8話
占領されたノンナ村奪還の作戦は静かに始動した。ノンナ村は合流したパルチザン部隊の故郷でもあり、尚更取り戻したいと強く感じる。
リリャはミハイルと組み、アレクセイはイヴァンと組んで作戦に当たった。新入り同士を組ませて、死なれたらまた欠員を補充しなきゃならない、というのはヴェニアミンの言葉だ。
そもそも狙撃兵とは二人一組になって動くのが基本で、その片方は経験豊富で優秀なものが望ましいとされていた。
リリャとミハイルは雪と汚泥の道を歩いていった。軍用の皮のブーツが雪と泥を踏み締める。ミハイルはずんずんと前に進み、リリャはその後ろを必死に着いて行った。途中で、歩幅の違いに気付いたのかミハイルが後ろを振り返ったが、リリャの歩調に合わせるということはしなかった。
ゆっくりしている暇はないし、ここでリリャの速度に合わせたらリリャの自尊心が傷つくことがわかっていたのだろう。リリャも合わないブーツの中で必死に足を動かした。
雪が薄らと剥き出しの岩肌に白粉を塗ったようになっていた。岩の裏でミハイルが這う体制に切り替え、リリャもそれに倣う。村が見える位置に陣取った。村を囲む森はパルチザンが潜んでおり、ベルンシュタイン兵も警戒しているだろう。
ノンナ村は首都フィーナに攻め入るためには重要な拠点だ。ここを崩しておかなければ春になればまた大攻勢が始まるだろう。奴らに冬を越させてはならない。
リリャたちは静かに進む。狙うのは将校。次に工兵、砲兵、通信兵、機関銃手、一般兵の順番で狙う。基本的にすぐ代えの効かない兵種を狙う。教科書にも書いてあった。リリャはこの作戦の前にミハイルから拳銃を渡された。近距離戦および、弾切れ時の予備であろうと教科書通りに考えていたリリャだったが、ミハイルは険しい顔でこう言った。
「いざという時の使い方を考えておきなさい」
それは敵兵に捕虜にされ恥辱に塗れた扱いを受けるくらいなら自死用にということだった。狙撃兵とは一番恨まれる兵種だ。それが女性ともなれば扱いは悲惨だろう。撃ち合って死ねればまだマシだが、生き残って捕虜にされた場合は…。
リリャは体の芯から冷えて、震えが止まらなくなった。ミハイルは流石に脅しすぎたと思ったのか、「そうならないように戦うのが一番だから」と言った。それでもいざという時を考えないようにするのは無理だった。
そしてリリャは一つの考えに辿り着く。もし捕虜にされそうなら拳銃で自殺するのではなく手榴弾で敵を巻き込みながら死のうと。
リリャは村を見つめながら、ライフルを構えスコープを覗いた。拳銃と手榴弾を横に置いて、寝転がっていた。片目を見開いていて目はなんだか乾燥したパンみたいな気持ちになるし、雪が凍ってリリャをその場に縫い止めようとするようだった。
ミハイルはリリャの隣で双眼鏡を持ち、マシンガンを構えていた。これは近距離戦闘を想定してだ。
スコープの中に軍服を着た男が映る。立派な飾緒がその男がそれなりの階級に属していることを窺わせた。少佐か、中佐あたり。かなりの大物だ。
「リリャ、そのまま撃て」
位置や距離、風の有無をすぐにミハイルは言い当て実践経験の深さを感じさせた。しかしなかなかリリャは引き金を引けなかった。ミハイルの前で殺人を犯すことに躊躇いが生まれていた。まるでイリヤの前で銃を持っているのが恥ずかしいという乙女心が湧き出たかのように。
急に不安になった。これが初めてではないというのに、急に基礎ができていないような気になったのだ。リリャは紙を広げて白樺の木を目印に、距離を確かめたくなる衝動に駆られた。「実戦で紙を広げて定規を使うのか!」とエカチェリーナの叱責が脳内に鮮やかに響く。
「リリャ!」
ミハイルは撃てと、急かす。機会はそんなには巡って来ない。
「何してるんだ、早く撃て!」
頭の中で何重にも重なった甲高い子供達の声がミハイルの声と重なった。
リリャは「もうなるようになれ!」と心の中で唱えると、引き金を引いた。弾は頭に命中し、敵将校は崩れ落ちる。すぐさまその場から離脱しようとした時だった。
雪の中を誰かが這うような音が聞こえた。リリャはミハイルを見る。ミハイルは静かに首を振った。ミハイルでもなければ味方でもない。敵がリリャたちの存在に気づき、葬りさろうと静かに近づいてきたのだった。
