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残雪  作者: ひめりんご
18/21

18話

 厳しい視線が残ったヴォルコフ家の者たちからリリャに注がれた。どうやらあまり歓迎されないらしい。


 「あの女性は? ユリアナ、ヴィクトーリヤ、お前たちの友達か?」


 ミハイルが困惑したように尋ねた。どうやら今、奥へと戻って行った女性はミハイルの妹ではないらしい。ミハイルとしては帰ってきたら知らない女が家族と混じって居たと言う状況だろう。何だかリリャは嫌な予感がした。


 「違うわ」


ヴィクトーリヤと呼ばれたふわふわした金髪の女が答えた。そこでミハイルの母親が咳払いをする。


 「ミハイル、あの人はマリヤ・アルトゥーロヴナ・レーシナさん。お前の婚約者よ」


その言葉にミハイルとリリャは固まった。そしてミハイルが絞り出すように「は?」と声を出した。


 「婚約者? どういうことですか」


 ミハイルの顔が険しくなる。額には血管が浮かび上がるほど怒っているようだ。どうやらミハイルは何も知らないらしい。


 「お前が戦場で死ぬかもしれないと思って結婚させてやろうと用意していた者です。でも、お前はそんなの知らぬとばかりに前線に行ってしまったではありませんか」


 ミハイルの母親は責めるような口調だ。


 「結婚の話、あれなら戦場に行く前に断ったでしょう。まさか勝手に用意したんですか。残念ですが、あー、マリヤさん? と私は結婚しません。彼女と結婚します」


 そう言ってミハイルはリリャの肩を抱き寄せた。それを見て声を上げたのはヴィクトーリヤだった。


 「じゃあ、お兄様を信じて待ってたマリヤさんのことはどうなるっていうの!?」


 憤慨したようにヴィクトーリヤはリリャを睨みつけた。まるでリリャがいなければ全て丸く収まるというように。ユリアナと呼ばれた金髪のをおさげにした女も口を開いた。


 「私、マリヤさんがお姉さんになって欲しかったわ…」


寂しそうにミハイルを非難がましくユリアナは見つめていた。


 「アルスカヤさん」


 ミハイルの母親が突如リリャを呼んだ。その声の厳しい雰囲気にリリャは「アレンスカヤです」と訂正する力を失ってしまった。


 「ミハイルにはマリヤさんという婚約者がいます。貴女はミハイルを諦めてください」


まるで裁判の判決を言い渡されたみたいだった。


 「何を勝手なことを! 誰と結婚するかは自分で決める。そもそも、今回こうして連れてきたのはあなた方への最大の誠意だ」


 リリャはミハイルがこれほどまで怒っているのはリリャがミハイルの下から這い出て狙撃兵を撃った時以来だと思った。


 「ヴォルコフ家の嫁に何処の馬の骨かもわからない娘は相応しくありません。貴方たちが勝手に結婚しようとしても私が役所に異議を申し立てます」


 ルフィーナ共和国の法律で結婚する際は役所に二人が結婚することが張り出される。「一週間以内に異議申し立てする者はいないか?」と。異議が申し立てられれば婚姻届は受理されず、申し立てがなければ無事結婚できる。

 ミハイルの顔には「こんなことになるならば、事後報告でよかった」と書いてあるかのようだった。


 そして、何処の馬の骨かもわからない娘と言われたことがリリャの心に鉛玉のように沈んでいた。確かにそうだと納得してしまった。今のイェレナ村はベルンシュタイン軍に略奪されたときのまま、復興の目処が立って居ない。


 村人全員が死んでしまったので、リリャの身元を証明してくれる人もいなかった。つまりミハイルの母親たちから見れば、イェレナ村出身と自称しているに過ぎないと取られてしまうかもしれなかった。


 ミハイルが奥歯を噛み締めた。その様子を冷たくミハイルの母親は見ていた。まるでリリャと結婚するならばお前は息子ではない、と言っているようで先程の愛に裏打ちされた態度が嘘かのようだ。


 「どうしてもというのなら、貴女…アルスカヤさん。貴女が本邸に来てマリヤさんと同じく花嫁修行なさい。私がどちらがヴォルコフ家の嫁に相応しいかを見極めてやりましょう」


