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残雪  作者: ひめりんご
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5話

 エカチェリーナの執務室のような部屋にリリャは通された。一応、エカチェリーナは狙撃兵学校の校長に任命されているのでここは校長室だろうか。

 綺麗に整頓されていて、この部屋の持ち主の気性を端的に表しているように見えた。


 「まあ、座りなさいな」


 エカチェリーナが応接ようのソファに座るように促す。「失礼します」とリリャはそのソファに腰掛けた。その正面に同じようにエカチェリーナは腰掛けていて、足を組んでいる。偉そうに見えるかもしれないが、女優の如き美しさがあった。


 「さっそく本題に入るか」


 エカチェリーナはふぅ、と息を吐いた。


 「私は君を退校させた方がいいと考えている。ああ、誤解しないでくれ。これは処分ではなく提案だ」


 リリャは顔が真っ青になった。そんなことを言われるとは思っても見なかったのだ。


 「なっ、何でですか!? 私は自分でいうのも何ですが成績だって優秀です。どうして、退校なんて話になったのでしょう」


 一瞬、自分が女だからという理由が浮かんだがそうなるとエカチェリーナまで否定することになる。それは無いはずだ。


 「私はね、若い芽を摘むことを良しとはしない。アレンスカヤ、お前には闇が巣食っている。そのいつ爆発するかわからない爆弾を抱えたまま戦場に行くのか? 私は、病院で然るべきケアを受けるべきだと思うよ」


 「私は大丈夫です。病院だって行きました。栄養失調で済みました。今は回復しています」


 「私は、精神的なケアのことを話している。まだまだ発展途上の分野だがいい医者が──」


 「そんなに、私を辞めさせたいですか? 先程、私がベルンシュタイン兵を撃ったから。でも、あれは教官が指示したんだ」


 リリャは思わず叫んでいた。エカチェリーナは違う、と顔を手で覆う。深い溜息を吐いた。


 「お前は尊厳を踏み躙られ、蹂躙された者たちの目を見たことがあるかと聞いたな。見たことあるよ。何度も。そして、今目の前にも」


 リリャの全てがエカチェリーナに見透かされているんだと、リリャは唾を飲み込んだ。


 「私の所属していた隊では女は私一人だった。狼の群れので生き残るには一番強い狼のものになるしかなかった。全員に怯えるより、一人に怯えていたほうがいい。それも、無理矢理襲われるような形だったがな。黙っていたよ。抵抗したら、大勢の前に放り出されると思って」


 エカチェリーナの静かな独白だった。エカチェリーナはリリャを同じ女として話してくれたのだとわかる。彼女だって蹂躙されたのだ。それでも立ち上がって、敵を撃って撃って撃ちまくって彼女を誰も犯せない立場にのし上がった。


 彼女は敵に蹂躙されたのでは無い。一番信じていたい味方から裏切りを受けたのだ。それはどんな気持ちだったのだろうと考える。エカチェリーナはリリャを勝手の自分と重ね合わせたのだろう。そして、同じ思いをしてほしくなくて戦場から遠ざけようとしている。


 「私は、ここを去りたく無いです」


 リリャは唇を引き結んで、エカチェリーナを見た。自分の真剣さが伝わればいいと願う。エカチェリーナはしばらく悩んだあと、ため息をついた。


 「わかった。だが成績が振るわなければ容赦なく退校処分にするからな」


 例外はない。とエカチェリーナは言い切り、「以上」とリリャに退室を促す。リリャは頭を下げてから部屋を後にした。


 その日、リリャは眠れなかった。目を閉じても何度も何度もベルンシュタイン兵の顔が浮かぶ。そして無邪気な子供のように殺してしまった狙撃兵のことも思い出した。

 いままでのリリャは死んでしまったんだと強く感じた。本当のリリャはあの施設の庭で土に埋まっているに違いない。間違いなくあの場所はリリャが死んだ場所だった。


 そして自分が異常者になり行くのを感じていた。人を殺してしまったこと以上に、リリャの心を占めていたのはあんなに嬉しそうに狙撃兵を殺しておいて、ミハイルに嫌われていないだろうかということだった。


