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残雪  作者: ひめりんご
7/21

7話

 たどり着いたのは、営舎というには粗末な壕。これが現在の悪竜ズメイの拠点なのだろう。欠員を補充するためにアナスタシア村付近に部隊は寄ったのだという。


 「みんな、新入りを連れてきたぞ」


 務めて明るくイヴァンが声をかけた。壕の中は薄暗く僅かな橙色の灯りが辺りをぼんやりと照らしていた。


 「少数精鋭の最高司令部直属第九特殊遊撃部隊にようこそ、新兵たち」


 一番に口を開いたのは髭を生やした40代くらいの男。否、髭のせいで老けて見えるだけで本当は30代かもしれない。


 「アレクセイ・フセーヴォロドヴィチ・コロリョフ上等兵です」


 「リリャ・イーゴレヴナ・アレンスカヤ上等兵です」


 アレクセイとリリャはそれぞれの名前と階級を言う。


 「私は隊長のフェドート・チェレンチェヴィチ・ロバーチョフ中佐だ」


 よく見れば顔の左半分に切り傷の痕のような傷跡が残っており、彼が歴戦の猛者のような雰囲気を醸し出していた。


 「階級だけは高いがな、この部隊じゃ階級の恩恵を受けれない。何せ、俺たちの功績は新聞の片隅にも載らないことが殆どだ。しかし、祖国のため光の当たらない仕事にも精一杯やり切ろう」


 「また始まったよ。隊長の演説…」


 隅にいた青年の兵士がため息を吐きながら呟いた。歳はミハイルたちとそう変わらないように見える。


 「おお、すまなかった。新入りたちに自己紹介しよう」


 フェドートがすまんすまん、と言いながら先程ため息を吐いた兵士に話を振った。彼は面倒臭そうにあくびを噛み殺す。黒髪に灰色の目をした気怠げな男だった。


 「ヴェニアミン・アリヴィアーノヴィチ・カチャノフ、軍曹だ」


 それだけ言うと、彼はまた黙ってしまう。その空気を打破するようにイヴァンが明るく口を開いた。


 「改めて、俺はイヴァン・スタニスラーヴォヴィチ・マヤコフスキー。中尉だ」


 「ミハイル・エドゥアルドヴィチ・ヴォルコフ、中尉」


 ミハイルはリリャの記憶が確かなら前は少尉と呼ばれていた。階級を上げたのだろう。上の者がどんどん戦死してしまうので、若くともミハイルやイヴァンは中尉という階級に上ったのだろう。


 「あたし! あたしはオクサーナ・オニーシモヴナ・ユスーポヴァ。衛生指導員よ。怪我したらあたしに言ってね」


 奥から顔を出したのは、癖のない真っ直ぐな黒髪と黒に近い焦茶の目を持ったリリャたちとそう歳も変わらない少女だった。リリャは訓練学校では最初に感じていた疎外感がここでは感じないことに気づく。きっと部隊にオクサーナという少女がいたことが、リリャを受け入れやすくしてくれたのだろう。


 「人数は、これだけ…ですか?」


 リリャは思わずそう尋ねていた。リリャたちを入れて分隊にやっと届く人数に、少数精鋭の意味をリリャは噛み締めた。


 「悪いかよ」


 ヴェニアミンが舌打ちと共に、そう言った。慌ててフェドートが止める。


 「おい、新入りを怖がらせるな。もっと多かった時期もあったんだがな。前の作戦で削られて…って湿っぽい話はよくない! 新入りたちに歓迎の宴を!蒸留酒(ウォッカ)でも飲み交わしたいところだがな…」


 「隊長、彼らは未成年ですよ」


 ミハイルが呆れたような声を出した。未成年と戦場にいるということを改めて実感したのかイヴァンやフェドートは申し訳なさそうな顔になった。


 「未成年組は果実水で乾杯しようか。ベリーの果実水があるでしょう。隊長は林檎酒で我慢してください」


 イヴァンが手早く物資の中から二つの瓶を持ってきた。片方は琥珀色に揺れる林檎酒、もう片方は濃い赤紫色のベリーの果実水だった。


 注がれたベリーの果実水を口に含むと、クランベリー、コケモモ、ブルーベリーの甘酸っぱい味が口に広がり喉を通り過ぎて行く。ベリー摘みの歌を思い出した。一番の歌詞はジャムにしてもいいけれど、だが二番の歌詞はジュースにしてもいいけれど、だ。