 「…アレンスカヤ…です」


 この時になってようやくリリャは小声でだが名前を訂正することができた。ミハイルの母親の眉が少し吊り上がる。


 「相応しいなど貴女が決めることじゃない。……リリャ、認められようなんて、考えなくていいから。今日はもう帰ります」


 ミハイルがリリャの肩を抱いて、そのまま車に引き返そうとする。ヴィクトーリヤが「お兄様、もう帰っちゃうの!?」と驚いていた。リリャだけ追い出してあとは家族仲良く過ごす予定でも立てていたのだろうか。


 「わかりました。花嫁修行の件、お受けします」


 リリャは振り返るとまっすぐミハイルの母親を見つめた。負けず嫌いのようなものが出ていると感じた。このままだと邪魔が入って結婚が永遠にできないのならば、正々堂々戦って認めさせてやるという気持ちになる。


 「リリャ」


 ミハイルが止めようとしたが、リリャは止まらなかった。ミハイルの母親は獲物が罠にかかったように、ニヤリと口の端を吊り上げる。


 「ならばさっそく明日からこちらに来なさい。荷物を纏めてくるのですよ」


 住み込みで花嫁修行をさせることでリリャを麗しのワシリーサ(シンデレラ)のように、いじめ倒す気満々であることが丸見えであった。しかし、リリャは受けて立とうとミハイルの母親を見つめ返した。




******




 「どうしてあんなことを」


 別邸に帰る車の中でミハイルはリリャの行動に驚いていた。


 「だって、あのままじゃ私たちが勝手に結婚しようとするたびに邪魔されるでしょう? それに、私…腹が立ったの。だから受けて立とう! って」


 ミハイルは敵わないな…というようにため息を吐いた。


 「そういえば思ったより弱くなかったな」


 ミハイルは下水道で言った言葉を思い出したようだ。リリャはミハイルとは強い絆で結ばれていると感じていた。恋愛を超えた絆だ。それは狙撃兵のパートナー同士として、ともに命を預け合い戦場を駆け抜けたからこそのものだろう。


 この絆は誰にも超えられやしない。だってマリヤはミハイルのパートナーとして狙撃したこともない一般人だ。あの狙撃兵だけにわかる感覚などを一切共有していない。ミハイルの心がリリャよりマリヤに傾くことなどないと思っている。


 別邸に帰った後、リリャはオクサーナに手紙を書いた。今日の出来事を誰かに相談したくて堪らなかった。勢いで承諾してしまったが、ミハイルの母はマリヤを選ぶだろう。チャンスを与えるフリをしてこれはリリャにミハイルを諦めさせる作戦であるとわかっている。


 それを押し除けて認めさせてやるとリリャは決意した。言いつけ通り、次の日には荷物を纏めてリリャは本邸に移った。ミハイルは仕事があるため、住まいを本邸に移しても、日中はリリャの助けに入ることができなかった。

 ミハイルが何故、最初から本邸ではなく別邸にリリャを連れて行ったのかわかった気がする。マリヤの存在がなくとも戦場の花嫁を快く思わないだろう母親たちからリリャを守るためだったのだ。


 「逃げずに来たようね」


ミハイルの母親が玄関先でリリャを出迎えた。これが彼女なりの歓迎であるとリリャは解釈する。


 「よろしくお願いします」


 リリャが頭を下げると、ミハイルの母親はふんっと鼻を鳴らした。


 「付いてらっしゃい。家を案内しましょう。自己紹介がまだでしたわね、私はアリアドナ・ヴォルコヴァ。くれぐれもお義母様なんて呼ばないことね。家には、娘のユリアナとヴィクトーリヤがいます。ヴィクトーリヤが姉でユリアナが妹です。双子よ。似ていないけどね。……あとは、花嫁修行をしに来ているマリヤさんがいます」