 あの時のミハイルは複雑な表情をしていた。もしかしたらリリャを恐ろしい女だと感じたのかもしれない。彼に嫌われていたら耐えられないと、リリャは毛布を胸の辺りに手繰り寄せた。


 「私が、殺した。私が…」


 あの授業を決行したエカチェリーナの思惑はわかる。つまり戦場に出る前に敵を殺すことに抵抗をなくさせ、優秀な兵士に育て上げたかったのだろう。他の何処でもやらない異例の授業は各方面から批判があったはずだ。否、秘密裏にやり通したのかもしれない。


 白の世界に血の赤だけが映える。その異様な美しさとそれを美しいと感じてしまう自分の異常性にリリャは吐き気がした。頭の中では必死に言い訳を探している。

 ベルンシュタイン国は子供を攫って非道な人体実験に使ったのだ。こちらが一人、後進育成のために捕獲したベルンシュタイン兵を殺したって…。元々ベルンシュタイン兵は死ぬ定めだった。そうに違いないと思い込もうとした。


 ここで死ぬのと、戦場で死ぬのはそんなに変わらない。死んでいった子供達の亡骸が「殺せ、殺せ」とリリャの背後で呻いている。何故リリャ一人が生き残ったのか責めているようにも聞こえる。この声を静かにさせるには、やはりベルンシュタイン兵を殺すしかなかった。あの時は頭の中が静かになったような気がしたから。


 「みんな、憎いに決まってるよね。そうだよね」


 あの大勢の亡骸と死臭を嗅いでしまった後では、ベルンシュタイン兵への憐れみなんて持たないと決めていたはずなのに。今日のリリャは楽にするために最後の一発を撃ってやり、罪悪感すら感じている。

 このままでは他の皆の逆鱗に触れるだけだろう。あの子達は全員、命を終わらせられたのだ。復讐の炎を絶やすまいと、亡霊の腕がリリャの心に薪を焚べる。


 「大丈夫。今日、私は悪いやつを一人やっつけた。もう誰もあいつに殺されることはない」


 ずっと一人で言い続けた。子守唄のようになるまで。馴染んだ皮のように滑らかくなるまで。リリャの中でそれが当たり前になるよう言い続ける。そうしないと眠れないと思った。


 やっと眠れたと思った頃に「起床!」という教官の叫び声が聞こえる。眠りに落ちていきかけていた意識を覚醒させる。また重い制服を身にまとい転がり落ちるように外へ出た。


 その日、他の同級生たちは昨日のことがあったからかいつも以上にリリャを遠巻きにしていたが、一人が覚悟を決めたかのように近づいてくる。


 「あの、アレンスカヤ…さん」


 こんなふうに話しかけられることは初めてだった。いつも彼らはどこかリリャに対して線を引いて、それ以上こちらに踏み込もうとはしなかったから。


 「昨日、凄かったよ。本当に凄かった。俺にはまだ出来なかった。これからしなきゃならないのに、その覚悟がなかったんだ」


 遠くから話を聞いている同級生たちも厳しく顔を顰めるような同じ顔をしていた。


 「俺、アレクセイ・コロリョフ。卒業までに絶対君を抜いてみせるから」


 アレクセイはリリャの手を取ると勝手に握手し、勝手に決意を固めそのまま列の中へと戻って行った。嵐が過ぎ去ったような心地がする。今のは何だったのだろうとリリャはしばらく考えた。


 そして、一応認められたのではないかという考えに行き着く。リリャは異物でなく、仲間だと。そう思えば胸が暖かくなった。



 

******



 

 半年はあっという間に過ぎた。時間が経つにつれ素人同然だった青年たちも立派に銃を扱えるようになり、アレクセイは何度も成績でリリャを抜かそうとした。しかし結局、最後まで成績トップをリリャは守った。


 「悔しいな。俺、あれだけ言ったのに結局君に勝てなかった」


 「どこに配属されるか知らないけれど、次は戦場のスコアで勝負よ」


 リリャはアレクセイに微笑みかける。まだ何も始まっていない。リリャたちはスタート地点にやっと立ったばかりだ。鬱蒼とした森の匂いが演習場に満ちる。森にベリーを摘みにいったけ…とリリャは懐かしくなった。


