2話
トラックの荷台に積まれ、どのくらいの距離を走ったのだろうか。村周りの舗装されていないでこぼことした道から舗装された道を通ったかと思えばまた、舗装されていない道を走る。
リリャにとって一番の幸運だったのは、トラックの荷台に兵士たちが上がり込んでまたリリャに暴力を振るわないことだった。
リリャが降ろされたのは、山の中の孤児院を改装した施設だった。リリャと同じように連れて来られたのだろう子供達が一列に並べられ、蟻の行列のように施設の中へと入って行った。
その子供達と心の傷を舐め合う時間などなかった。喋る暇もなく、部屋の中に押し込められると裸にされ消毒液を掛けられた。殴られた痕に消毒液が染みた。
草臥れた病院着のような服に着替えさせられ、この施設の職員と思われる白衣の男たちが言うところのベッドに子供達は全員押し込められた。
ベッドといっても、それは大型犬用のケージでここは動物の繁殖施設のようにも見えた。収容されているのが人間の子供だということ以外は。
「おかあさん、おかあさん……!」
何処からか、啜り泣く声が聞こえる。リリャだって泣き出したかったが、もう涙は枯れていた。そして狭いケージでじっとしていたら悪夢のようだと思っていたが、これは現実だという実感が湧いてくる。
父も母も、イリヤも、村の人全員が殺されてしまった。自分は父の死体の前で犯され、ここに連れて来られた。生きていられて良かったという心地はしない。この施設での生活は死んだほうがマシなくらい酷いものだった。
まず、最初は血を抜かれることから始まった。大量に抜かれて周りの子供達は衰弱して行った。中にはこの時点で死んでしまった子もいた。医者たちが少し加減を間違えて血を抜き過ぎてしまったから。
子供たちはいつの間にか居なくなって、また新しい子が補充された。
血を抜かれる第一段階を耐え抜いた子供達は今度は何かわからない薬物を注入された。そのあとは学校の体力測定のようなことをさせられる。そして段々とこの医者たちの目的が見えてきた。
人体に負荷を与え限界を知る実験。そして同時に洗脳を施し、兵士に育て上げること。それに思い至った時、リリャの心を支配したのは怒りだった。このままでは自分は祖国に刃を向ける兵士にされてしまう。村を襲った虐殺部隊に自分自身がなってしまうと。
リリャが洗脳を耐え抜いたのは、ずっと怒りを燃やし続けていたからだった。
そして、リリャが報われる日がきた。後から知ったのだが味方のルフィーナ軍が大攻勢により占領地を解放していき、この施設も解放された。雪がちらつきだす頃合いだった。その頃には医者たちは子供達を置いて逃げていて、施設には弱った子供達が残されていた。
餓死してしまった子も衰弱死してしまった子もずっとそこに居た。そしてリリャを見ている。それはまるで父や母、村の人たち、暴行された女たちの目と同じだった。
彼らはずっとリリャを見ている。リリャは罪悪感に押しつぶされそうになって、ずっと膝を抱えて窓の方を見ていた。灰色の空ばかりが映る。
扉が開いて、複数人が駆け込んでくる足音が聞こえた。その頃にはリリャはもう息をするので精一杯で指の一本も動かすことが出来なくなっていた。入ってきた人物たちは建物の中に立ち込める臭気に怯んだのか「うっ」と声を漏らす。
「これは酷い!」
「生存者を探せ」
その声に反応するべきだったのだろうが、リリャにはその気力すらも残っていなかった。幸運だったのは、医者たちは自分たちが逃げるのに必死でリリャたちをケージの中に入れては行かなかったことだろう。
だからこそリリャたちは身を寄せ合って寒さを凌いだ。しかし、昨日から最後の話し相手が返事をしなくなった。肩には寄りかかった死体の重さだけを感じている。
ルフィーナ軍の兵士たちからしてもそれは哀れにも身を寄せ合った子供達の死体の山に見えたことだろう。その中でじっとリリャは兵士たちを見つめていた。
一人の兵士、金髪碧眼の若い青年がこちらに目を向けた。美しい彫像のような男である。か細い呼吸音に気づいたのかもしれない。
「この子はまだ生きている!」
青年はリリャを死体の山から引っ張り出すと、その鼓動と体温を確かめるように抱きしめた。泣きながら「よかった、よかった。生きていてくれてありがとう」と何度も呟き、喜びを表すように何度も頰にキスしてくれた。
その様子を周りの兵士は固まって食い入るように見ている。きっと信じられなかったのだろう。
その時のリリャはもうすっかり痩せこけていて、骨と皮だけのようになっていたし、自慢の金髪は真っ白に染め上がってしまっていた。雪の妖精というよりは、老婆のように見えただろう。
青年の涙がリリャの頰に落ち、まるでリリャが涙を流しているかのように頰を伝った。
******
その遊撃部隊は、一番にこの施設へとたどり着いてくれた。兵士たちはまずリリャに食べ物を食べさせてくれたが、リリャはいきなりの乾パンを齧ったので吐き出してしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
泣きながら謝るリリャの背中を青年の兵士が優しく摩ってくれた。スープだけを流し込んだリリャは久しぶりにまともな食事を取れたような気がした。村が襲撃されてから日付の感覚なんて飛んでいたので今がいつなのか分からない。
「今は何年ですか」
「ユーラ統一暦1931年だ。君はいつからここにいたの?」
