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残雪  作者: ひめりんご
19/21

19話

 マリヤは爪が食い込むほどリリャの肩を掴んだが、やがて離した。


 「たかが戦地だけの妻のくせに、正式に結婚しようだなんて図々しいのよ! 兵士だったなんて悍ましい。男を漁りに行っていたんでしょう。何人の男と寝たの? 汚らわしい」


 リリャは無神経に言葉を突き立てるマリヤに憎悪のような感情さえ、湧いていた。リリャが男を漁りに行ったなんてそんなわけない。マリヤの言葉はリリャだけでなく、ベルンシュタインの虐殺部隊に暴行された末に死亡した村の女たちや味方に裏切られたエカチェリーナを侮辱されたかのようだった。そしてオリガや名も知らぬ大勢の女性兵士たちを侮辱された気がした。


 あんな思いをすれば、マリヤは口が裂けてもそんなこと言えないはずだ。あんな光景を見れば、戦場に行けばそんなこと言えるはずがない。しかし、マリヤは戦場に行かずリリャは戦場に行った。溝が埋まることはない。知らないものにどんなに戦争を語ったところで、実際に体験した者ほど理解を示せない。


 「私は、祖国に対する義務を果たしただけだ」


 リリャは志願しなかった女性を見下しているわけではない。しかし、マリヤは確実に兵士だった女性を見下していた。それが怒りやら悲しみやらでぐちゃぐちゃになった。命をかけて守って来た市民にこんなことを言われるなんて。


 マリヤは憎々しげにリリャを睨みつけたが、火にかけた鍋のスープが沸騰し始めたことにより、意識が逸れた。それからマリヤは何も言わなかった。リリャもスープ作りに意識を向けた。


 スープが出来上がる頃、キッチンにアリアドナが来た。


 「今日の夕食はヴォルコフ家に相応しい…美味しかった方を食卓に出します」


 リリャは最初からマリヤの作った方をアリアドナが選ぶだろうと思った。アリアドナは一口、マリヤの作ったスープを口に含み満足そうに頷いた。それから一応公平に見えるようにとリリャのスープも口に入れた。

 しかしアリアドナはスープを吐き出しそうになりながらも何とか飲み込むと眉間に皺が寄った。


 「アレンスカヤさん、貴女…味見しなかったの?」


 アリアドナは責めるようにリリャを睨みつけた。リリャは作り終えた後にちゃんと味見した。普通のスープだったはずだ。ルドルフが作ったものが絶品だったのでそれを思い出しながら作ったものだ。

 リリャはもう一度味見してみると、吐き出しそうなのを堪えた。確かに元から酸味のあるスープではあったが味が変わり過ぎている。酸っぱすぎるのだ。見ていない隙にマリヤに酢を大量に入れられたのだということに気づくまで時間はかからなかった。


 アリアドナに見られないように、マリヤがにやりと笑っていた。


 夕食の時間になると、ミハイルが帰って来た。


 「あら、ミハイル。貴方はいくらでも別邸で過ごしてもらって構わないのだけれど」


 アリアドナは口ではそう言いながらも、表情は柔らかかった。


 「リリャがこちらにいるなら、私もこちらに帰ります」


 ミハイルは不本意だが…という表情をしていた。本当なら今すぐにでも別邸にリリャを連れ帰りたいというようにミハイルはリリャの方を見つめた。リリャを一人にしないためにミハイルはこうして苦手なのであろう実家に戻ってきてくれた。

 その点に関してだけはアリアドナはリリャの存在をよかったと思っているかもしれない。


 食卓にはマリヤのじゃがいものスープが並べられた。しかしリリャだけには酢が入ったスープが配膳された。


 「貴女が作ったのだから、貴女が食べなさい」


 アリアドナが言い放ったのをマリヤは満面の笑みで見ていた。捨てるのも残すのも許されないだろう。しかし、飲み込むのも一苦労な酸っぱいスープをどう処理すれば良いだろうか。


