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残雪  作者: ひめりんご
20/21

20話

 オクサーナから手紙の返事が来た。オクサーナはそれはもう文面から伝わるほどリリャのために怒っていて、リリャは日々の嫌がらせのことなど頭から吹き飛んでしまった。

 

 細々と文通を続けてはいるが、オクサーナとはしばらく会っていない。戦場では毎日のように顔を合わせていたというのに。それでもリリャの心は弾んでいた。


 近々軍が主催する親睦会の立食パーティーに参加することになっていた。同じ部隊や戦場で戦った兵士たちが集まる。そこでオクサーナとも会えるだろう。

 軍人の家族も参加して良いことになっていたのでヴォルコフ家の人々は家族枠としてマリヤを連れて行くと決定した。


 ミハイルは嫌そうな顔をしていた。パーティーでマリヤがミハイルの婚約者ですと触れ回ったらリリャと結婚すると思っていた者たちの視線を考えると胃が痛いだろう。リリャもミハイルの隣にマリヤが居るのは何だか胸がざわざわとした。


 パーティーは首都フィーナのホテルで行われた。奇しくも エカチェリーナと再会したホテルだ。軍の者がよく利用するのだろうか。


 パーティー会場は、人で溢れその中に見知った顔もちらほらと見かける。ミハイルはリリャに側から離れないようにと強く言いつけた。心配の種であるマリヤはアリアドナたちに付き添い、いかにも義母や義妹たちを気遣う妻面をしている。


 ミハイルは出来るだけマリヤから距離を取っていた。自然とアリアドナたちとも分断される。でも、それでよかった。会場を一歩歩こうとすれば見知った顔や戦功だけを聞きぜひ話してみたいという知らない顔から声をかけられ、立食パーティーだというのにあまり食べられなかった。


 ミハイルも上官らしき人物たちに捕まって、話し込んでいる。その時、遠くから見慣れた人物が近づいて来た。


 「リリャ!」


 「オクサーナ!」


 ふわふわしたワンピースと念願のハイヒールを履いたオクサーナは戦場での薄汚れた姿とは随分と違っていた。あの時の彼女は、男物の軍服と衛生兵を示す腕章、そして少し大きい軍帽で彩られていた。

 まるで知らない女の子に声をかけられたようで、声はオクサーナなのに頭が混乱してしまった。それはオクサーナも同じだったようで、目立つ白髪を頼りにリリャを探し出してくれたようだ。


 「リリャ、すっかり変わっちゃって! 綺麗になったわね。やっぱり結婚すると違うものなのかしら」


 リリャは結婚という言葉を聞いて、膨らんでいた気持ちが一気に萎んでしまった。オクサーナが悪いわけでは無い。


 「手紙に書いた通りなの。まだ結婚とかそういう話にならないどころか、私が邪魔者なの」


会って早々に暗い話をしてリリャは申し訳なかったが、口からぽろぽろと言葉が溢れていた。


 「あんたがそんなことでどうするのよ」


 オクサーナは会場中を舐めるように見渡し、一つの人物に目をつけた。手紙にマリヤの容姿のことは事細かく書いていた。綺麗な黒髪だったから。今の自分の白髪と比べて自分を卑下したことを書いたような気がする。


 「あの女がマリヤ?」


ヴォルコフ一家は正直言って目立つ。立派な金髪の中に黒髪を見つければそこに血の繋がりがあるようには見えない。


 オクサーナは遠くからマリヤをじろじろと頭からつま先まで品定めするように眺めた。


 「ミハイルに相応しいのはリリャしかいない。もちろん、リリャに相応しいのもミハイルしかいない。私は二人はそんな風に見えた」


 オクサーナはリリャの手を握って「マリヤとかいう女には負けないで」と励ました。オクサーナから見て、リリャとミハイルは優秀な狙撃兵のパートナーであり、ぴったりと合わさったパズルのピースのように見えたことだろう。それが女と男だったから尚更。


 狙撃の名コンビというのはそれなりに存在している。しかし、それが男女であるという例は少ない。


 「よう、お二人さん。久しぶりだなぁ」


 巨大なチキンを頬張りながら、イヴァンがオクサーナとリリャに手を振った。相変わらず食い意地を張っている様子は変わらない。イヴァンが集まるとミハイルも適当に話を切り上げ、近づいて来た。そして妻を連れたフェドートと再会すると、あの日の悪竜ズメイのメンバーが揃った。その中にアレクセイやヴェニアミンがいてくれたなら。そんな願いが湧いてくる。


