「物」への理解も、敬意もなかった。

 

「俺がやってるのは『干渉』なんだ」

 

俺は洗い終わったフィルターを風にさらしながら言った。

 

「物質には、そいつが本来持っている『あるべき形』と、製造されてから今に至るまでの『記憶』がある。俺はそいつに働きかけて、時間を加速させたり、逆に遅らせたりして、最適な状態に整える」

 

リィンがポカンと口を開ける。

 

「時間を……整える?」

 

「俺はこれを――『醸造ブリュー』と呼んでいるんだ」

 

「ジョウゾウ……? お酒の?」

 

「ああ。酒やチーズが時間をかけて発酵し、熟成して美味くなるようにね。物質もまた、適切な手入れと時間、そして魔力という『菌』を与えれば、本来の性能以上の『味』を出すんだ」

 

リィンは綺麗な眉を寄せた。まだ半信半疑のようだ。

 

「……理論はなんとなく分かるけど、そんなことが物理的に可能なの? 金属や機械はお酒じゃないわよ」

 

「百聞は一見に如かず、だね。……リィン、お前のその杖、貸してもらえるかい?」

 

俺は彼女が握りしめていた古びた木の杖を指差した。

 

「えっ? これは……私の母の形見で……」

 

彼女は躊躇したが、俺の目を見て、恐る恐る杖を差し出した。

 

受け取った杖は、長年の使用で魔力伝導率が落ち、木肌がささくれている。グリップ部分は手汗と脂で黒ずみ、先端の魔石も曇っていた。道具としての悲鳴が聞こえるようだ。

 

「始めるよ」

 

俺は右手に青白い魔力を集中させ、杖の表面をゆっくりとなぞった。

 

新しい魔力を無理やり押し込むのではない。木の繊維の隙間に溜まった「古い魔力のおり」を溶かし、木材が呼吸できるように促す。数百年の時間を経て乾燥しきった木に、再び潤いを与えるイメージ。

 

ジジジ……キィィィン……。

 

荒野に、澄んだ鈴のような音が響き渡る。

 

それは、木材がきしむ音ではない。素材が本来の呼吸を取り戻し、歓喜の産声を上げている音だ。

 

リィンが息を呑んだ。

 

杖の表面から、黒ずんだ汚れがボロボロと剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、新品のような白木ではない。深い飴色に輝き、内側から温かな光を放つ、熟成された「古木」の輝きだった。ささくれは消え、分子レベルで再結合した表面は、ニスを塗ったように滑らかだ。

 

「……嘘」

 

リィンはその場に膝をつき、杖を受け取った。

 

「ただ直っただけじゃない……。魔力の通りが、以前よりもずっとスムーズになってる。まるで、杖が深呼吸しているみたい」

 

彼女は震える手で眼鏡を押し上げ、俺の顔を見上げた。

 

そこにはもう、ただの野蛮な人間を見る目はない。未知の真理を目の当たりにした探求者の、熱っぽく、少し潤んだ瞳があった。

 

「貴方……信じられない。エントロピーを逆流させてるの? どういう計算式で? 生命付与エンチャントとは違うアプローチだわ……!」

 

「企業秘密だよ」

 

俺は優しく笑い、工具箱を閉じた。

 

「人間は短命で、せっかちだからね。でも、俺たち職人は知ってるんだ。『待つ時間』が、物事を強くするってことを」

 

リィンは杖を抱きしめ、俺の言葉を反芻していた。

 

「……待つ時間」

 

エルフである彼女にとって、時間は人間よりも遥かに長く、重いものだ。人間の魔法使いは、その時間を無視して結果だけを求める。

 

だが、この人は違う。

 

彼は、物言わぬ道具の声を聞き、その歴史に寄り添い、時間をかけて「醸造」しようとする。そのスタンスは、自然と共に生きるエルフの哲学に、ひどく似ていた。

 

(この人は……壊す人じゃない。直す人なんだ)