 「そっちのスープはリリャが作ったのか。なら、私もそちらを食べる」


 ミハイルがそう言うとマリヤは顔が青くなり、アリアドナは顔を顰めた。アリアドナが「失敗作だそうだから、貴方はマリヤさんの作ったものを食べたらいいわ…」と何とか酸っぱいスープを回避させようとしていた。しかし、そんなことはミハイルは知らない。


 「ミハイル、スープはちょっと失敗しちゃったからマリヤさんのスープの方がいいよ」


 ミハイルに酸っぱいスープを食べさせるわけには行かないので、リリャは怒りで煮えたぎりながらも冷静を装った。ここでマリヤに酢を入れられたと言っても、アリアドナたちは信じないだろう。それどころか、失敗を他人のせいにするなんてと怒られるかもしれない。

 

 「ちょっとの失敗くらい気にしない。食べられればいい」


 そう言ってミハイルはリリャのスープを鍋から掬った。マリヤが青ざめながらミハイルの動きを目で追っている。アリアドナはマリヤが酢を入れたなんて知らず、ただのリリャの失敗だと思っているので呆れながら「貴方の好きになさい」と呟いた。

 

 ミハイルがスープを口に運んだ時、マリヤは思わず「あっ…」と呟いた。しかしスープはミハイルの口の中に流れ込んでいく。


 ミハイルはスープを飲み込むと顔を顰めた。やはり不味かったのだろう。


 「くだらない…幼稚だ。嫌がらせ以外の何がある」


 ミハイルが忌々しいというようにアリアドナたちを睨みつけた。唯一、味を知っているアリアドナが口を開いた。


 「食材を無駄にした責任はその子が取らねばなりません。ただでさえ、食糧不足の世の中。我が家が恵まれているからといっていくらでも食材を無駄にしていいわけではないのですよ」


 マリヤが勝ち誇ったように、にぃっと笑いヴィクトーリヤは母親の言葉に納得したのかその通りだと頷いた。ユリアナだけが同情したのか何なのかは知らないが、微妙な顔をしてリリャを見ていた。


 「ミハイル、わたしは大丈夫だから。私がよく()()()()()()()()()のが悪いんだから」


 鍋をよく見ていれば、マリヤの嫌がらせを止められたかもしれない。これは目を離したリリャが悪かった。相手がそういう嫌がらせをする人物だと思っていなかったのだ。


 「それに、昔食べてたものよりマシよ」


 リリャはあの施設にいた時に食べた馬の餌の残りなどを思い出した。凍った馬糞を食べて飢えを凌いだこともある。他の誰も出来なかった。だから、リリャだけ生き残れたのだろう。


 「あら、どんなものを食べていたんでしょうね」


 ヴィクトーリヤが馬鹿にするように言った。ミハイルがそれを睨みつける。ヴィクトーリヤはさぞかしリリャが貧しい食事をしているところを想像したのだろう。


 「干し草とか凍った馬糞とか。意外と干し草の味がして食べられるんですよ」


 ヴィクトーリヤは想像よりはるか斜め上の回答に引き攣ったような笑みを浮かべ「人間の食べ物じゃないわ」と呟いた。そんなヴィクトーリヤを叱責したのは意外にもアリアドナだった。


 「ヴィクトーリヤ、戦時中飢えと戦っていた人たちがいることを忘れたの? 私たちが飢えなかったからといって飢えた人たちがいたことを忘れてはいけないわ」


 アリアドナはさすがに嫌がらせのためだけに馬鹿にしていい話ではないと察したのだろう。リリャの事情はほとんど話していない。というよりアリアドナたちが聞く耳を持たなかった。しかし今はアリアドナの瞳に同情的な色が浮かんでいる。


 まだ嫁としては認めていないようだが、同じルフィーナ共和国人民としては認めたようだ。同じ戦争というもの場所は違えど戦い抜いた同志として。そこがマリヤとアリアドナの違いだった。


 リリャはスープは根性で飲み切ろうと思っていたが、アリアドナは静かにリリャのスープをマリヤが作ったものに取り替えた。


 「失敗は誰にでもあるものですから。しかし、食材を無駄にしたということを忘れてはいけませんよ」


 スープ一つで勝敗が決まるのだとしたら、今回はマリヤが勝利するだろう。しかしアリアドナは公平に押し付けた大量の仕事をリリャが素早くこなしたことを勘定に入れたに違いない。もし、何もかも駄目だったらアリアドナはリリャに一欠片の優しさを見せなかっただろう。