アリアドナの言葉にはお前という異物を受け入れてやっているんだという感情が表れていた。


 「家政婦がいるからといって、家事をしなくていいなどと思わないでちょうだいね。荷物を置いたらまた居間に戻って来なさい。お客様扱いは期待しないこと」


 「もちろんです」


 アリアドナの後ろをついていくリリャをこそこと眺めている双子の姿が目に入った。ユリアナとヴィクトーリヤだ。狙撃兵や猟師の経験から何かの視線というものにリリャは敏感だった。二人は隠れているつもりだろうが、リリャには丸見えだ。


 与えられた部屋は、意地悪からだろう。屋敷で一番小さい部屋でリリャが来るためわざわざ物置を部屋に作り替えたらしい。陰気な壁に、小さい窓。物置にそのままベッドを置きましたという作りだ。


 酷い扱いにリリャが怒るなり悲しむなりして、逃げ出せばいいと考えたのだろう。その様子を見ようとユリアナとヴィクトーリヤがにやにやしながらリリャを眺めている。


 「何処の馬の骨かもわからぬ娘には、これくらいの部屋が丁度いいってお母様がおっしゃっていたわ」


ヴィクトーリヤが、さぁ悲しめ! というようにリリャを見つめてくる。ユリアナは部屋を見渡しため息を吐いていた。


 「いえ! ありがたいです。寝る場所を用意してくださって。断熱材の上で寝るより全然マシです!」


 自分だけの部屋を用意していてくれたことに関してリリャは嬉しかった。何処かの廊下の床で寝ることも覚悟していたくらいだ。それに屋敷で一番小さい部屋といってもリリャの実家の自分の部屋と比べてとても広かった。


 非情になりきれないのか、中央暖房が届かない物置にはストーブが置いてある。それだけでヴォルコフ家の人々が、根は優しい人たちなのだと感じさせた。


 「え…、あ…え…?」


 ヴィクトーリヤは思ったような反応が返ってこなかったので困惑したような表情をしている。ユリアナは無表情でリリャを見ていた。


 「早く荷物を開けたらどうかしら」


 ユリアナがリリャの持っている鞄を見ながら言った。ヴィクトーリヤは中から出てくる貧相な品々を見て馬鹿にしてやろうと目を輝かせていた。しかし中から出て来たのはリリャに贈られた個人用ライフルだったので二人は驚いたように固まった。


 「あの子、花嫁修行しに来たんじゃなくて私たちの頭を撃ち抜きに来たんじゃない?」


 ヴィクトーリヤがユリアナの耳に囁くのをリリャは聞いてしまった。ちょっとした意趣返しのようなものができて満足だ。リリャのような少女と狙撃銃は戦場に行ったことのない女たちからしてみれば歪に見えたことだろう。


 「そんな物騒なもの必要ないわ。捨ててしまいなさい」


ユリアナがリリャの腕の中にあるライフルを睨みつけた。リリャは自分の相棒を捨てるなんて信じられないことだった。


 「これは同志クロヴォプスコフの命令で私に贈られたものです。捨てるわけにはいきません」


 実際に最高指導者であるクロヴォプスコフに会ったことはない。しかしリリャに個人用ライフルを送ると決めたのは最高司令部──つまりクロヴォプスコフだ。クロヴォプスコフの名が出たことによりユリアナは何も言えなくなってしまっていた。


 「とにかく、早く荷解きしなさい」


 ユリアナはそれだけ言うと、ヴィクトーリヤを連れて部屋を去ってしまった。リリャはちょっと脅かし過ぎただろうかと反省していた。

 ユリアナとヴィクトーリヤは銃を見ただけで震え上がっていた。自分たちに使われるかもしれないと不安になったのだろう。これでリリャに対する態度が少しでも柔らかくなることを祈るばかりだ。

 本当は落ち着いたら、ミハイルと一緒に狩猟に出かけようと思っていたから持って来たのだが。


 荷解きを済ませて、リリャはアリアドナの元へ向かった。居間のソファでアリアドナは本を読みながら待っていた。そこにはレース編みをしているマリヤの姿もあった。マリヤはリリャの存在に気づくと、チラリとリリャを見たが視線を逸らしてしまった。


