4話
「起床!」
その号令にリリャはベッドから転がり落ちるように飛び起きた。昨夜、制服の縫い直しが夜中まで掛かってしまいつい先程眠りについたような気がしていた。しかし、窓を見るとまだ外は薄暗い。
リリャは慌てて、昨夜縫い直したばかりの制服に着替えるとフランネルの足巻き布で足をぐるぐると巻き、新聞紙を突っ込んだ膝丈の軟らかい素材のなめし革製ロングブーツに足を捩じ込む。
フランネルは母のブラウスの手触りを思い出させた。ベルトも制帽も上衣も何もかもが男物なので重く、リリャのバレリーナの如き軽い体に容赦なく降り掛かった。
走って訓練場まで行くと、もう男たちは整列しておりリリャが最後だった。
「何をしている! 遅い」
エカチェリーナの怒号がリリャに降りかかる。「申し訳ありません」とリリャはそそくさと列に加わった。軍律の中に放り込まれてしまったことを実感した。
そしてエカチェリーナはリリャの目の前にやってきた。遅れた者へのお叱りがまだあるのかと身構えたが、エカチェリーナはリリャの制帽からはみ出したおさげ髪を引っ掴んだ。
「い゛っ」
思わずリリャは声を上げてしまった。
「戦場に出て、こんな長い髪でいられると思っているのか?」
エカチェリーナはそう言うと、鋏でリリャのおさげをばさりと切り落としてしまった。おさげが地面に落ちる。周りから「可哀想に」「酷いことするなぁ」という少し困惑した声が聞こえてきた。
リリャが俯いているのを必死に涙を堪えようとしているように見えたのかもしれない。
しかしリリャは恥の意識に飲まれていた。エカチェリーナの言う通りだと思った。そして、昨日裁縫道具を渡してくれたことから優しくしてもらえるのだと心の何処かで勘違いしていた。自分は女の子扱いを望んでいたことに気づいたのだ。
そしてそれに気づいて恥の意識に囚われている。このままでは徴兵司令部の軍人に言われた通りになってしまう。「可哀想」だとか思われるのが嫌だった。
ずっと女の子扱いされたら、対等に扱ってもらえない。つねに庇護対象として見られ、下に見られる。エカチェリーナが髪をばっさり切ってくれたことには少し感謝があった。
長く伸びた髪が惜しくもあったが、あれはストレスで真っ白になってしまった。ならば切ってしまった方が清々しくもある。そして自分で髪を切ることに思い至らなかったことが悔しかった。
おさげを切ったら、リリャの髪は制帽にすっぽりと収まるくらいに短くなった。見た目だけなら男の子と変わらない。
その日は隊列を組んでの行進ばかりをした。敬礼もみっちりと叩き込まれる。すぐにでも狙撃手の訓練をするのだと思い込んでいたリリャには少し拍子抜けだった。
半年間しかないのだ。それなのに悠長すぎる。その思いは次の日には打ち砕かれた。次の日から容赦なく座学が詰められた。
まずはライフル銃の構造から学び、組み立てることから始まった。いつかは目を瞑ってでもできるようになれと言われる。しかし撃たせては貰えなかった。そしてスコープを使った距離の測り方を感覚で行えるようになるまで叩き込む。紙を広げて計算する余裕は実戦では無い。
野外訓練も行われ、擬装の仕方、野営のやり方などを学ぶ。冬の川に浸かって行軍する訓練も行った。
座学に、狙撃での距離の測り方。狙撃箇所の選び方、擬装の訓練を終えて初めて的に向かって撃つことを許された。リリャは自分が猟をしていた経験から有利に働くかと思ったが、そうでもなかった。
周りの男の子たちはリリャが誘拐されていた一年間、国民軍事教練を受けある程度の銃の扱いは学んでいた。しかし、多少射撃のできる素人の域はでない。動く獲物を撃ったことのある人間は片手で数えられるほどだった。
バシュン、バシュンと銃撃の音が響く。屋外の演習場には伏せながらライフル銃を構えて、的へと弾を命中させていた。いつのまにか、的の形は円から人を模した形へと変わっていく。
「すげぇ…」
「あれ、女だよな?」
男の子たちの間でそんな声が漏れる。リリャは射撃に関してはトップの成績だった。三百メートル先の獲物を逃さない。せいぜい百メートルと少しが限界だったリリャの射程距離はこの学校に来てからぐんぐんと背が伸びるのと同じく伸びていった。
「人を狙う時、六百メートルなら頭を。それ以上なら体の中心を狙うように」
カツカツと軍靴を鳴らしながらエカチェリーナはそれぞれの生徒を見て回った。彼女からすれば六百メートル先まで射程圏なのだろう。