 アリアドナは飢えと戦ったリリャに敬意を表したのだろう。


 

 

******



イヴァン・スタニスラーヴォヴィチ・マヤコフスキーは狼の巣──ヴォルコフ家の門の前に立っていた。相変わらずでかい家だと思い、イヴァンは庭園を見渡した。


 貴族的な空気を纏う屋敷やヴォルコフ家の人々はこの平等を重んじる社会において異端と排斥される側かと思いきや、軍の高官や政府の高官はやはり贅の尽くした家に住まうもので、批判の対象になることはなかった。そんなことすれば粛正の対象になるかもしれないという思いが口を噤ませた。あの革命は頭をすげ替えただけじゃないかと思うことがある。


 イヴァンは今日、ミハイルの母親であるアリアドナから呼び出された。士官学校時代、何度か遊びに来たことがある程度で、アリアドナ個人に呼び出される心当たりは一つもなかった。いや、とうとう高そうな壺を割った犯人が俺だとばれたか…とイヴァンの頭には心当たりが駆け巡った。


 今のヴォルコフ家に、イヴァンは行きたくなかった。事情はミハイルから聞いている。何でも知らない婚約者が家にいて、リリャも花嫁修行と称してその婚約者と競わされている、と。話を聞いた時、何様のつもりだとアリアドナを批判した。


 歴史あるヴォルコフ家がどうとか知らないが、本人の同意なく勝手に婚約者を決めるのも今の時代にそぐわないし、何よりリリャに対する手の込んだ嫌がらせが気に食わない。チャンスを与えたように見せて、最終的にはマリヤとかいう女を選ぶ気だろう。この戦いにおいてリリャとミハイルは劣勢だ。


 呼び鈴を鳴らす。家政婦の女が出て来て、イヴァンを客間に案内した。アリアドナはすぐに来て、イヴァンの目の前のソファに腰掛けた。


 「まずは貴方が無事で何よりだったわ」


 アリアドナはイヴァンを懐かしそうに眺めた。そう言えばアリアドナとは戦後初めて顔を合わすと思った。ミハイルとはよく顔を合わすのですっかり忘れていた。アリアドナは厳しそうに見えて意外と情に厚いので、息子の友人もまた息子のように感じているのかもしれない。


 「顔を見せずにすみません。今日は何の用で呼び出されたんでしょう。まさか、本当に無事を確認するためだけじゃないでしょう」


 「貴方が無事か確認するのもありますが、今日は貴方にアレンスカヤさんについてお聞きしたいことがあるの」


 アリアドナはこほん、と咳払いすると背筋を伸ばした。


 「アレンスカヤさんの経歴を調べさせました。しかし、孤児院に籍をおき従軍した以外に何も分からなかったんです」


「リリャは国境付近のイェレナ村出身と聞きましたよ。侵攻が開始して一番に略奪された土地です」


イヴァンは痩せこけた栄養失調状態のリリャの姿を思い出した。最初にイェレナ村だと聞かされたときは驚いた。西の国境からルフィーナ共和国に入る時に一番に辿り着く村だ。街道から少し離れているが、昔は旅人などを出迎える栄えていた地域だ。


 「ミハイルの婚約者に選んだ女性…マリヤさんは身元がしっかりした女性です。たとえ我が家がヴォルコフ家でなくとも、親として身元がはっきりしない女性と一緒になるのは心配なの」


 アリアドナの心配はもっともらしく聞こえた。しかし、戦争のどさくさに紛れ、身元の証明ができなくなってしまった人など大勢いる。


 「今は身元のしっかりした孤児院に籍を置いているんだから、いいじゃありませんか」

 