 

彼女の中で、警戒心の氷が、音を立てて溶けていくのが分かった。

 

「……ありがとう、アルス」

 

リィンは初めて、俺の名前を呼んだ。

 

先ほどまでの刺々しい硬さは消え、少しだけ頬を染めている。彼女は、まるで宝物でも扱うように、両手で杖を包み込んでいた。

 

「私、貴方のこと……誤解していたかもしれない。……貴方は、ただの野蛮な人間じゃないわ」

 

「そう言ってもらえると光栄だよ」

 

俺は立ち上がり、空を見上げた。白々とした太陽が、乾いた荒野を照らし始めている。止まっていた時間が、再び動き出す予感がした。

 

「さあ、出発しようか。機工都市まではあと半日の距離だ」

 

「へっ、やっとかよ。待ちくたびれたぜ」

 

ゼノが欠伸をしながら、運転席に乗り込んだ。

 

リィンも後部座席に戻る。だが今度は、シートの隅で縮こまるのではなく、窓の外を流れる景色を、興味深そうに見つめていた。その手には、新しく生まれ変わった杖が、お守りのようにしっかりと握りしめられていた。

 

車が走り出すと、エンジンの振動に紛れて、リィンが小さな声で呟いた。

 

「……ねえ、アルス」

 

「ん? なんだい?」

 

俺がバックミラー越しに視線を送ると、リィンは真剣な表情で、俺の背中を見つめていた。

 

その瞳は、もう怯えていない。未知の技術への探求心と、それを持つ者への純粋な敬意が宿っていた。

 

「私、貴方のこと……これからは『マスター』って呼んでもいいかしら?」

 

「えっ? マスター?」

 

俺は驚いてハンドルを切り損ねそうになった。

 

「だって、貴方は私の命の修理主オーナーでしょ? それに、その『醸造』の技術……もっと近くで見たいの。私の失われた魔力回路を完全に治すヒントになるかもしれないし」

 

彼女は少し照れくさそうに、けれどはっきりと言った。

 

「だから、私は貴方の弟子アプレンティスになるわ。……嫌とは言わせないから」

 

「弟子かぁ……」

 

俺は苦笑した。王子と呼ばれ、修理屋と呼ばれ、反逆者と呼ばれ、今度はマスターか。肩書きばかり増えていくな。でも、不思議と悪い気はしなかった。

 

「……ま、悪くない響きだね。よろしく頼むよ、一番弟子」

 

「ふふ、よろしくね、マスター」

 

リィンが花が咲くように笑った。

 

その笑顔は、乾いた荒野の中で、唯一鮮やかな色彩を放っていた。

 

「おいおい、俺様を差し置いてイチャついてんじゃねえぞ!」

 

ゼノが面白くなさそうにクラクションを鳴らす。

 

「うるさいわね、筋肉ダルマ! 運転に集中しなさい!」

 

「あァ!? 誰が筋肉ダルマだ! 俺の筋肉は芸術品だぞ!」

 

ギャーギャーと言い合う声が、狭い車内に響く。

 

騒がしい。けれど、ひどく温かい。地下室で一人、機械の音だけを聞いていた日々が嘘のようだ。

 

俺たちは笑い合いながら、砂塵の舞う荒野をひた走った。

 

目指すは機工都市ギア・ランド。そこには、かつてこの国を支えていた巨大な歯車と、新たな「修理」の対象が待っているはずだ。

 

俺はポケットの上から、カイルの残したボルトを指先で触れた。

 

冷たかった鉄が、微かに熱を帯びた気がした。まるで、「いい仲間を見つけたな」と笑ってくれているように。

 

(待ってろよ、カイル。……最高のチームを作って、迎えに行くからな)

 

俺はアクセルを踏み込んだ。

 

改造車『ノア』は、希望という名の燃料を燃やして、地平線の彼方へと加速していった。

 

第17話 完

※次話は明日18:00に更新予定です。

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