0-2 役名・色無スミレ
……どれほどの時間が経ったんだろう。僕はふと、汁物が煮える音を聞いて目が覚める。
ゆっくり瞼を開けると、そこには囲炉裏の中で火のついた薪の上に置かれた鍋と、鍋の中身を木のしゃもじでかき混ぜる白髪の老爺がいた。
老爺はいかにも猟師という様な格好をしており、その横には猟銃が置いてあった。
「ここは――」
「動かない方が良い。お前さんの右足、今にも千切れそうな状態じゃからの」
布団をどかして足元に目をやると、右足全体が包帯でグルグル巻きになっていた。
「……どうしてこうなったんだっけ?」
「忘れたのか? お前さんはワシが獣を狩るために設置したトラバサミに挟まれ、倒れておったんじゃ。そこをワシが助けて、ここに連れてきたんじゃよ」
ああ、思い出した。あれから朝まで歩き続けて、半ば意識を失った状態で歩いて居た所でトラバサミに掛かったんだ。右足首が妙に痛むのはこのためか。
「それと、低体温状態がずっと続いていたから調子も悪かろう。何はともあれ、体を温めるのが先決じゃ」
スッと立ち上がり、台所に食器を取りに行く老爺。僕はここで初めて、自分がどんなところに居るのかを知る。
やや広い木造の一軒家で、部屋の中心には囲炉裏があり、まるで囲炉裏から火が移るのを避けるかのように家具類は壁際に寄せられている。
僕が寝ている布団類は少し古く、掛け布団を軽く指で叩くと埃が出る程だった。
――別に、不衛生なのは気にならない。今までずっと堅い地面で寝てたから、布団なんかあるだけマシだと心から思える。
やがて老爺は木製のお椀を取って戻り、大きめのしゃもじで鍋の中身をお椀に注いでから僕の目の前に置く。
「ほれ、食え。お腹減ってるんだろう? お前さんが寝てる間、何度も腹の音がぐう~っと鳴っとったからの」
(……有り難いけど、腹の音の事は言わないでよ)
少し顔を赤くしつつも、僕は老爺が置いたお椀を両手で持ち上げる。すると、お椀を持つ手が優しい暖かさに包まれる。
手から肩へ、肩から全身へと伝わっていく熱があまりに心地よくて――
僕は耐えきれず、両目から大粒の涙をいくつもこぼし始めてしまう。
「おや、そんなに飢えてたのか?」
「違う……生まれてこの方、温かい何かを触った事がなくて……! こんなに優しい物だったなんて、知らなかったから……」
「……ふむ」
泣きながらお椀の中身にがっつく僕の事を物憂げに見つめる老爺。
聞きたい事は山ほどあっただろうに、それでも老爺は僕がお椀を空にするまで静かに待っていてくれた。
完食する頃には涙もすっかり止まっており、僕は空のお椀を床に置いた後、老爺の方に向き直る。
「本当に、本ッ当にありがとう! この恩は必ず返すよ!」
「いや、返さなくて良い。これはワシがお前さんにした事への償いだからな」
「トラバサミの事を言ってるなら気にしないで。あんな人が全く歩いて無さそうな場所で罠に掛かる人が居るなんて、普通はあり得ない――」
その続きを言おうとして、僕はハッと息を呑む。
――待って。じゃあそんな所に仕掛けられた罠に掛かった僕、めちゃめちゃ怪しくないか?