 フェドートの妻は小柄な女性で、気を遣ったのかそれとも歴戦の猛者たちの風格に気押されたのか他の兵士の奥様方のもとへと挨拶も早々に行ってしまった。

 フェドートは感慨深く悪竜ズメイの隊員たちを見渡した。今生きてこの場に立っていることを噛み締めるように。


 国全体の勝利ムードに仕事やら入院やらで乗り遅れてしまったリリャたちは改めて自分たちが戦勝国側の人間になれたことを自覚した。スコアばかりを数え、その時、その一瞬を必死に生にしがみついて生きていた戦場の日々は今や遠い夢のようだった。


 しかしぴったりと影のように硝煙と血の臭いがくっついている。泡沫のように消えることはない。


 リリャはちらりとフェドートの妻が向かった方向へ目をやった。妻たちの集まりの中にはアリアドナをはじめ、マリヤの姿もある。夫や息子が同じ部隊だったというよしみからか話に花を咲かせているようだ。


 周りに耳をすませば、色々な話が飛んできた。


 あの時は大変だったね、馬をみんな供出しろっていうんだから。畑を耕す農耕馬すらいなくなってしまったよ。


 お乳が出なくなって配給の粉ミルクで何とか凌いだものよ。


 辛かったわね。私たち。本当に辛かった。


 女たちがシクシクと泣いている。肩を叩き合って慰め合っている。戦場ではなくとも戦いがあった。その戦いに参加した女は連帯感で結束が強くなる。その間、戦場で男たちと共に戦っていた女兵士が弾き出されるのも無理はないのかもしれない。

 リリャたちが同じく兵士たちとしか分かり合えないように、女たちも男がいない間に自分たちだけで頑張った経験を分かち合える女同士でしか分かり合えないのかもしれない。


 女の輪の中にリリャは二度と入れないかもしれない。戦場を経験してきた異物に生まれ変わってしまったのだから。

 

 フェドートたちと懐かしい話に花を咲かせ、フェドートやイヴァン、ミハイルに酒が回って皆が陽気になって来た頃だった。オクサーナはマリヤの様子を伺うと、リリャの肘を小突いた。


 「マリヤって女、ずっとちらちらこちらに視線向けてるわよ。そろそろこっちに来るんじゃないかしら。その前にミハイルと逃げなさいな」


 そう言ってオクサーナは恋人同士のリリャとミハイルの二人に気を遣ったふりをして人波に紛れさせ、パーティー会場のカーテンの裏に隠れたバルコニーに隠れさせてくれた。

 銃弾を避けるために最短経路で移動するような緊張感が身を包んでいた。途中でミハイルもオクサーナの気遣いに気がついたようだった。にやにやと笑う悪竜の隊員たちに見送られながら、リリャたちはやっと二人きりになれた。


 ホテルのバルコニーから見下ろす街は、勝利のお祭りの音が遠くから聞こえてきていた。ミハイルはそれを感慨深そうに眺める。二人きりになれたが、二人の間に言葉は要らなかった。 

 自分たちが守ったものを目に焼き付けたかったのかもしれない。首都フィーナはほぼ戦前の形のまま残されている。首都だけは無事だった。リリャたちが必死に首都まで魔の手を伸ばさないように戦ったからだ。しかし国境付近の都市や街はぼろぼろで、復興に時間がかかる。


 ルフィーナ共和国が元の形を取り戻すまで、まだ戦争という爪痕は消えないのだと思い知らされる。戦争が終わってから、リリャは故郷であるイェレナ村には行けていなかった。略奪の限りを尽くされ、最後には疫病を防ぐため燃やされたと聞く。略奪されないために焦土作戦が決行され、燃やされた村など数え始めればキリがないが、もう二度と粉挽きの水車や、立ち並んだ簡素なペイントの家々、家畜たちの声は無いのだと思った。


 ミハイルと首都で暮らして、再開したバレエアカデミーに通って、いつか記憶の隅の方に村の記憶は押しやられていくことになるのだろうか。都会に出て、バレエをやる。リリャが田舎の村で憧れた暮らしそのものだ。

 しかし、リリャは今は唐突にあのつまらなく平凡で面白みのかけらもない村での日々を懐かしく思った。

 

 リリャは何気なく自分の手を見た。マメだらけのお世辞にも綺麗とはいえない手だった。指先に目線をやる。いつか染め汁で黒ずむのではないかと思っていた指先だ。そしてイリヤのことを思い出した。


 あの時はリリャの身に降りかかった不幸にばかり目がいって茫然として、戦場ではその日生きるのに必死で彼のことを思い出すことがなかった。それどころか、イェレナ村のことを思い出すことすらなかった。


