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残雪  作者: ひめりんご
21/21

21話

 暗い闇の中で何かがひらひらと舞う。それが光沢で輝く、サテンのリボンであることに気づくのにリリャは時間がかかった。よく見ればそれはバレエシューズである。

 まるで誰かが履いているようにバレエシューズは踊り、目を凝らすと靴の持ち主であろう人物の白いほっそりとした脚が見えてきた。


 ああ、とリリャは納得した。ちょっと想像していたのとは違うがこれが走馬灯というやつなのだろう。記憶を掘り返し、夢を見せる。その記憶が村に虐殺部隊がやって来た時のことでなくて良かった。


 これは一度だけ見たバレエ公演のバレリーナの脚だろう。鮮烈に記憶に焼きついて死に際にまで出てくる。バレエを習えなかったという未練だろうか。


 輪郭が描かれていく。くるくると回ってバレリーナの顔は見えない。しかし、途中で髪が白いことに気がつくとリリャは目を見開いてバレリーナを見つめた。

 回転を辞めたバレリーナの顔を見て、リリャは息を呑む。鏡を見ているようだった。バレリーナはリリャ自身だった。叶わない未来を想像したのだろうか、と思った瞬間。


 「行きなよ」


顔がわからない声が、小さな無数の手が、リリャの背を押した。そうしたら、一歩先は奈落だったのかリリャの体は落ちていく。


 はっと目を覚まして飛び起きようとしたが、ベッドに固定されていることに気づいた。近くにいた看護婦が飛ぶようにリリャの近くに来た。


 「目を覚まされたんですね、よかったぁ! オクサーナさんからリリャさんは怪我してるのに動き回る危険性アリと聞いていたので固定させてもらいました」


 戦場でリリャが血を流しながらも動き回った出来事をオクサーナは覚えていたのだろう。看護婦は笑いながら、拘束具を外す。


 「傷口も縫合されてあとは目が覚めるのを待つだけだったのよ」


 看護婦は微笑んで、リリャに見舞いの品の山を見せた。ミハイルからのもの、イヴァンからのもの、オクサーナからのもの、そしてフェドートからのものもあった。しかし一番驚いたのはアリアドナとヴィクトーリヤ、ユリアナの連名で贈られてきた見舞いの品があったことだ。


 最初は何か嫌がらせの品かと恐々と開けてみたが、高価であろうりんごのケーキが入っていた。毒か何か仕込まれているのかと疑ったが、百貨店で買ったことが箱の包装から読み取れたので安心して口にした。


 リリャが目が覚めたと連絡が行くと、すぐに面会の要請があり、ヴォルコフ家の面々がまず最初に会いに来た。ミハイルだけでなく、アリアドナやヴィクトーリヤ、ユリアナまでが見舞いに来たことにリリャは驚いた。


 そしてリリャがベルンシュタインの首都侵攻の際に病院で寝ていたように、大事なことは全てリリャが寝ている間に決着してしまう運命らしい。


 まずアリアドナに頭を下げて謝られた。


 「この度は愚息を庇ってこんなことに。本当に申し訳ないことだわ。そして今までの私たちの態度も謝らせて頂戴ね」


 アリアドナはベッドに横たわるリリャの手を掴んでぽろぽろと涙を流した。その姿に鉄のような人でも泣くことがあるのかとリリャは驚いた。そして態度の変わりようにも驚いた。ヴィクトーリヤは気まずそうに申し訳なさそうにもじもじしているし、ユリアナも俯いていた。

 どうやら命をかけてミハイルを庇ったことが献身的な愛として評価され、リリャを認ざるを得えなくなったのだろう。


 「レーシナ家には私から話をつけました。それにもう、私もあなた方の結婚を反対する気はないわ。退院して落ち着いたらいつでも婚姻届を出しなさいな」


 アリアドナはリリャの体に深く刻まれた刺し傷や、銃創を病院着の下にあることを知ってまるで自分の本当の娘であるかのように悲しんだ。意外と情に厚い人なのかもしれないとリリャは認識を改めた。


