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残雪  作者: ひめりんご
9/21

9話

 ベルンシュタイン兵は作戦へ向かう際、特にパルチザンが潜む森林を抜ける際には人質である占領地の村人を前に歩かせ、地雷の有無を確認させる。


 パルチザンの皆が恐れている。歩く村人とその後ろを並んで歩くベルンシュタイン兵たちに向かって発砲の合図が隊長であるストロジェンコから下されることを。

 撃つのは敵じゃなくて、自分の家族かも知れないという恐怖が引き金を引くはずの指を固まらせる。それこそがベルンシュタイン兵の第二の狙いで、彼らの術中にすっかり嵌まってしまうことは誰よりもわかっていた。


 リリャはその中でも冷静な方だった。パルチザン部隊のようにベルンシュタイン兵を守るの人の盾の中に家族がいるわけでもない。撃て、と命令が下れば、すぐさまに引き金を引くことができた。


 それでも、今一緒に戦っている同志たちの家族を撃ち殺してしまうかも知れない可能性はリリャを暗澹たる気持ちにさせた。


 木の上で、リリャはじっとその時を待っていた。ベルンシュタインの軍隊が森の中を歩いてくる。先頭には村人たちがぞろぞろと歩き、後ろにはベルンシュタイン兵たちと装甲車が進んでいた。


 合図があれば森の中に潜む、パルチザン部隊が一斉に攻撃を開始する。攻撃を始めたらそれに合わせて、リリャたちも森に潜み狙撃を開始する予定だった。


 一斉に弾がベルンシュタイン兵らに向かって降り注ぐ。地に伏せる村人たちと装甲車の影に隠れる敵たち。リリャは間抜けにも頭を晒した敵兵の脳漿を散らした。──はずだったのだが、弾丸は確かに貫通した。しかし、それは囮のヘルメットを装甲車の陰から出して様子を伺っていただけだったのだ。


 「しまった!」


 位置がばれた。リリャは慌ててその場から離れようとする。木の上に陣取ったので、急いで木から降りようとした。少しの判断ミスが生死を分けると、戦場に来てから強く感じていたはずなのに。


 ベルンシュタイン兵は車載の重機関銃で森林を薙ぎ払うように連射してきた。ベルンシュタイン兵たちは森を焼くのも厭わず、火を放ち始めた。これは放火の意趣返しなのかも知れない。


 リリャは二、三発弾が体を掠めた。しかし、それすら奇跡的に避けれたようなもので腹に一発弾が貫通し木から袋のようにドサ、と落ちた。

 腹に穿たれた弾が内臓を傷つけているかも知れなかった。雪の上に血が広がっていくのを感じている。


 あらかた倒したと思ったのか連射の音がやむ。しかしリリャの耳には全ての音が遠くなっていた。


 「──ャ、リリャ、リリャ! しっかりしろ!」


オクサーナの声が聞こえてきた。いつのまにかリリャは塹壕まで引っ張られてきて弾の摘出を受けていた。気絶している間に摘出されたのが良かったのだろう。摘出時の痛みを感じなかった。固く包帯を結ばれ止血されていた。


 ペチペチとオクサーナに頰を叩かれる。


 「オク…サーナ」


 「喋れるなら死んでないな。よし」


 そう言ってオクサーナは何処かへ行ってしまう。血の臭いが漂う。肩が痛みながらも辺りを見渡すと、そこには負傷者が並べられていた。痛みから呻き声を発する者はまだいい。死体のように静かな者もいた。


 オクサーナが横になっている者たちを跨ぎ、こちらへ戻ってくる。リリャはオクサーナの制服のズボンの端を掴んで引き留めた。彼女は危うく転げそうになったのが申し訳ない。


 「オクサーナ、状況は…どうなっているの?」


 「まず心配するのはそこか。自分の体の心配してもいいんじゃないの? あんたはミハイルが担いできてくれたんだよ。たまたま見つけたって。運が良かったね。あんたは蜂の巣になっちゃう可能性の方が高かったんだから」


 オクサーナはそう言いながらリリャの額の脂汗を拭ってくれた。


 「パルチザン部隊は装甲車からの攻撃で半分近くがやられた。残りでなんとか抑えてるけど、奴ら森を燃やし尽くす勢いで攻撃してくる」


 リリャは痛みで軋む体を無理やり起き上がらせようとした。


 「行かなきゃ…」


 「ダメに決まってる。あんたはここで安静にしてな」


 オクサーナがリリャの体を強引に寝かせる。


 「でも、みんな戦ってる。私だけ寝てるわけには…」


 「体に穴が空いてるんだよ? 内臓は奇跡的に損傷してない位置だったけど」


 オクサーナはこの塹壕に寝ている全員を後方の野戦病院まで運びたくてうずうずしているようだった。しかし彼女一人では運び出すのは現実的ではなく、そしてベルンシュタイン兵の策略によりリリャたちはパルチザン部隊と共に孤立しているらしい。