 「思ったより早かったわね。鈍間よりはマシだけれど」


 アリアドナが厳しい声で言った。アリアドナはリリャを爪先から頭のてっぺんまでまじまじと見た。ここでようやくリリャがどんな容姿をしているのか確認したようだ。

 そして視線はリリャの頭髪に長く留まった。ストレスで白髪になってしまったその頭をじっと見ている。


 「貴女にはまず皿洗いをしてもらうわ。熱湯で消毒してよく乾かすのよ。それから、床を磨いて庭木の手入れをして玄関のタイルを磨きなさい。窓も磨くのよ。あとそれから…」


 マリヤは優雅にレース編みをしているというのに、リリャには大量の仕事を押し付ける。これがアリアドナにとっていじめているつもりなのだろう。しかし、リリャはそんなことでは負けなかった。

  エカチェリーナの方がよっぽど厳しかったし、軍事訓練の方が辛かった。それを乗り越えて来たリリャにとって大量の家事や雑事を押し付けられようとも軽々こなせた。泥まみれになりながら砲撃を浴びるよりマシ。極寒の中火も起こせず糞尿は垂れ流して狙撃姿勢のままじっと待つよりマシ。


 全てが優しく思えて、リリャは楽しくなってきた。アリアドナたちはやはり根が上品で優しいからか、いじめるのが緩いのだ。こんなちょっとした意地悪にリリャが屈するはずもない。


 言われた通りに皿を洗い、床や窓を磨き、庭木の手入れまで素早くこなした。アリアドナはリリャが文句一つ言わずに黙々とこなして行ったことに驚いたように眉をぴくりと上げた。


 そして、アリアドナはリリャとマリヤにそれぞれ夕食のスープを作りなさいと言った。二人を競わせることでどちらがヴォルコフ家に相応しいのかを見るためのようだ。キッチンで初めてリリャはマリヤとまともに顔を合わせた。


 マリヤは黒髪に緑の目をした、おとなしそうな女だった。貞淑そうで、いかにも古臭い考えが服を着て歩いているようなアリアドナが気に入ると思った。アリアドナは自分に口答えしない者が好きなのだろう。


 キッチンで二人の間に会話はない。しかし静寂を打ち破るようにマリヤが口を開いた。


 「アレンスカヤさん…」


 「リリャでいいですよ。マリヤさん」


 「じゃあ、リリャさん。こんなこと言うのはおかしいでしょうが、ミハイルさんを諦めてくださいませんか? お義母様も、我がレーシナ家も相応の誠意を出します」


 その誠意とやらがお金であることがリリャにはわかった。リリャはお金でミハイルを諦めると思われていることに怒りが湧いて来た。マリヤにとってもヴォルコフ家にとってもリリャの方が邪魔者であるとわかっていた。


 「貴女にも事情があることはわかってます。でも、私はミハイルを諦めることは出来ません」


 リリャははっきりとそう言い放った。アリアドナはヴォルコフ家を誇りに思っている。ならばミハイルの妻にと用意した女性も、それなりに社会的地位がある家を選ぶだろう。家同士の繋がりを重視した結婚であり、当人同士の意思は介在しない。


 「わたしはずっと彼を待っていた。なのに貴女が妻ですって!? ふざけないでよ。ねぇ、諦めて。諦めて諦めて諦めて諦めて諦めて!!」


 マリヤは突然狂ったようにリリャの肩を掴んだ。しかし、ただの非力な女性と元軍人のリリャでは力の差があり過ぎた。マリヤはリリャの肩を掴んだはいいが、リリャがびくともしないことに気づいただろう。


 「お金だって払うって言ってるじゃない! わたしはどうしてもヴォルコフ家の妻にならなきゃいけないの」


 その時リリャは、ミハイルの妻ではなくヴォルコフ家の妻と言ったことに引っかかった。つまり、ミハイルの存在自体見えておらず、ただ家名と妻の座しか見えていないのだ。リリャはミハイルを個として認識せず、勲章やトロフィーのように扱うマリヤの態度に怒りが湧いて来ていた。


 「私は貴女が待っている間、彼のそばにいました。彼を知って愛すまでになりました。ミハイルを道具としてしか見てない貴女より、わたしはよっぽど()()()()に相応しい。ヴォルコフ家に相応しいかどうかしか考えない貴女とは違って」

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