 けれどもピクニックに来た気分にはなれなかった。人を殺すために引いた引き金の感触が残っているし、爆発などで味方が死んだ。塹壕の中には死んだ者や瀕死の者だっていた。


 それでもベリーの甘さが体に沁みた。疲れ切った体が甘さで柔らかくほぐれて行くような感覚だ。


 それから今日はもう就寝することになった。もう夜になっていただなんて、時間の感覚が狂って行くのを感じていた。狭い土壕に皆で寝ることになる。訓練学校の時のように女子隊員の区画は分けてはくれていたが、狭い土壕の中ではあまり意味をなさなかった。


 リリャはオクサーナと隣同士で寄り添うように寝ることになった。狭かったし、寒かったのでくっつき合うしかなかった。


 「ねぇ、リリャ。あんたは戦争が終わったら何をしたい?」


 オクサーナはリリャがまだ起きていることを見越して、他の皆を起こさないように囁くように尋ねた。リリャは答えに困った。そんな先のことなんて考えたことがなかったから。リリャはただベルンシュタイン兵を倒したい。倒して、倒してリリャの中に眠る声を消したい。


 「わからない。オクサーナは?」


 リリャの目的は戦争中であることで意味を成す。戦争が終わった後なんて空白だった。


 「あたし? あたしはねぇ、そうね。ハイヒールが履きたいわ。滑らかな革にエナメルが塗ってあってルビーみたいに真っ赤なの。あれを履きたかったわ。ここに来る前に、女らしいものは全て送り返せって袋に全部詰めてね、送り返しちゃったの」


 そんなささやかな、しかし今では大きな願い。平時ならばいくらでも履けたであろうハイヒールが戦場では遠い。


 「そう。なら、私はトゥシューズが履きたいわ。サテンのリボンがついた…」


 あのトゥシューズはどうなっただろう。今はもうないかもしれない。そもそも足の筋肉がバレエ用についていないリリャが履けるとは思えないが。


 「あんた、バレエをやってたの?」


 オクサーナが尋ねる。


 「やってないわ。だから、戦争が終わったら…始めたいの」


 自分にそんな願いがあったことにリリャは驚いた。戦争後の空白に予定が書き込まれる。そもそも終戦まで生き残れるかわからないということは考えないようにした。


 「あと、白パンをお腹いっぱい食べたいわ。硬いのじゃないやつ。あと、それからうっっっすい珈琲はもう飲みたくないわね。匍匐前進するのも嫌、重い男と武器背負って這いずるのはもっと嫌。戦争が終わったら、絶対にしないんだから」


 「ふふっ。オクサーナったらいっぱいあるじゃない」


 リリャは思わず吹き出していた。なんだか、年相応の女の子みたいで。オクサーナもにんまりと笑う。


 「リリャも色々、吐き出しちゃいなさいよ。私はね、春から大学生だった。だから、学校に通いたいわ。ああ、後それから血の臭いはもう嗅ぎたくない。代わりに香水の匂いを嗅ぐの。流行の服も欲しいわ」


 「私も、そうかもしれないわ。香水…いいわね。お風呂に入りたいっていうのが一番かしら。だって血と汗と軍靴と巻き布の匂いじゃない私たち」


 たしかに、とオクサーナは笑ったがフェドートが寝返りを打ったことにより口を抑えた。戦いの高揚から眠れなかったリリャにとってオクサーナが起きてくれていることはちょうど良かった。




******




 リリャが悪竜ズメイに配属されてからの初任務は、ベルンシュタイン国に占拠され、拠点となっている村の奪還のための先発隊になることだった。現地のパルチザン部隊と合流せよ、とのことだ。