 後続の支援部隊が包囲網を突破するまで、耐え抜かなければならない。


 「わたしのせいだ。私がミスしたから…」


 リリャは責め立てる子供達の声に晒されながら、うわごとのように呟いた。それをオクサーナがすぐさま否定する。


 「あんな狙撃手殺しの戦法によく生き残ったよ。リリャ、あんたのせいじゃない。ベルンの奴らが卑怯なだけだ」


 オクサーナが鞄を漁る。「包帯が切れた」と忌々しげに呟いた。すると、オクサーナは服を脱ぎ出し、自分の下着を包帯代わりに破き始めた。

 塹壕に滑り込むように入ってきた雪が溶けた泥だらけのヴェニアミンが驚いたように下着姿のオクサーナを見つめた。


 「どうした? とうとう寒さで頭がぶっ壊れたのか?」


 「包帯が足りないの。ヴェニアミン、あんたも下着を出しな!」


 ヴェニアミンは舌打ち一つと共に素直に縫い目が均一の工場製の下着を投げ渡した。軍から支給されているもので、男女関係なく男物だ。オクサーナもリリャも同じものを着ている。

 リリャは今着ている下着が包帯と同じく血を吸って重くなっているのを感じた。

 

 オクサーナは寒さからかすぐ軍服を着直すと、他にも包帯代わりになるものを探しに行ってしまった。残ったのは血と泥に塗れた顔を拭っているヴェニアミンと意識があるリリャだけだ。

 他にもこの場に人はいるが声が出せないか、呻き声を出す者だけだ。


 ヴェニアミンから見て、リリャが情けなく寝転がっているのを「役立たず」と呟いた。それはリリャの頭を沸騰させるように熱くなったが、そのせいで血が包帯に滲む感覚があり、すぐに熱は冷めていった。

 

 役立たずであることはリリャが一番わかっていた。今日リリャがしたことといえば、囮のヘルメット目掛けて狙撃しただけだ。負傷して、運んできてくれたというミハイルの手を煩わせた。


 また負傷者を背負って這ってきたオクサーナが塹壕へと入ってきた。包帯不足なのを承知で必死に治療に当たっている。先程の下着を破いたもので必死に止血しようとしている。


 血の臭いが充満して、リリャは吐きそうになった。この世に地獄というものがあるのならば、きっと今のような惨状をいうのだろうと思った。リリャの隣で寝ていた男が静かになる。先程まで呻いていたというのに。


 このままではいけないと思った。怒りで痛みが感じないうちに、リリャは自分のそばにあった狙撃銃のところまで這っていった。手が潰れたわけじゃない。引き金はちゃんと引ける。貧血のようにくらくらする視界の中、銃だけがはっきりとしていた。


 攻撃の音が近づいて来ていた。いつの間にか戻って来ていたオクサーナが手に拳銃を握り締めている。衛生指導員にもいざという時のために武器が支給されていた。


 横になっていた男が震えながらオクサーナに手を伸ばす。


 「頼む、殺してくれ。助からないんだろ、俺は」


 攻撃の音から味方がやられ、自分たちへと近づいていることがわかったのか、それとも怪我の具合から悟ったのか。どちらかはわからないが、彼はもう楽になりたがった。


 オクサーナはぎゅっと拳銃を握り直した。


 「私の患者たちを死なせない! ベルンの奴らがここまで来たら、あたしだって一発くらい鉛玉をぶち込んでやる」


 ヴェニアミンの姿はいつの間にか消えていた。彼だって怪我をしたからここに来たはずなのにまた戦闘へ出て行ってしまったのだろうか。


 リリャは壁を支えにしながら立ち上がった。オクサーナが驚いたようにリリャを見つめる。


 「リリャ、あんたは──!」


 「止めないでオクサーナ、命尽きるときまで戦うって決めてるの。横になったまま死んだら私は後悔する」


 不思議と今は痛みすら遠のいていた。役立たずのまま死にたくない。

 

 リリャは装備を持って塹壕の外へ出た。森林は焼けた跡があり焦げ臭かった。無惨にも焼き倒された木の幹がリリャの姿を隠してくれていた。そのまま這って狙撃できる場所まで向かった。

 ズボンから溢れ出した経血が雪上に赤黒く血の跡を作り、リリャの足跡を表していた。しかしそんなことには気づかずリリャは焼けた森林跡を這いずり回った。


 ベルンシュタイン兵らの根城であるノンナ村の少し開けた広場のようなところにはバリケードを築いて機関銃を据え付けてあった。全員が全員、パルチザン掃討に出向いたわけではなく(もちろん命運をかけた大きな作戦だろうが)村には少数だが補給部隊と思われる兵士たちが残っていた。


 機関銃以外は大砲も迫撃砲もなく、軽装備の小隊だ。完全に、パルチザン掃討に兵を割いているのかそれともベルンシュタイン側も支援物資が枯渇していて、補給も鉄道の破壊でうまく行っていないのだろうか。