 「あの、マリヤさんはそれで納得したんですか?」


 リリャはあのマリヤの狂気的な執着を思い返す。そう簡単に諦めるような女には見えなかった。まるで羆が獲物に執着するように、狙撃手が獲物に執着するように。


 するとヴィクトーリヤが思い出すのも恐ろしいというように白い顔を青ざめさせた。


 「笑ってたのよ、マリヤさん。あなたが倒れて血まみれになっているのを見て笑ってたの…」


 そしてその光景を思い出したのかヴィクトーリヤは身震いした。マリヤは精神的に問題があると見てレーシナ家が責任を持って病院に入れるらしい。リリャも訓練生時代にエカチェリーナから病院を勧められた経験があるため、何とも複雑な気持ちになった。


 「マリヤさんとリリャさんがスープを作ったことがあったでしょう?」


 そこで初めてユリアナは俯いていた顔を上げた。


 「あの時私、キッチンを覗いたの。マリヤさんがリリャさんのスープに何か入れるのを見た。でも、見間違いかと思ったし、姉のように慕った人を信じたかったの。言い出せなくて…ごめんなさい」


 ユリアナはヴィクトーリヤのようにリリャを露骨にいじめる方ではなかったが、ずっとスープのことを気にしていたことはユリアナの態度から伝わってきた。マリヤが血まみれのリリャを見て笑ったのが姉と慕った人への信頼が壊れるきっかけだったのかもしれない。


 ヴォルコフ家に続くように見舞客は途絶えなかった。イヴァン、オクサーナ、フェドートといった悪竜ズメイの仲間たちから一緒に戦った部隊の人たち、それから英雄ミハイルのパートナーだったリリャに媚を売ってミハイルに取り入りたい有象無象。


 最後に見舞いに現れたのは エカチェリーナだった。せっかく唯一生き残った教え子が刺されてまた死にかけていると聞かされた時の彼女の心情はどんなものだろうか。 エカチェリーナの顔には疲労が浮かんでいた。


 「まったく、お前は手のかかる教え子だ。私も流石に肝が冷えたよ」


  エカチェリーナは意外と元気そうなリリャの姿を見て安堵したように息を吐いた。


 彼女が校長を務めていた狙撃兵訓練学校は有事の際にのみできた士官学校の分校のようなもので、終戦となった今生徒を受け付けていないだけでなく訓練機関という機能もほぼ停止しているという。

 すぐに実戦に投入できる狙撃兵を国が必要としなくなったからだそうだ。閉校の準備が終わったら、エカチェリーナは戦災復興部隊への転属が命じられている。


 最高司令部は彼女に結婚なり何なりさせて穏便に引退させ、女性の英雄を世間の記憶から葬り去ろうとしたようだがその意図を察したエカチェリーナは徹底的に反抗してやろうと決めたようだ。

 教官職しかも校長からのただの復興部隊の隊員というのは降格にも見えるかもしれない。国が今推し出そうとしているのは勇猛な男性像と家庭的で献身的な女性像だ。前線で戦う女兵士とは戦争がなければ誕生しなかったものだ。


  エカチェリーナの存在はこれから平時に移行する中で国としてうまく機能していくのには邪魔な存在なのかもしれない。


 「ああ、それと入院中のお前に会わせるのもどうかと思ったんだが、うるさくてな。少し話だけ聞いてやって欲しい奴が来ている」


  エカチェリーナはそう言うと、病室の外に視線を投げた。すると メガネにボサボサの髪を後ろで引っ詰めにした女が入ってきた。


 「初めましてアレンスカヤさん。わたくし、ジーナ・イサーコヴナ・チェレホヴァと申します。入院中のところ申し訳ないのですが、退院後の取材の予約だけしておきたくて!」


 ジーナはぺこぺこと何度も頭を下げたが、目だけは獲物を見つめるように爛々としていた。リリャは取材という言葉にリリャに寄り添うようにベッドの傍に座っているミハイルを見た。