近距離はミハイルのマシンガンで対策済みだ。ミハイルは躊躇いなくマシンガンで這ってきた敵たちを撃ち殺した。しかし、その中でもしぶとく生き残った敵兵が最後の力を振り絞って拳銃をミハイルに構える。
リリャはブーツの筒口から差し込んであったナイフを取り出すと敵兵に飛びついてナイフを突き立てた。ナイフは、音も無く一瞬にして柔らかいものの中に沈み込んでいく。その奇妙な感覚のあと、鉄の味がする赤い液体が溢れ出した。
「馬鹿! こういう時は拳銃を使うんだ!」
ミハイルの叱責が飛んできた。敵兵の鼓動が聞こえなくなったのを確認してリリャはナイフをずるり、と引き抜いた。滴る血が雪に落ちて白粉に紅を落としたみたいになっている。
「ごめんなさい」
拳銃は自死用にとばかり考えていたリリャは咄嗟のことにそこまで頭が回らなかったのだ。今回は運が良かった。改めてリリャは殺した敵兵を見た。そして手に握られたものを見て、息を呑んだ。
拳銃だと思っていたのは黒のシガレットケースだった。死を悟って最後に一服したかったのか、それとも命乞いをしようとタバコを奨めようとしたのか。捕虜としての待遇を少しでも良くしたかったのだろうか。
わからない。リリャが殺してしまったから。リリャたち悪竜の隊の規模では捕虜を後方に移送する手段が無い。その場で射殺処分されるか、パルチザンたちに凄惨な私刑にあうかの二択しかないように思われた。どうせ死ぬ運命だった。リリャがそれを代行しただけだと、自分に言い聞かせ続けた。
また震えが止まらなくなった。ベルンシュタイン兵を殺しまくって復讐したいというリリャの気持ちと体が乖離しているように感じた。ミハイルが返り血で血まみれにも関わらず抱きしめてくれた。
「よくやった、よくやったよリリャ。いい子だ。いい子だから」
幼い子供を落ち着かせるような響きがミハイルの声にはあった。ミハイルはリリャを慰めながら、パルチザンの根城である土壕へと戻った。血まみれになったリリャを見て待機していたオクサーナは酷く驚いた。
「リリャ! あんた血まみれよ。怪我は」
「大丈夫オクサーナ。全部返り血よ」
しかし、そのときどろりと体内から血が溢れる感覚がした。気持ちが悪い。体から腐った魚のような異臭が漂うようだった。
「オ…オクサーナ、やっぱり怪我しちゃったのかもしれない。血が…」
オクサーナはリリャのピナフォア・ドレスのエプロンに今も滲み続ける血を見て何かに気付いたようだ。
「リリャ、ちょっとこっち来て」
オクサーナはリリャの手を引っ張り、土壕の奥リリャたちに与えられた空間へと連れてきた。そして鞄を漁ると布を取り出した。
「これを当てて。あんた生理まだ来てなかったんだね」
生理用の当て布は下着の袖だった。これを洗って繰り返し使う。負傷者用の包帯も足りていない状況で、生理用品が支給されるわけもなかった。
とりあえず血まみれになった服は脱いで、軍服に着替えた。軍の洗濯は洗濯部隊が担っているのだが、ここでは後方まで戻らなくてはならないので、自分で洗うしかない。
雪を溶かした水に、石鹸を削りとったものを少し入れて手で擦り合わせた。完全には落ちず、なんだか黒っぽくなってしまった。申し訳ない気持ちが湧き上がる。
「暖かい飲み物を淹れた」
リリャが洗濯から戻ると、ミハイルがリリャに湯気が見えるほどにはまだ暖かい、そして薄い味のコーヒーを差し出した。奥ではそれをちびちび飲んでいるオクサーナの姿もある。
「ミハイル、どれだけ察してるの? ちょっとキモチワルイよ」
オクサーナが薄いコーヒーを苦い顔で飲みながらミハイルに尋ねる。
「妹が沢山いるから、嫌でも察してしまうさ」
リリャはぼんやりとミハイルは兄だから世話焼きで、リリャにも優しくしてくれているのではないかという気がした。初めて会った日、ミハイルがあんなにもリリャのために悲しんでくれたのは妹と同じくらいの歳の女の子が酷い目に遭っていたからだと。
リリャは渡されたコーヒーに口をつけた。味は薄いはずなのに濃い苦味が口の中に広がっていくような気がした。
その時、パルチザン部隊の人たちが土壕に転がり込んできた。
「衛生兵!」
呼ばれるとオクサーナはコーヒーを飲み干し、鞄を持ってすっ飛んで行った。パルチザンのうちの一人が腹から出血している。「弾に当たったんだ」と苦しそうに男は言う。
