3話
白い世界の中で、リリャは一人木の上で銃を構えスコープを覗いていた。大体の方向はわかっている。狙撃手が移動してなければ、だが。
それでも森の小道を抜ける兵士たちを狙うとして、一番いい場所は何処だろうか。リリャが獲物を狙うとしてどの位置に潜むか。それを考えればポイントは絞れてきた。
白だけの世界でチカッと何かが光る。スコープの反射だと気づくのに時間はかからなかった。自然の中に光る人工物があるなんておかしいのだ。
リリャはスコープを除き、光った場所を見る。雪中迷彩服に身を包んだ──あの背丈なら男だろうか。狙撃手はまだ獲物である兵士たちに夢中のようで、リリャが狙っているのには気がついていない。
ミハイルたちもただ地面に伏せているだけでなく、匍匐で木々の影に隠れる事に成功したようだ。
一発で決める。全てを終わらせる。そうしなければ、リリャの位置が相手にばれるだけだ。ゆっくりと深呼吸をした。
「やるよ、父さん」
父の暖かな手が背中にそっと添えられたような気がした。失ってしまったかと思っていた暖かさを、もう一度奪われるくらいならばリリャは戦える覚悟があった。
バシュン、という音が響いた。スコープの中では狙撃手が血を流して木からぼとりと落ちていた。白の世界に赤だけが映える。
リリャは木から降りると森の中をウサギのように走った。体が軽かった。実際痩せていたので比喩ではなく本当に軽かった。バレリーナみたいに踊るように駆けていく。リリャは昔、バレリーナになりたかったことを思い出した。
近隣の街に来た巡回公演でプリマを見た。その時習ってもいないのに勢いで買ってしまったトゥシューズはリリャの宝物だったはずなのにすっかり忘れてしまっていた。
そうだ。村にはバレエアカデミーなんてなかったから、リリャは都会に出ていきたかったのだ。いつか、舞台に立つために。こんな痩せっぽちなプリマがいるだろうか。リリャでは背丈も足りない。
それでも忘れていた、薬のせいで薄れていた大切な欠片を思い出した。雪が舞う中、妖精のように髪が揺れていた。
リリャが生き残った部隊と合流できたのはそれからしばらく森を走り抜けた後だった。方向の感覚は野生の勘のように染み付いていたが、部隊がリリャを置いて移動してしまっていたらきっともう二度と会えなかった。
「戻ってきた!」
兵士の一人がリリャの姿を見つけ指を指して歓声を上げる。
「リリャ!」
ミハイルの怒号が響く。リリャはぴたりと体の動きを止めた。
「何故、あんな無茶をした?」
「少尉!」
ミハイルが怒りで顔を歪めているのを他の兵士が、そんなに怒ってやるなと宥めている。
「私の実力を見ていただけましたか?」
リリャの頰は赤く紅潮していた。初めて獲物を捕らえた時の達成感のような誇らしい感情が胸に芽生えていた。ミハイルは何か奥で噛み殺した言葉を飲み込んで、静かにリリャの頭を撫でた。
何故、そのような表情をするのかリリャにはわからなかった。撫でられた感触を思い出すと胸に暖かなものが溢れる。
撃ち殺された兵士は小道の脇に簡単に埋葬し、部隊は後方へと急いだ。兵士の一人が「今日は埋めてばっかりだな。くそ」と溢していた。
あの寂しい薄暗い森の中に一人置いていく。その事実にリリャはなんとも言えない気分になり、何度も後ろを振り返った。
******
病院でリリャは栄養失調とだけ診断された。怪しげな薬物を体内に投与されていたのに、検査でその影響は確認されなかった。栄養満点の食事と十分な休息はリリャを健康にしていってくれる。
そして健康になっていくのと同時にリリャはルフィーナ軍に入るために徴兵司令部に手紙を送った。もちろん、最初は女の子であるという理由で受理されなかった。しかし、何度も送り続け退院する頃には直接出向いて、説得してやるという気持ちになっていた。
退院を言い渡されたリリャは、そのまま孤児院に移ることもできたが籍だけ置くことにして徴兵に関して徴兵司令部に直談判に行く事にした。
「あー、リリャ・イーゴレヴナ・アレンスカヤ…十六歳、と」
目の前の気だるそうな軍人が書類とリリャの顔を見比べながらそう言った。
「はい。リリャ・イーゴレヴナ・アレンスカヤ、十…六歳です」
