取引
「捨てるくらいならその命、私に売ってみない?」
真っ黒な喪の黒で全身を包んだ、しかし雪のように白く長い髪が黒の上を滑る、ちぐはぐな無彩色。
袖にあしらわれた彼岸花の意匠は、まるで死の商人のようで。
しかし死の気配を感じさせない朗らかさで、彼女は僕にそう言った。
「い、命を、う、売るって、何、を」
やっと口からこぼれた言葉は、震えていて要領を得ない。
「興味があるかい?それなら、立ち話もなんだし、」
彼女は柵を、今度は外から内へと飛び越え、僕の視界から消える。
直後、浮遊感。
世界の上下が逆転する。内側へと引き戻されているのだと、遅れて脳が気付く。
反転する世界の中、吸い込まれるような瑠璃色の瞳と目が合う。
瑠璃色と無彩色に世界が埋め尽くされる。
鈍い音。静止。激痛。
「座って話でもしようか。」
思いっきり頭を打った僕を差し置いて、彼女は話を続けたいらしかった。
「お前、お前なぁ…!」
数秒の悶絶の末、背後の柵を頼りに座り込む。
僕に続くように、彼女もすぐそばで柵に寄り掛かっている。
「思いっきり後ろに引っ張るやつがあるかよ…!」
「痛かったようで何より。少しは頭も冷えたろう。」
「んな適当な…!打ち所が悪けりゃ、」
そこまで言って、ふと気付く。
「打ち所が悪かったら、どうしたんだい?」
「い、いやその、」
「『死んでたかもしれない』?」
僕は口を噤んだ。言おうとしていたことを当てられて。
そんな、だって。だって僕は、ここに、
「『死ぬためにここに来たのに』?」
「…」
口に出せなかった、出したくなかったその言葉を。
死にたいと思いながら、結局は死にたくなどなかった。ただ生きていたくないだけだと知った、その醜悪を。
いとも容易く当てられてうつむく。
「『死にたいんじゃなくて、生きていたくないだけだった。』って気付いたって顔してるね。」
「そんなこと…!」
最後に残ったちっぽけな自尊心が反論しようとするが、全くその通りだった。
あと一歩が踏み出せなかったのは。柵の外側で、声が震えていたのは。彼女に引き戻されて、ようやく話せるようになったのは。
すべて、そのせいだったのだから。
死にたいんじゃなくて、生きていたくない。ただそれだけだったのだから。
死の間際という非日常から、生のある日常へと引き戻されて。急速に冷える脳内に溢れるのは、いつも通りの自己嫌悪だ。
「そんな、こと…」
反駁の続きは出てこない。もはや震えてもいないのに。
「でも、それでもいいんじゃないかな。」
端から僕の言葉など待っていないように、彼女は勝手に喋り続ける。
「私は仕事柄、君みたいな人をいっぱい見てきたけどさ。生きる理由なんてそんなもんでいいんだと思うよ。死にたくないくらいで。―――それに、私は君に生きていてほしい。」
「え…?」
予想だにしなかった言葉に、思わず息がこぼれる。
生きていてほしい。家族からしか言われたことがない、そんな言葉。
「だって、貴重な在庫だ。もったいないだろう?」
「は?」
今度漏れた息は、不可解からだった。
「言ったろう。私に命を売ってみないかって。」
「在庫?って…それに売るっても…え?」
引き戻された日常に、目の前の非日常が別れを告げる。
命を売るだと。いったい何を言っている。
「あぁ、言葉足らずだったね。私は仕事で寿命を売り買いしていてね。なに、全部とは言わないさ。
君が何年か分の寿命を手放すなら、相応の対価を払うよ。」
「いや、何言って、」
「そうだね。君のような人なら。寿命一年につき30万円ってところかな。」
言葉足らずだとか、そういう話ではない。
あまりの現実味のなさに脳が理解を拒む。
いっそ新手の詐欺なのではないかとすら思える。
しかし、死の商人に冗談を言っている様子はなく。ただ事実を並べるがごとき、そんな平静で。
「まぁ、いきなり言われて信じられないのも無理はないさ。ほら、一丁見本でも見せてあげるよ。」
体が左に引き寄せられる。
彼女の手が僕の頬に伸びてきて、強引に向きを変えさせられる。
どこまで深い、海のような瑠璃色。夜闇の中で、月に照らされて一層輝く白磁の肌と、雪のごとき白い髪。ゆるく曲線を描く、薄い紅。
視界の全てを覆いつくす、不意に現れた非日常。
「じっとしていて。すぐ終わるから。」
僕から離した手で胸元からロケットペンダントを取り出し、それを両手で握りこむ。閉じられる瑠璃色。
何が始まるのかと身構えていると、彼女はにわかにローブの内側から、粗く削られた水晶の結晶を取り出して自分の足の上に置いた。
水晶は外部の粗さに比べて内部は恐ろしく透き通っていて、その透明に向こう側の喪の黒を映している。
ややあって、手袋を脱いだ彼女は再び僕の頬に触れた。手袋越しではなく、今度は素肌で。
片方の手を僕の頬に、もう片方の手を水晶に置きながら再び瑠璃色の瞳が閉じられる。
夜風に晒されていなかった温もりに触れられ、頬が熱を持つ。
「…!」
いや、熱を持っているのは頬だけではなかった。
体の奥からじんわりと熱が広がる。
不意に、彼女の触れている水晶が仄かに光を放っているのに気付く。
正確には光を放っているのではなく、内部が発光しているのだ。
先ほどまで透き通っていたその水晶は、今は内部がひび割れ、その亀裂に沿うように光の線が走っている。
しかし不思議なことに外部に傷らしきものは見受けられない。
なぜか内部だけがひび割れている、光の結晶。
「…終わったよ。」
呆気にとられていたところを、彼女の声でふと現実に引き戻される。
いつの間にか温もりはなくなっていた。
そそくさと手袋を履き、ほの白く光る水晶をローブにしまう彼女。
温もりも、あの暖かな光も。今は喪の黒に隠されて見えなくしまった。
不意に心地よい疲労感に襲われる。いつもよりもわずかに力が入りづらい、不思議な感覚。
運動の後にやってくるような、そんな虚脱に。
「今、君から二か月分の寿命をもらったわけだけど。」
「は?」
「対価は払わないとね。」
おもむろに彼女は茶封筒を取り出して、その中から数枚の紙幣を取り出す。
現実感がなくなる中、妙に世俗的なその光景に、一層理解が追い付かなくなる。
「はい、二か月分で五万円。君の命の査定額だ。それと、」
どこからか取り出したメモに、ペンの黒が走る。
「気が向いたらここに来るといいよ。店主に『那美に会いに来た』って言えば通じるから。」
メモと、何の対価かもわからない現金を渡されて、呆然とする僕を尻目に彼女は去っていく。
「誰が行くかよ。」
「はは。そう言うと思った。けどね。」
一瞬だけ振り向いて、彼女は微笑む。
「必ず、私に会いに来るよ。それじゃ、」
またね。
そう言い残して、今度こそ彼女は去っていった。