 まさか孤児は駄目って差別する気はないですよね? とイヴァンは付け加えた。


「結婚は家同士の結びつき。その家がない孤児は、やはりヴォルコフ家に相応しいとは言えないわ」


「レーシナ家の力を借りなくたってヴォルコフ家はやっていけるでしょう。ミハイルの気持ちを大事にしてやってはくださいませんか」


 アリアドナは少し黙った。何か考えているようだ。


 「戦場の花嫁だなんて…。周りにどう思われるか。未婚の妹が二人もいるんですよ。それにあの髪、真っ白だなんてみっともない」


 アリアドナの言葉に、イヴァンは自分が怒っているのだと感じるまで少し時間がかかった。


「そりゃあ、家を守った女性たちは立派ですよ。そこには女の戦いがあったのでしょう。でもそれと同じくらい戦地で男と共に戦った勇敢な女性たちも称賛されるべきです」


 言葉にして初めて、イヴァンは自分の思いを知った。そうだ、共に戦った仲間の兵士たちが世間から評価されていないことに苛立っていたのだ。女性が比較的多かった衛生兵であるオクサーナですら、戦後は日陰に追いやられた。


 男ばかりが持て囃されて、女兵士の存在や活躍ははまるでなかったことになったのが。そして同じ女性たちから敵対視されている状況が、イヴァンには納得できなかった。しかし、自分が表立って庇ってやることができないのも歯痒かった。


 男に庇われたら、女性たちの輪の中で孤立するのは目に見えていた。ほら、また男を誑かして庇ってもらっていると。


 「今は女性兵士の扱いを論じる気はないわ。アレンスカヤさんのことについて同じ部隊であった貴方から話を聞きたいのよ」


  身辺調査に力を入れるのはやはりヴォルコフ家だからかとイヴァンは思った。まるで犯罪の片棒を担がされているような罪悪感に体を浸している気がした。


 「彼女は優秀な狙撃兵で、ミハイルのパートナーとして行動しました。戦果は狙撃だけで89人。英雄メダルを授与されている人物の一人です」


 戦果の話をするとアリアドナは顔を顰めた。イヴァンはまずい、話題を間違えたか? と焦った。


 「そんなことを聞きたいわけではないのです。彼女の人柄とかを…」


 アリアドナの言葉に完全に話題を間違えたことをイヴァンは悟った。ミハイル、リリャ、すまん!と心の中で詫びる。


 「ええと、普段は優しい子です。初めて会ったのはとある任務で救った市民の一人としてでした。子供の痩せこけた死体ばかりのなかに彼女が埋まってた。ずっとこっちを見てた」


 イヴァンはその時の光景を思い出して、吐き気がした。あそこが噂に聞くモルモット・ケージの一つであると知ったのは後からのことだった。


  「哀れだから嫁に貰ってやれと? 憐れむべき人は他にいます」


アリアドナの言葉に、イヴァンは自分の言葉にそういった意図が滲んでいたことに気付かされた。憐れむべき人とはマリヤのことだろう。マリヤ視点から見ればずっと待ち続けた婚約者が妻を連れ帰って来たという可哀想な状況になる。

 そういうことだからおとなしく手を引いてくれとはならない。自分が待っていた期間はどうなるのかと怒る気持ちもわかる。


 しかし元々の元凶といえば、ミハイルの意思を確認せず勝手に婚約者を用意したアリアドナだろう。息子が死んでしまうかもしれないからその前に結婚させてやろうと考えるのは親の愛かもしれない。

 

 「マリヤさんはミハイルに相応しい女性です。それに比べてアレンスカヤさんは、足りないところが多すぎるわ」


 どうしてもミハイルやリリャ側に立ってしまうイヴァンの言葉は真にアリアドナには届かないのかもしれない。アリアドナが求めているのは公平な視点だ。


 「完璧じゃなきゃ、駄目ってことはないでしょう。足りない部分を補うのが夫婦なんじゃないですか? 結婚してない俺が言うのもあれですけど。 戦場のパートナーは時に夫婦の絆をも越える絆を持ちます」


 それが軍人が妻よりも戦友を優先する傾向にあるということだ。命を預けあった者同士にしかわからない絆。それがミハイルとリリャの間にあるから、並の夫婦より強い絆で結ばれた夫婦となるだろう。


 アリアドナは黙ったままだった。

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