思わず実年齢の十四と言ってしまうところだった。ルフィーナ共和国で軍に入れるのは十六歳から。リリャは本来ならばあと二年は待たなくてはならなかった。そもそもミハイルたちがリリャを前線に連れて行ってくれなかったのは栄養失調のことだけではない。リリャが幼すぎて、女の子だったからだ。
はあ、と目の前の軍人はため息をつく。
「あのねえ、君女の子でしょ? 銃も扱えないってのに戦場に行って何になるっていうの。せいぜい足手纏いがいいところだと思うけど」
「銃は扱えます! 村では半猟半農の生活でした。父は猟師でした。私も銃を扱ってきました」
「親御さん、悲しむと思うけどなぁ。女の子なんだからお家で待って有事の祖国を支えていけばいいと思わない?」
「家の中で待つ事なんてしません。両親ももういません。殺されました。村はもう誰もいませんし、家はもうないんです。お願いします。私を兵士として使ってください」
軍人は、ちょっとまずいという顔をしたが諦めたように息を吐いた。
「わかった。わかったから」
リリャはその言葉を引き出せた時、笑顔をひた隠すのに精一杯だった。もう両親もおらず、村人も生き残っていない。そして一年間敵国に誘拐されていたのだ。戦争のどさくさに紛れてもう戸籍も確認できない。
ちょっと提出書類を改竄する事など簡単だった。年齢を偽るのだってきっとありふれているのだろう。ちょっとリリャの背が低くても軍人は見逃してくれた。
配属先もわからぬままリリャは貨物列車に言われたまま乗り込んだ。中には干し草があり、そこで寝ろということだ。自分が家畜になったような気がしたが、自分が家畜以下だった時期を思い出す。
あの孤児院を改装した実験施設ではまともな食事すら取れなかった。医者たちが逃げ出した後も悲惨だった。何せ食料が残っていなかったのだ。ここが何処かもわからないし、逃げ出せる体力はすでに奪われていた。
孤児院の裏には厩舎があって、すでに馬の姿はなかったが干し草が床に散らばっていた。口にできるならば何でもよかった。リリャは馬が食べられるならば自分だって食べられるという気持ちになり、散らばった干し草を口に詰めた。
吐き出しそうになりながらもリリャは草を飲み込んだ。そして放置されていた馬糞を見つける。冬の始まりにはもう凍っていたそれを目を瞑りながら齧る。干し草の匂いがして何とか食べられた。
苦い思い出が口の中にあの干し草の味を思い出させる。唾液が苦い汁に変貌してしまったかのように、唾液を飲み込む事すら難しかった。
貨物列車が駅に止まると、号令が掛けられる。ぞろぞろと徴兵された男たちが列車から降りてきた。志願兵であるリリャの姿はそこでは浮いていた。まず、女であること。これが一番ではあるのだが、白銀の髪という風変わりな容姿になってしまったことが視線を集めた。
「おい、見ろあれ」
「女がいるぞ」
ざわざわと葉が擦れ合うざわめきのように、その雑音はリリャの耳に届いた。一体この中で銃を扱える者は何人いるのだろうか。そして一人狙撃手を撃ち殺しただけだが、実戦経験がある者は何人いるだろうか。
言わせたい者には言わせておけばいい。リリャは唇を引き結んだ。背も高く肩幅もしっかりした青年たちを見渡した。この中で自分ほど覚悟が決まっている奴はいないだろうと思った。
どの顔も、言うなれば何処かのほほんとしている。中には愛国心と義憤、戦場に赴く覚悟を決めてここに来た者もいるだろうが、それは所詮、地獄を知らずに決めた覚悟だ。
伏せたまま撃ち殺された母の目を、床に横たわりリリャを見つめた父の目を、尊厳を奪われ殺された女たちの目を、檻の中で死んでいった子供達の目を、リリャは忘れない。
血と泥の匂いを、死んだ人間がどんな臭いがするのかリリャは忘れることはできなかった。今でも鼻の奥にこびりついて消えない。
「全員、もたもたするな! 整列!」
女の声が聞こえた。全員がその声に倣い列を作る。リリャは体が強張るのを感じていた。村の人たちは一列に並べて殺された。まるでドミノ倒しのようにバタバタと崩れていったのだろう。
「どうした? 一列に並べ」
気がつけば軍服を着た長身の女が目の前にいた。胸元には軍人の身分を示す徽章と勲章が誇らしげに並んでいる。
銀星勲章!?