リリャの前で小さな鍋でスープを煮ていた茶髪の兵士が尋ねる。リリャは必死に思い出そうとしていたが記憶は霧が立ち込めているように朧げではっきりとしなかった。薬物を投与された影響かもしれない。
「確か、村が襲撃された春の日は1930年…」
その時リリャの隣に座って背中を撫でていてくれた兵士の青年が息を呑んだ。
「君は一年、こんなところにいたのか」
またこの部隊の人たちを泣かせてしまったとリリャは申し訳なく思った。そして一年もここに閉じ込められていたことを思い知る。リリャとしては十年くらいは経っているような気がしていた。そうなればリリャの髪の毛がすっかり白くなってしまったことにも耐えられるような気がした。
腹が膨れると、部隊の人たちはまず残された子供たちの遺体を埋葬することから始めた。大きな穴を掘って簡単に土葬するだけだ。こういう状況では仕方がなかった。
リリャは薄い病院着の上から裏地のついた冬用の軍外套を着せられ、ちょこんと座っていた。埋葬され行く子供達を眺めていた。雪が降り積もっていく。皆痩せほそり苦悶の表情を浮かべている。兵士たちの中には耐えられず泣き出すものもいた。
自分に降りかかってきた様々な出来事と一緒に感情を忘れ去ってきたみたいだ。ただ燃えるような憎悪だけが残っていた。そのほかのすべたの感情は今ここで他の子供たちと一緒に葬られていく。リリャは座ったままではいられず金髪の兵士の青年の元へ駆け出していた。
「私も連れていってください! 敵を皆殺しにしてやりたい!」
金髪の青年は苦しむように顔を歪めた後、眉を下げた。
「今、君に必要なものは栄養と十分な休息だ。埋葬が済んだら君を後方の病院まで送ろう」
そう言って青年はリリャの頭を撫でた。父の手のひらを思い出させるような感触だ。
「銃も扱えます! 私も前線に連れていってください。家族も友人も、もう誰もいないんです。私には復讐しか残ってないんです」
リリャは青年に縋り付くように膝をついた。青年はしばらく黙っていた。
「基礎軍事訓練も受けていない人間を連れてはいけない。覚悟があるならば、病院に行ったあと志願しなさい」
ここでお別れなのだとリリャは悟った。親鳥の後をくっついて回る雛のように、リリャを見つけ出してくれたこの人とどうしても離れたくなかった。
「私はリリャ・イーゴレヴナ・アレンスカヤ。貴方の名前を教えてください」
この人がきっとリリャにとっての神様に違いないと思っていた。窓からの逆光の中で、この人が抱きしめてくれた温もりがリリャを生かしてくれたのだと。
そしてこの人は前線へと向かい、リリャは後方に送られる。それはリリャがどれだけ粘ろうとも覆せない決定だった。もしかしたら二度と会うことはないかもしれない。その可能性の方が高い。
「ミハイル・エドゥアルドヴィチ・ヴォルコフ」
ミハイルはリリャを安心させるような声色で穏やかに言った。リリャはその名前を何度も口の中で噛み締めた。助けてくれた人の名前、声、顔、全て忘れないと誓った。
子供達の死体はすっかり土に埋もれ雪が降り積もりつつあった。それは冬の女王の胎内に還って行ったようだ。埋められた場所は孤児院の中庭。その何の変哲もない場所に数十人が埋まっている。リリャの大切な何かも一緒に埋まってしまっているように感じた。
リリャを後方の病院へ送るため、部隊は一旦後方へ帰る事になった。冬の女王の吐息が雪となって木々を薄らと白く染めている。霜を踏みしめながらリリャは兵士たちに囲まれて歩いた。
この人たちが助けにくるまでは生きる希望をなくし、静かに死を待つだけだったがやはり食べ物を食べると生きる活力が湧いてきた。
森の中は静かだった。全てが眠りについているかのように、風の音すらない。その時、リリャは嫌な予感を感じた。肌が寒さではなくびりびりと弱い電流を喰らっているような。
それは、あの恐ろしい施設で受けた実験を思い出させた。
「ゔ…」
リリャがその場に蹲ったとき、「どうした」とミハイルが膝をついてリリャの顔を覗き込もうとする。その時だった。リリャの前を歩いていた兵士頭が、バシュンという音と共に撃ち抜かれるのを。
「伏せろ!」
誰かが叫び全員が一斉に伏せた。リリャはいつの間にかミハイルが覆い被さって守ってくれている。だが、駄目だという気持ちがリリャを支配していた。母は「伏せて」と言ってそのまま死んでしまった。
ミハイルがこのまま死んでしまうような気がして、リリャはミハイルの腕の中から這い出した。
「リリャ!」
叱責するようなミハイルの声が聞こえる。しかし、リリャはその声を無視して撃たれた兵士から銃を抜き取るとそのまま森の木々の間に飛び込んだ。
リリャの痩せた腕で銃を構えるには重すぎるだろうが、火事場の馬鹿力かそれとも実験の遺産か、猟銃を持つ時と同じように扱えた。銃の種類は違うしこちらはスコープがついている。だが、構造自体そう劇的に違うわけではない。
リリャは感覚を掴むと、木の上に登った。怒りだけが体を動かしている。敵がまだこの地に残っていたのだ。そして木の上から狙撃している。
先程頭を打たれた兵士は、スープを何とか飲み込むリリャの姿に「俺にも同じくらいの娘がいる」と泣き、親身に接してくれた人だった。短い時間しか一緒にいなかったが、いい人だった。
そんな人の命をたかが弾丸の一発で奪ってしまった奴がいる。リリャは怒りで目の前が覆われた。ならばこちらも一発で仕留めてやる。羆は一発で仕留めなければならないように、あの人を撃った狙撃手の命には弾丸一発の価値しかない。
「仇をうってやる」
リリャは奥歯を噛み締めた。