 悪竜ズメイはパルチザン部隊と無事合流できた。森林や沼地で戦う彼らは擬装したような服装でリリャたちを迎え入れてくれた。


 「良かった。やっと支援が来た。わたしはこの部隊を指揮しているストロジェンコだ」


 「悪竜ズメイの隊長、フェドート・チェレンチェヴィチ・ロバーチョフだ」


 二人は隊長同士、固い握手を交わしていた。パルチザン部隊はどこにでもいそうな人たちの集まりだった。しかし、ずっと占領地で抵抗を続けている。戦争さえなければ彼らは武器を取ることはなかっただろう。どこへ行っても日常というものが剥ぎ取られていた。


 パルチザンたちがリリャやオクサーナに注目する。やはり女は珍しいのだろう。リリャの短い髪を見て、パルチザン部隊の一人である男が静かに涙を流した。


 「君は…女の子か?」


 「はい」


 もしかしたら、女は戦力にならないと言われるかもしれないと身構えた。明らかに衛生兵として鞄を持っているオクサーナはともかく、リリャは自分の背丈より高いように見えるライフル銃を背負っていたのだから。


 「我々の斥候にも女の子がいた。オリガといってね、勇敢なだった。牧童の格好をさせて、鉄道の破壊に行かせたんだ。ベルンの奴らに捕まって、井戸に放り込まれて死んじまった。だから、だから…」


 その後は涙に紛れて言葉になっていなかった。しかし、リリャはその続きがわかる。「君を行かせたくない」だ。パルチザン部隊は若い娘であるリリャやオクサーナを見て泣いていた。こんな子供まで戦いに行かせなくてはならない現状を嘆いていた。


 パルチザンたちはリリャたち悪竜ズメイの隊員に服を与えてくれた。これからの作戦に、もしもの時軍服は目立つからだ。リリャに与えられたのはピナフォア・ドレス。いかにも一般的な村娘という格好だ。髪が短いのを隠すようにプラトークで覆ってしまった。


 もしかしたら、これは先程話したオリガという女の子の私物だったのかもしれないとリリャは思った。パルチザン部隊は村の者たちから密かに支援を受けているという。リリャたちが合流した後に、村の女たちがこっそりと食料を届けてくれた。


 その中にはベルンシュタインで発行されている新聞も入っていた。


 「ルフィーナ共和国最高指導者クロヴォプスコフ、首都から逃亡だと!?」

 

 パルチザンの隊長、ストロジェンコは顔を真っ赤にして新聞を丸めて地面に叩きつけると踏みつけた。それをヴェニアミンが笑う。


 「俺たちが来てなかったら、ベルンのプロパガンダに踊らされるところだったな。同志クロヴォプスコフは首都フィーナに留まり続けている。奴らは俺らを非常に愚かに描く。奴らの中じゃもう首都に攻め込んでいるらしい。実際は大攻勢で押し返したが」


 ベルンシュタインの国民たちの士気をあげ、逆に占領地にいるルフィーナの民やパルチザンの士気を削ぐ。しかし、ルフィーナ軍も負けてはいなかった。『ベルンシュタインの兵士たちよ、投降せよ! 君たちの上層部は毎日乱痴気騒ぎのパーティーだ! 我がルフィーナ軍は人道的に捕虜を扱い、暖かな食事で迎えよう』とビラを振り撒いている。


 暖かな食事というワードが響くだろうと思われた。ベルンシュタイン兵はこのルフィーナの地の寒さに慣れていない。大攻勢が成功したのもこの厳しい気候があったからだという。十分な準備もないまま侵攻を続けたベルンシュタインは寒さにやられていった。

 しかし、同じ寒さの中戦う条件はルフィーナ軍も一緒だ。ベルンシュタイン兵より慣れているとはいえ、こちらも寒いことには変わりない。


 「とにかく、我々は最高司令部、同志クロヴォプスコフの命令でここに来た。同志クロヴォプスコフは君たちを見捨ててはいない」


 フェドートが鼓舞するように話す。この人の演説は、胸の中に火を灯すような力があるとリリャは感じた。

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