 「ミハイル、気持ちの整理がついたらイェレナ村に…いや、正確に言えばその跡地かな。そこに行きたい」


 リリャの口からイェレナ村という言葉が久々に出たのがよほど驚いたのか、ミハイルは目を開いてこちらを見た。


 「今すぐとかじゃない。まだ私も村を見るのが怖い。綺麗な思い出のまましまっておく方がいいかもしれない。けど、私はどうしても虐殺部隊が来た日のことを忘れられない」


 事実をしっかり噛み締めて、前に進まなくてはいけない気がした。村人の死体はどうなっただろう。簡素に埋められているだけかもしれない。そんな光景は嫌というほど見てきた。戦争中は穴を深く掘る暇もないので軽く土をかけるだけだったり、雪が深く降り積もって土にすら到達できない時もあった。

 春になったら雪は溶けて死体は野に晒されるのだろうか。弔銃の音が耳の奥で鮮やかに再生される。厳しい冬、冷たい土の下。その中身が暴かれることがないようリリャは願った。残雪が全てを覆い隠してくれますように。


 その時、リリャは首筋がぞわりとした。うなじがびりびりしているとも感じる。リリャが人体実験の遺産。狙撃手が獲物を狙う、その視線、銃口が向いているその先。殺気なるものを肌で感じる。獣のように感覚が鋭くなる。

 そしてこの殺気はリリャに向いているんじゃない。隣のミハイルに。


 次の瞬間、カーテンが乱雑に引き裂かれるように開かれる。給仕人の服装をした男だった。お飲み物でもいかがですかと聞いて来そうな顔で、手に持ったナイフをミハイルに向かって突き刺した。

 さっきを感じた瞬間、リリャはナイフとミハイルの間に体を滑り込ませていた。


 「死ね! 死神」


 男が叫ぶ。リリャは掠れて音にならない声で呟いた。残念、死神と呼ばれた英雄は殺せないよ。なぜならパートナーの私が邪魔するからね。こんな長い言葉言えなかったし、「あ」とか、「え」みたいな意味のない音が空気と混ざった。


 男の手は真っ赤に染まった。リリャの血で。男の手にはリリャを刺した感触が残っているだろう。男は狂ったように笑った。


 「まあ、いいか。お前は自分が死ぬよりその女が死ぬ方が辛そうだ」


じわじわとリリャの血が広がる。リリャはミハイルに寄りかかるような形で倒れ込んでいた。ミハイルの服にもべったりと血がつく。ミハイルはリリャを支えながら、どんな顔をしているのかリリャには見えなかった。


 「クロヴォプスコフは死ね! ベルンシュタイン万歳!」


 男はそう叫んでバルコニーから飛び降りた。下は石畳の道路でパァンという何かが弾けるような音が遅れてやってきた。果物が潰れたみたいに男は体から血を流してリリャの返り血と混ざっていった。


 リリャは深く突き刺さったナイフを抑えた。ここで抜いてしまうと派手に血が飛び散るし、失血死する可能性が高い。


 「リリャ」


 ミハイルが懸命に声を駆ける。騒ぎを聞きつけて、人が集まってきたようだ。リリャから流れる血と先程飛び降りた男を視界に入れ、つんざくような女性の悲鳴が耳鳴りのようにずっと響く。


 「ミハイル…無事?」


 流れゆく血が戦場を思い出させた。血を流しながら戦ったのだ。


 「ああ、おかげさまでな」


ミハイルはなんで庇ったんだという思いが滲み出ていた。視界が霞んでいく。死ぬ前のヴェニアミンもこうだったのだろうかとリリャはぼんやり考えた。

 リリャを刺した男はベルンシュタイン人だろう。あの少女兵がルフィーナ人でありながらベルンシュタイン人に紛れられたようにその逆もまた然りで、ルフィーナ人とベルンシュタイン人の見た目に大きな差異はない。もちろん、ルフィーナ共和国は様々な人種を内包するため全ての人ではないがその中でも大多数を占める人種とベルンシュタイン人は似ている。

 捕虜が脱走してルフィーナ人になりすまし、復讐の機会を伺うことも可能だっただろう。仲間のためか家族のためかは知らないが、男もリリャと同じく復讐者だった。


 因果のようなものをリリャは感じていた。復讐は全然断ち切れていなかった。リリャがベルンシュタインに復讐するため兵士となって沢山の敵兵を倒したからまた新しい復讐者が生まれ、リリャの息の根を止めることになる。


 しかし、リリャはやり直せたとしても復讐を選ぶ気がした。女たちの輪から外れ、謗られることになろうとも受けた傷が痛んで泣き寝入りしようなんて気にはならなかった。


 「リリャ、しっかりするんだ。意識を保て」


ミハイルが呼びかけるが失った血の量が多すぎて、リリャは返事ができなかった。しかし、最後に視界に映るのが愛しい人の顔というのは良いものだな、と何処か満足してしまっている。重くなるまぶたに逆らえず、リリャは目を閉じた。



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