 「アレクセイ、あなたは次席の立派な狙撃手だもの。きっと戦場でも成果を上げるわ」


 リリャはアレクセイの肩を叩いた。半年で伸びていったアレクセイの背に、リリャは爪先立ちをしなければ肩には届かなかった。


 「主席の君に言われちゃ、嫌味にしか聞こえないよ」


 アレクセイは半年の訓練機関の間で唯一、気を許せる友人になれた。毛先に行くほどクセのある黒髪に緑の瞳をした彼は全然違うのに、どこか幼馴染のイリヤを思い出させた。

 アレクセイは彼と同じく、誠実で優しい青年だった。一つ違うことといえば、イリヤは虫を殺すのも躊躇うほど優しかったが彼は冷静に獲物を撃つことができた。


 静かに語ってくれたことがある。国境付近の都市リードグラード出身の彼は競技用射手で、大会で優勝したこともあるらしい。しかし空爆により母と妹を亡くした彼はここ狙撃兵訓練学校にたどり着いた。

 彼みたいな境遇はこの学校じゃありふれていて特に珍しいものではなかったが、それでも彼の痛みがマシになるわけじゃない。リリャだって自分の傷を見せて、痛みを分かち合いたかったが、あまりにも凄惨なこと過ぎて口を噤んだ。


 アレクセイには、村が敵に焼かれて逃げて来た。街中に貼ってある志願兵募集を見て応募したとだけ語った。それだけで彼は深い傷の存在を察してくれて静かに寄り添うだけに留めてくれた。


 実際、病院でリリャは志願兵のポスターを見たことがあるから全てが間違っているわけではない。『前線を支えよ!』『義勇兵よ、求む!』『母なる祖国を守れ!』などなど、軍への参加を求めるポスターは至る所で目にした。


 戦場へ来い! と呼びかけるポスターは、まるで参加しなければルフィーナ共和国人民ではないというような圧力さえあった。


 「君はすごいよ。女の子なのにここに来た。ああ、馬鹿にしてるんじゃないよ。尊敬してるんだ。戦場に行く勇敢な女の子で、仲間だ」


 生徒たちは教官が来るまでに一列に並んだ。隣に並んだアレクセイがリリャに囁きかける。アレクセイほど深く仲を深めた訓練学校仲間はできなかった。きっとリリャとアレクセイが恋人だとか勘違いされて距離を置かれていたのもあるだろう。


 リリャは胸を張った。誇らしかった。彼らと過ごした半年の年月が走馬灯のように蘇る。泥と汗に塗れ匍匐したことなどを思い出した。


 エカチェリーナ率いる教官たちが演習場に足を踏み入れた。その時に、空気が変わるのを感じる。今日でリリャたちは卒業だ。式など格式のようなものはない。そんなことしている暇はない。

 すぐにでも戦場に兵士として送り出されるのだ。列の端から、簡素な卒業おめでとうという言葉と所属が言い渡される。新たに編成された師団に送り出されるものがほとんどだった。


 エカチェリーナはアレクセイとリリャの二人の前に立ち止まると、まずは卒業おめでとうと淡々と告げた。


 「成績優秀者の君たち二人には直々にオファーが来ている。最高司令部直属特殊遊撃部隊、通称「悪竜(ズメイ)」からな」


 敵から悪竜と呼ばれていたのが、いつの間にか味方からもその功績と畏れから呼ばれるようになったという。最高司令部直属の極秘部隊とあって、噂には聞いていたが本当に実在するとはこの時まで思ってもみなかった。

 アレクセイは頰を紅潮させ、目を輝かせている。青年たちの間では悪竜ズメイは英雄部隊だった。


 「その特殊な任務から、損耗率が高く欠員補充のため貴様らに声がかかった」


 エカチェリーナは二人の肩を強く叩いた。


 「立派に任務を果たすように」


 それだけ言うとエカチェリーナは他の教官を引き連れ、演習場から去っていった。すると、他の同級生たちがアレクセイとリリャに駆け寄って来ては制帽を投げ、「母なる祖国よ、万歳!」と叫び出した。こんな様子、教官たちに見られたら羽目を外し過ぎだと叱られるだろう。否、そんな生徒たちの気持ちを察して教官たちは去ってくれたのだろうか。


 やっと一人前になれたような達成感がリリャの胸に満ちていた。

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