「アレンスカヤ、筋がいいな。競技射手か?」
エカチェリーナが尋ねる。エカチェリーナには最近やっと名前を覚えてもらった。これもリリャの成績が優秀だからだろう。
「いいえ、猟師の娘でした」
リリャはそう答えた。リリャは自分が軍事教練を受けていないと言う不利な状況を覆そうと必死に努力した。実技訓練以外銃は触らせてもらえないので、何度もスコープを覗き、距離を正確に測り、撃つ様を想像した。
実際に撃てなくともスコープから見える物の大きさを覚える訓練はできる。
与えられライフル銃はボルトアクション式、装弾数は五発で全身は百三十センチほどと長い。スコープをつければ千メートルほどは精密な射撃が可能とされている代物だ。
しかし、スコープには性能に関して個体差があり見え方が微妙に違ったりするのだ。
「そうか。最初は勇気だけで飛び込んできたじゃじゃ馬かと思ったが、お前は覚悟が決まった目をしているよ」
エカチェリーナがふっ、と微笑をこぼす。覚悟が決まった目というのは、沢山の死んだ人たちの目を見たからだろうか。あの目がリリャに移ってしまっているのだろう。
「勇気一つで戦場にだっていけます」
その答えに少し驚いたのは周りの教官を含めた青年たちだった。彼らには女の子を戦場に出そうとしているという引け目、あるいは女の子と一緒に訓練しているという一種の屈辱を感じていた。
そして成績トップがリリャなのが気に食わないだろう。守るべき女に負けているという事実が悔しいはずだ。
同級生のリリャに対する態度は様々だ。リリャが成績トップでも「女のくせに」と事実を認めようとしなかったり、逆に妙に馴れ馴れしく優しくし女の子扱いをすることによって対等に扱わないというある意味でリリャにとっての嫌がらせをする者もいた。
射撃の成績トップはリリャだったが、決して驕るなとエカチェリーナにきつく言いつけられていた。リリャも父が実力をひけらかさなかったので自分も倣ってそうした。
しかし基礎の走り込みだったりは体力と体格の差が浮き彫りになっていた。やはり女だから、という言い訳は通用しなかったし使いたくなかった。人一倍、否十倍は努力しなければリリャは認められるなんてことは無理だろう。
いつか同級生たちが「女だから」「女のくせに」なんて言えないような実力を見せてやると誓った。
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その日、学校に牛が連れてこられた。皆が酪農体験でもするのかと呑気なことを考えていた。その牛を撃てと命じられた。
牛は出荷されることが決まっており、どうせここで殺さなくとも肉になる。ならば生徒たちの成長のためという名目が与えられた。
皆が動揺した。生き物を殺すなんてできないと考えたのだろう。その中でリリャは数少ない冷静な者の一人だった。家畜である牛を撃った経験はないが、鹿ならある。どれも動く生き物であることは変わりなかった。
名前を呼ばれた順に撃っていくことになった。最初の一人は動揺したのか動いている的が初めてだったからなのか外し、二人目は当たったが牛が絶命するまでには至らなかった。
血を流しながら、戸惑うように牛は動いている。悲鳴のような声を出していた。
次はリリャの番だった。リリャの中には牛への憐れみがあった。可哀想に、今楽にしてあげるから…。リリャは心の中でそう呟き、照準を合わせた。距離にして三百メートル。訓練を得たリリャにとってそれは楽勝と言えた。
バシュン、と撃つ。牛は倒れそのまま動かなくなる。素早く解体しなくてはとなるのは猟師の性だろうか。動く獲物を撃つ訓練は懐かしさを呼び起こした。村での狩猟生活、父の背中を追いかけたあの日々を。
「皆、よくやった」
エカチェリーナが声を張り上げた。彼女が素直に生徒を褒めるなんて珍しく、皆は喜びというよりは不安げな表情をしていた。
「では次の訓練にいこうか。連れてこい」
そう言ってエカチェリーナが指示を出すと教官たちに引き摺られるように連れてこられたのは、忘れもしないベルンシュタイン兵の制服を着た男だった。制服はぼろぼろで、顔もやつれている。
「こいつは同志たちを殺した、敵将校である。撃て、諸君」