パルチザン部隊は今日、ノンナ村の納屋を火炎瓶で放火しベルンシュタイン兵たちを外へ炙り出そうとした。自分たちの村に火を放つ決断にはどれほどの覚悟がいるのだろうか。
攻撃、撤退を繰り返し敵の戦力を削ぐ。これがパルチザンの基本の戦い方である。敵は拠点である村を放棄できないからずっとノンナ村に縛りつけておくことができる。ノンナ村は首都フィーナ襲撃の際の重要な補給地点であるため、奴らは簡単には逃げ出せない。
こちらが一歩も引いてはならない命令が降っているが、奴らは命令はないのに引けないのだ。
腹から弾を摘出したパルチザンの男はぐったりと簡易のベッドに横たわった。縛られるように強く巻かれた包帯に血が滲んでいる。
「弾は出した。あとはあんたの気力次第だ」
素早く処置を終えたオクサーナが彼女なりにパルチザンの男を励ます。濁点がついたような呻き声を上げながら、パルチザンの男は答えた。
その後に、パルチザン部隊の仲間や悪竜の仲間も合流した。別行動をしていたアレクセイとイヴァン、フェドートとヴェニアミンも無事に帰ってきた。
はじめての生理に戸惑っているリリャをミハイルとオクサーナは先に休ませてくれていたのが、申し訳なく感じた。
「リリャ、怪我したのか? 場合によっては後方の夜戦病院まで──」
アレクセイは先に横になっているリリャを見て青い顔をした。ただでさえ彼はもとから青白い肌なのに、さらに顔色が悪くなっているように見える。
「コロリョフ上等兵、女子特有の負傷だ」
ミハイルが何とか婉曲に伝えようとした。オクサーナがそれを睨みつける。アレクセイは「女子特有の…?」と一瞬首を傾げたが、すぐに顔が赤くなり、「あ…」と言葉を漏らした。
「ごめん、リリャ! ゆっくり休んで」
その気遣いが、逆にリリャを追い詰めた。確かに体はだるいが、戦えないほどじゃない。皆は懸命に戦っているのに、リリャだけ休んでいるわけにはいかなかった。血が垂れ流しだからなんだというのか。
申し訳なさに押しつぶされそうになったリリャは明日からは変わらず戦おうと決意した。
武器庫として機能していた納屋の放火は敵兵により消し止められたと偵察に行っていたパルチザンの一人からリリャたちは報告を受けた。パルチザンの彼らはどうか村人だけには怪我人が出ていませんようにと祈っているようだった。
今のところ、村人が死んだという報せは受けていない。リリャが倒した将校が一人、そしてミハイルが倒した兵士たちが五人ほど、別行動していたイヴァンとアレクセイは工兵を二人倒し、一般兵を六人倒したと言っていた。工兵のうち一人はアレクセイが狙撃したようで、それが彼の自慢の一つに加わったのだろう。
彼は狙撃の腕を何より誇りに、そして人殺しを繰り返す異常な戦場の中で心の支えにしており、射撃大会で優勝したことが今までの彼の自信の源だった。それが戦場でのスコアに置き換わっていくのをリリャもそばで感じていた。
フェドートとヴェニアミンは放火をするパルチザンの支援を行っており、邪魔だった敵兵を二、三人撃ち殺す程度であとは隠密に徹したという。
フェドートとヴェニアミンはアレクセイのようにスコアを数えることは意識してしないようだった。もう数えても意味がないほどに膨大な数なのか、それとも数えないことによって罪悪感を消しているのか。
ヴェニアミンは敵兵から鹵獲した拳銃をしげしげと眺め、「奴らの技術もなかなか侮れないな」と呟いている。ヴェニアミンは敵兵から鹵獲した武器を収集することで罪悪感で崩れそうな自我を保っているのかも知れなかった。
今日は皆、気分が良かった。張り詰めた空気が和らぐことはなかったが、皆が敵を殺し祖国に貢献した達成感を噛み締めていた。リリャの心の中の子供達の悲痛な叫びも、今は落ち着いている。
自然と悪竜が成し遂げてきた、今までの作戦を英雄譚のように輝かしくフェドートは話していた。
「フリードリヒ長官の暗殺、武器製造工場の破壊工作…、鉄道の破壊工作なんて他の作戦のついでに何度も爆破した」
その一つ一つがかけがえのない宝物だというようにフェドートは語った。彼ら悪竜の影ながらの活躍が、ルフィーナ共和国の反撃の矛になったのだろう。
その時だった。彼がまた輝かしい悪竜の軌跡を語ろうと口を開いた時だった。泥だらけのパルチザン、ストロジェンコが土壕に転がり落ちるように入ってきた。
「奴らが反撃に出た」