リリャは目を見開いた。それはルフィーナ共和国人民ならば誰もが知っているほどの知名度を誇る勲章だった。長期間の軍務、もしくは戦闘時における英雄的行動により授与される。まだ開戦してから一年と少ししか経っていないのに、女の身でそして二十代後半に見える軍人の女はどれだけ戦地で功績を作ったのだろうか。
「すみません」
リリャは固くなった体を無理やり動かして列の中に入った。ここで殺されることはない。きっと。
駅の裏には白樺やナナカマドなどの鬱蒼とした森が広がっており、細い遊歩道が整備されているだけだった。銀星勲章の軍人は列を先導して森の中を進んでいく。
皆は遠足気分でぞろぞろと歩いた。リリャはあの狙撃された森を思い出して、意味も無いのに周りを警戒し続けた。ここはルフィーナ共和国の中でも安全な土地だというのに。
木々が伐採され、開けた場所に出るとそこには灰色の建物が現れた。政府の施設を転用した学舎だということだった。
「諸君、ここは狙撃兵訓練学校である。君らには半年で現場で戦える狙撃手となってもらう」
何処に配属されるかもわからない状態だった周りの青年たちがどよめいた。リリャは内心、天に向かって拳を振り上げていた。銃を扱うのは得意分野だ。リリャは女という理由で衛生部隊に配属される可能性すら考えていた。
「私は教官のエカチェリーナ・プラトーノヴナ・ゴロホーフスカヤ」
銀星勲章の軍人が名乗った途端に、皆が顔を見合わせて目を輝かせている。リリャは名前に心当たりがなかったが周りの声に耳を傾けていると、エカチェリーナの功績がわかった。
開戦直後に志願兵として第21歩兵師団・第34歩兵連隊に狙撃手として配属され、僅か一年足らずで二百人以上の敵であるベルンシュタイン兵を殺害したとされる。生きる伝説ともいうべき狙撃兵だった。負傷し、今は教官に転向したという。
リリャは病院に行くまで今戦っている敵が何処の誰なのかすら、知らなかった。ベルンシュタイン国も戦前の友好国の印象のまま止まってしまっている。そして、戦況も凄腕の女狙撃兵がいることすら知らなかった。
リリャがあの実験施設にいる間、どのようなことがあったのか虫食いのように情報が抜けている。このままでは頓珍漢なことを言ってしまうかもしれないとリリャは気を引き締めた。
初日は周りは皆お客様気分だった。教官たちも各自の部屋で荷物を整理するようにいうだけでそのほかは何も言わない。それがリリャにとっては恐ろしいことのように思えた。
周りの皆は鞄一つに全ての荷物を詰めてきたようだが、リリャには何もなかった。病院を出る時、籍だけ置かせてもらっている孤児院から送られた寄付されたお下がりの服だけ。あとは嘆願書を握りしめて徴兵司令部に向かったのだ。
女であるリリャは流石に一人部屋が与えられたが、隣は青年たちの寮室だ。リリャは厳重に鍵をかけて、窓にもしっかり鍵をかけた。青年たちが欲に負けてベルンシュタインの虐殺部隊の兵士のようになるかもしれない。その思いがリリャを支配していた。窓を伝って部屋に入ってくるかもしれない。
支給されたカーキ色の軍服は、略帽に上衣、そしてズボンだった。下着まで全て男物である。ブーツもサイズが合っておらずぶかぶかだ。履いてみたがすぐに脱げてしまう。皺にもなってしまい何ともみっともない。
靴は新聞紙を詰めるなりして何とかするとして問題はズボンだった。丈が長すぎるのでこの一日で縫ってしまおうとリリャは決めた。教官へ糸と針を貰えないか聞かなければならなかったが迷わずエカチェリーナを選んだ。エカチェリーナは唯一の女性教官だった。
エカチェリーナは軍服に関する女の苦労を知っていたのか何も言わずに裁縫道具を貸し出してくれた。
自分のサイズに軍服を縫い直しながら、リリャは自分が兵士になったことを噛み締めた。