顔色を変える僕の事を、老爺は真剣な眼差しで見つめる。
「そうじゃろう。じゃからワシは、ずっと考えとったんじゃ。なぜお前さんはあんな場所を歩いて行かなきゃならなかったのか」
固唾を呑んで話を聞く僕。
「じゃが、ついさっき見当がついた。お前さんがあの雪原を歩いて居た理由、それは――」
――頼む、気付かないでくれ。魔法使いバレする位だったら、どこから脱走してきた犯罪者だと思われた方が……
「……お前さんが、最近この近くに越してきた新人猟師だからじゃろう?」
「!!」
緊張が一気に溶け、思わず僕は激しくむせてしまう。その様子を見た老爺は心配そうな眼差しを向けるが、すかさず右手を上げて無事を知らせる。
「ゲホッ……うん、そうだよ。年中絶えず雪が降りしきるこの土地での狩りになれたら、どこに行っても怖い物なしだと思ってね。でも、このザマさ。猟師に向いてないのかな、僕」
「新人ならそんなもんじゃ。死に目に遭い、手足を失いかけながら一人前になっていく。じゃが珍しいな、このご時世で若い女子が猟師を目指すなんて」
女子。僕が一番言われたくない言葉だ。
「……その、助けて貰った身で言うのも何だけど、僕のこと女子っていうのやめて欲しいな」
「理由を聞こう」
「僕は女でも男でもありたくないの。面倒くさい人だって言うのは分かってるけど、これだけは曲げられなくて」
「ふむ、まあそういう子もおろう。わかった、配慮する」
僕は一言感謝を告げ、笑顔で会釈する。
「ところで、名前は?」
「名前……それが、自分の名前を忘れちゃってさ。ここ何年も、名乗る必要がない生活を送ってきたものだから」
――無い物はどうあっても出せない。生憎、名付けの技術を磨く機会が無かったもので。
「……ここ数年一度も免許を見てないのかの? 携帯が義務付けられてるだろうに」
「えっと、それがまだ免許取れてなくってさ。この地域に来たのは、活動拠点の確保と予習を兼ねてるんだ」
「何を言っとるんじゃお前さんは……」
溜息をついて頭を掻く老爺。
――やばい、ボロが出始めた。でもこの流れで話を切り上げる方がよっぽど不自然だ。どうする?
焦りが顔に出てたんだろう。老爺は僕の顔を少しの間見つめた後、猟銃を両手に抱える。
「もういい。お主、新人猟師ですら無いんだろう?」
「…………」
「そんな顔をするでない。ワシはとっくの昔に人間社会との関わりを断った身じゃ、お主がどんな悪者でも気にせんし、告発する術を持たん」
直後、老爺は猟銃を僕に対して軽く投げる。咄嗟に両手で銃を受け止めると、僕はトリガーに指が掛かるのを避けて持ち直す。
「じゃがワシの勘違いに乗った以上、嘘を真にして貰う。もう一度トラバサミに掛かられても困るしの」
「……まさか、猟師になる方法を教えてくれるの?」
「うむ。ワシが60年の猟師人生で積み上げてきた技を、1週間で全て教えよう。ワシの技があれば、これから食いっぱぐれることも無い。お前さんが今までしてきたようなことも、もうしなくて済むぞ」
ああ、やっぱり犯罪者だって思われてる。けどそう思ってくれて構わない。事実、僕はオクタゴンで起きた大暴動の主犯だし。
「それと、新しい名前が欲しいなら『色無スミレ』という名をやろう」
――ふと老爺が口に出した新しい名前に、僕は思わず肩を震わせる。
「色無……スミレ」
「お前さんの服や長い黒髪は目立たないが、その澄んだすみれ色の瞳は特徴的だと思っての。まあ安直な名前じゃから、本当の名前を思い出した後は名乗るのを辞めてくれて構わん」
少しの間、心の中でその名前を咀嚼する。
僕は昔から、物語の主人公に付いているような自分だけの名前を貰うのが夢だった。けど僕には名付けのセンスが無いし、他の魔法使い達も似たような状況だ。
だからこそ、こんなに良い名前を貰うのはもっと後だと思ってたし、むしろ貰えずに旅を終える覚悟だってあった。
この瞬間まで名もなきモブの一人だった僕は、この名前を貰った事でようやくスポットライトを浴び、物語の主人公になれた気がした。それが僕にとって、たまらなく嬉しい事なんだ。
「……いや、素敵な名前だと思う。これからはそう名乗らせて貰うよ」
涙を堪えながら、震える声でそう返事をする。
「そ、そうか」
困惑する老爺を余所に、僕は名を貰った感動を噛み締める。
――皆にもこの喜びを味わって欲しい。皆が出てきた時に備えて、名付けのセンスを磨いておかないとな。