 パルチザン部隊が積み重ねて来たものに、熱いものがリリャの中に込み上げて来た。


 「オリガ、あなたの死は無駄にはしないからね」


 会ったこともないパルチザンの少女の生き様が、リリャの背を押したような気がした。撃って、撃ってその度に場所を変えながらリリャはベルンシュタイン兵を葬り去っていった。的外れな場所に機関銃を放っている様子は滑稽とすら思えた。


 内側に毛のついた防寒用ブーツの感覚もなくなるほど足の感覚がなくなっていくのを感じる。手の感覚も薄い。しかし引き金を引くことだけは忘れなかった。


 次はここに潜もうと考えたとき、何か動物が動いたような気がしてリリャは近距離戦闘用にと覚え直した拳銃を構えた。


 「撃つな、味方だ」


 その声はミハイルのものだと気づき、リリャは銃を下ろした。


 「狙撃手の考えることは似てしまうな」


 「歴戦の猛者と思考が似ているなんて光栄です」


 リリャは少し息を吐いて微笑んだ。白い息が出る。ミハイルはリリャの姿を見て、股から滴り落ちる血の色に気づいただろうに何も気づかなかったふりをしてくれた。


 背を低くして、木の枝ぶりのおかしい所が無いか確かめながらリリャたちはそこに潜んだ。今度はミハイルが狙撃手でリリャが観測手だ。ミハイルの狙撃を間近で見る機会は初めてだった。

 ミハイルは雪の塊を掴み、口の中へと放り込んだ。白い吐息で発見されないようにするらしい。リリャも真似してみたが、口の中の感覚が無くなって行ってすぐに吐き出してしまった。吐き出した後もじんじんと痺れるような感覚だけが舌に残っていた。


 よく見ればミハイルの狙撃銃からはスコープが取り外されている。スコープの反射から自身が見つからないようにするためだという。ミハイルはスコープなしという状況から狙撃を成功させていたのかと背筋がひやりとした。


 木の上に陣取っているベルンシュタイン兵をリリャは見つけた。気をつけながら双眼鏡で覗くと、狙撃兵ではなく一般歩兵が偽装しているだけだった。ライフル銃も狙撃用ではなくスコープの無い通常のものだ。


 スコープがないもの同士、勝負を決めたのはミハイルの方だった。すぐさま迷いなく引き金を引き、ベルンシュタイン兵は頭を撃ち抜かれ木から落ちた。


 その素早さに見惚れていたのが何だか恥ずかしくなって、リリャは口を開いた。何か言わなければと思ったのだ。


 「私を担いで運んでくれたって聞きました。ありがとう」


 それをベルンシュタイン兵が木から落ちたことでリリャが木から落ちたことを思い出したと思ったのか、ミハイルが何だかくしゃりと顔を顰めた。リリャはいつもこの人に複雑な顔をさせてばかりで笑顔にさせたことがないと思う。


 「当然のことだ。味方を見捨ててはいかないだろう」


 その言葉に安心したのか、リリャは腹の中を蛇が走り抜けるような痛みを覚えた。今まで忘れていた痛みが帰って来たのだ。腹に穴が空いているからではない。女性特有の痛みがリリャの腹の中を駆け巡った。血も雪の上に滲んでいる。


 急にリリャは恥の意識に苛まれ始めた。ミハイルの前でリリャはなんて様を晒しているんだろう。恥を何処かに置いて来てしまったかのように見えるのではないか。白い顔が真っ赤になった。


 それに気づいたのか、気づかなかったのかミハイルは静かに語り出した。


 「狙撃に向いているのは女性だ。筋力が弱いから骨盤に頼って立つから狙撃向きの姿勢の飲み込みが早い、骨盤が広いから銃を持っても重心が安定する。何より痛みに強い。忍耐力があるんだ。それは狙撃兵にとって重要だ」


 つまり何が言いたいのかというと…と、ミハイルは続けた。


 「君は頑張っているということだ」


 ミハイルははっきりとリリャから溢れる血に気づいていた。その痛みに耐えて戦っていることを褒められたのだと理解して咀嚼するまで時間がかかった。

 

 「ありが…とう?」


 疑問形になってしまったのは仕方がないだろう。ノンナ村に残った兵士たちに大打撃を与えていたところ、リリャたちはイヴァンとアレクセイと合流した。二人とも怪我はないようだ。


 「喜べ同志諸君、我がルフィーナの援軍がベルンの奴らを俺らごと包囲した。内側と外側から同時に叩くぞ」


 イヴァンがこれまで耐えた甲斐があった!と言わんばかりに喜びを体全体で表していた。孤立状態にあった悪竜ズメイとパルチザン部隊は援軍の到着により、活路が見出された。ルフィーナ軍の強さはその圧倒的な数にある。


 イヴァンもアレクセイもリリャが血を垂れ流しっぱなしだったが気づかないふりをし続けてくれた。

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