 「ええっと…私にですか? ミハイルじゃなくて?」


 今日の見舞い客はリリャを通してミハイルと繋がりを持とうとする人も多かった。そういった客は今は既に追い返してはいたが。


 「いえ、正真正銘アレンスカヤさんに取材申し込みです」


  ジーナの顔は真剣だった。英雄ミハイルの記事を書きたいというような願望も透けてこない。


 「私、従軍記者でした。女性兵士の活躍をこの目で見てきました。でも、今の世間の風潮では女性兵士の活躍なんてちっとも取り上げない。無かったことになっている。だから私がそんな()の声を記事にして発表したいんです。生き残った女性兵士の方に片っ端から声掛けてます」


あ、これ名刺ですとジーナは名刺をリリャに手渡すとすぐに退室した。 エカチェリーナも騒がしくしてすまなかったな、と言って退室した。


 リリャは手渡された名刺をじっと見つめた。ジーナの連絡先が書いてある。


 「受けるも受けないも自分で決めたらいい」


 ミハイルはそう言ってくれた。リリャは自身が感じていたことをジーナがうまく言語化していたことに感動していた。


 「私の話なんて残酷で凄惨なことばかり。でも、ジーナさんなら目を逸らさずに記事にしてくれるのかな」


 リリャはミハイルを英雄に持ち上げる記事を思い出す。本人とかけ離れたものになってしまってはいけないのだ。自分の思いを、言葉をそのまま形にしてくれなくては意味がないのだ。


 この女性兵士の声を集めた記事というのは今の国の方針から真っ向から対立するというか逆行する挑戦的な記事になることは間違いないだろう。 エカチェリーナが戦争が終わっても軍人を続け、自分の英雄としての行いが消えないように抗い続けるのなら、リリャも何かしたくなった。


 これはずっと後の話。ジーナの女性兵士へのインタビュー記事は長らく出版不可として彼女の部屋のクローゼットに追いやられたが、国のトップが代わり「雪解けの時代」と後に呼ばれる時代になると出版されることになった。




******




 リリャは首都フィーナの駅のプラットホームに立っていた。その右手の薬指には銀色に光る指輪が嵌められている。つい最近、バレエアカデミーも再開し入学許可証も送られてきたばかりだ。


 「リリャ、お待たせ」


ミハイルが紙袋を持ってリリャの隣に立ち、流れるように腕を絡めた。その右手にはリリャと同じ指輪が嵌められている。紙袋の中には列車の中で食べることになるだろう昼食が入っていた。


 リリャは握っていた切符を見る。首都フィーナから国境付近の地方都市へ向かう列車の切符だ。そこからイェレナ村まではバスを乗り継いで、最後は徒歩だ。辺鄙な場所にあるとリリャは思う。しかし村から出なければ気づかなかったことだ。村と学舎がある隣村、そして時々行商にでる地方都市が世界の全てだった。


 村はどうなっているのか、今日に至るまで何度も想像した。それを見た自分はどうなるのだろうかとリリャは飽きるほど思考を重ねた。そして行ってみなければわからないという結論に達した。


 村に帰れば嫌でもあの日のことを思い出すだろう。しかしあそこに人が生きていたという証左を残しておかなければならないと思った。あの村は、戦争の犠牲になった村人たちの墓標だ。


 「ミハイル、途中で花を買ってもいい?」


 ミハイルはリリャの意図を理解したようで勿論と頷いた。墓参りなのだから花くらい必要だろう。父、母、イリヤたち村人が眠る土地。そこに本当は死体がなかったとしても、墓標には違いないとリリャは思った。


 帰郷の旅にしては足取りは軽くない。しかし、重苦しくもない。列車が煙を吐きながらプラットホームに入ってくる。リリャはミハイルと一緒に列車に乗り込んだ。

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