今度こそ、リリャも動揺した。殺せと命じられたことではない。今すぐにでも飛びかかってやりたいほど怒りに燃えていたが、逆に指先から冷えていくような感覚もしていた。何故、こうも心を揺さぶられるのだろうか。
「教官、捕虜には人道的な──」
同級生の一人が、おずおずと口を開いた。しかし、エカチェリーナはまるで聞こえていないかのように同じことを繰り返す。
「何度も言わせるな。目の前に居るのは敵だ。戦場に出てから君たちは何人も殺すことになる。先程の牛と一緒だ」
名目が与えられた。しかし、誰も銃を構えようとしない。茫然と地面に放り出され「殺さないでくれ」と懇願しているベルンシュタイン将校を眺めていた。
リリャは動悸が激しくなるのを感じていた。村に来た虐殺部隊とは違う人間だろうが、間違いなく憎いベルンシュタイン兵である。血が沸騰するように熱くなるのを感じる。
「教官、私にやらせてください」
「アレンスカヤ、お前がやるか。いいだろう」
エカチェリーナはにやりと笑う。悪魔のように美しい人だとこの時思った。
どうしてやろうか、とリリャは考える。楽に殺してはやりたくない。まず脚を撃つことにした。致命症にはならない位置を。
バシュン、と敵を撃つ。躊躇わずに撃ったのがそれほど驚いたのか同級生たちは動揺したように声をあげていた。
「ゔっ…がぁっ…」
ベルンシュタイン兵が苦しんでいるように、地面をのたうち回った。もう片方の脚もすぐさま撃ち抜く。そして次は腕だ。じっくり外してじっくり殺してやる。リリャは思わず口角が上がっていた。
「あいつ、笑ってやがる」
誰かが呟いた声も気にならなかった。弾が一度に五発も装填出来てよかった。四肢を撃った後に頭を撃ち抜いてやれる。いや、もっと長引かせて苦しませるか? そんな考えが浮かんだ時だった。
「アレンスカヤ、弾を無駄にするな。早くしろ」
エカチェリーナの声で現実に引き戻された。ふわふわした心地はどこかへ飛んでいく。そして目の前の光景をスコープ越しではなく裸眼で見た。
息も絶え絶えに苦しんでいるベルンシュタイン兵。髪は茶髪で鼻筋がしっかりしている男だった。それが顔を歪めて苦しんでいる。苦しめているのは間違いなくリリャだ。
自分が恐ろしくなった。エカチェリーナが命じたのだと逃げ出したくなった。ベルンシュタイン兵という記号が外れ、生身の人間の顔が出てくる。
しかし、リリャはこれが初めてではない。なのにどうしてこんなにも動揺するのだろう。その時、ミハイルの苦しそうな顔が浮かんだ。ミハイルは嬉々として褒めて欲しそうに帰ってきたリリャを見てどう思ったのだろうか。
リリャは父の一発で仕留めるという鉄則を破ってまでベルンシュタイン兵を苦しめた。それが今までの自分が崩れていく感覚がする。
リリャは銃を構えた。気持ちは先程の牛を殺した時と同じだった。今、楽にしてあげる。そう心の中で唱えた。バシュン、と銃声が響く。頭に弾を撃ち込まれたベルンシュタイン兵は目を見開いたまま死んでいた。その死体を素早く教官たちが片付けていく。
「よくやった」
エカチェリーナがリリャの肩を叩いた。しかしリリャは誇らしげな顔をすることさえ出来なかった。エカチェリーナはリリャが動揺して急所を外したわけではなく、明確に狙ったことだとわかっていただろう。
「だが、狙撃兵としては失格だな。出来るだけ一発で決めろ」
「はい」
先程のリリャは明確にベルンシュタイン兵を苦しめようとしていた。それが、父や母、村の人たち。あの施設の庭の下に残してきた子供達のための復讐になると思って。
「でも、一発じゃ生ぬるいと思ったんです」
リリャは思わず口を開いていた。その様子に同級生たちが驚いたように目を見開く。残虐な女だとでも思ったのだろう。
「教官殿、尊厳を踏み躙られた女性たちの亡骸を見たことはありますか? 餓死した子供達は? 父の前でただ蹂躙されるしかなかった者は? その人たちの目を見たことはありますか。それを見たら、どうしても許せなかった」
エカチェリーナはしばらく黙っていた。しばらく経ったあと口を開く。
「今回はこちらが圧倒的に優勢でベルンシュタイン兵は丸腰だった。だからこそ一方的な蹂躙ができたのだ。だが、実戦ではそうはいかない。一発撃つごとに自分の居場所を晒しているんだ。だからこそ一人に何発も使うな。以上」
エカチェリーナはこれで授業の終了を告げた。そしてリリャの肩に手を置き、耳元で囁く。
「私の部屋に来い」




