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残雪  作者: ひめりんご
17/21

17話

 後ろからミハイルが追いかけて来てくれた。ミハイルは困惑したように外套を着ているリリャを見つめている。


 「どうしたんだ、急に」


 ミハイルの姿を見たら、リリャは子供のように泣き出してしまった。


 「ミハイル、当たる…当たる音が、砲撃が…」


 リリャが嗚咽と共に言った言葉でミハイルは察したようだ。静かに抱きしめて「寒いから中に入ろう」と言った。彼は寝衣姿のままだった。リリャを慌てて追いかけて来てくれたことが伺えた。


 「リリャ、落ち着け。戦争はもう終わった」


 ミハイルの穏やかな声と抱きしめられた温もりがリリャを冷静にさせた。すこし、自分はおかしかったのかも知れない。子供達の幻聴が聞こえなくなったかと思えば、今度は砲撃の音が聞こえるようになってしまった。

 戦時中ではないというのに、今にも戦いが始まっている気がした。銃声が聞こえて、機関銃のつんざくような音がする。


 その日はミハイルの腕の中で眠ったのに数十分眠りにつけたかとおもえば、また飛び起きてミハイルが死んでいないか確かめたり、また砲撃や銃撃の音で部屋を飛び出そうとしたりを繰り返した。その度、ミハイルは怒りもせずに優しく戦争は終わったと言い続けた。


 二人とも寝不足で朝を迎えた。


 「ごめんなさい。別々に眠った方がいいかも」 


 リリャはミハイルの目の下にできた隈を見ながら申し訳なくなった。ミハイルは笑って首を振る。少し無理して笑ったように見えた。


 「外に飛び出そうとする妻を放っておけないだろう。楽しいことを考えよう。誕生日を迎えたらすぐにでも役所で結婚の手続きをしようか」


 先のことを考えるのは、オクサーナと話したあの時以来だった。もう戦争は終わったのだから、いつ死ぬかわからない状態で日々を過ごすこともなく、未来に目を向けてもいい。その感覚がリリャにはまだ慣れなかった。

 それでも、結婚という言葉に心躍る。温かい何かが胸の辺りに広がった。これからは人を殺すことに意識を向けなくていいんだということが嬉しかった。


 スコアばかり数えていた日々。食事だって胃に詰め込めれば何でもいいというように簡素に済ませていた。それがじっくり手のかかったスープと柔らかいパンを食べた。風呂に入った。そう言った当たり前の日常を生きるということを意識したことがなかった。


 戦前にもそういった暮らしをしていたはずだが、まるで忘れてしまっていた。一つ一つの日常の動作を思い出さねばならなかった。

 銃の扱いは手に馴染んでいるのに、三つ編みができなくなっていたりした。髪が長くなったこと自体が久しぶりなので、伸びた長い髪をリリャは持て余した。結局、戦争が終わっても白髪が金髪に戻ることはなかった。


 スカートを履くのも慣れなかった。足元がスースーと冷たいし、何より足が絡れる感覚がある。男兵士に合わせて大股になっていたのを矯正するには時間がかかりそうだ。スカートだと歩き方一つで不恰好になってしまう。そういった女性らしさを取り戻すのも戸惑うことばかりだった。


 二人で茹でたソーセージにマスタードをつけたものと缶詰のグリンピースとパン、ジャムを舐めながら紅茶を飲むという簡素な朝食を済ませる。今までの軍隊飯に近い朝食だった。ミハイルは一通り何でもできるとルドルフに言ったが、もしかしたら家庭料理などは作れず、こうした缶詰などを使用した簡素な飯を料理と呼ぶのかもしれない。


 リリャは故郷で、一通りの家事を母アンナから教えられていたことに感謝した。しかし、家事をするより狩りに行っていた方が多かった気がする。家に息子はいなかったから、代わりにリリャが父について行って狩りをしていたから。

 リリャも全ての家事を完璧にこなせるかと問わればれ、首を横に振るだろう。それでも、これから少しでもミハイルの支えになれることが嬉しかった。


 ミハイルは紅茶の淹れ方だけはとても上手だった。ルフィーナ共和国での紅茶の淹れ方といえば、ティーポットで濃く煮出し、カップの半分まで注ぐ。湯沸かし器で熱湯を注ぎながら味を調整するのだ。しかし煮出し方が悪いのか、お湯の調整の仕方が悪いのか、リリャが紅茶を淹れてもミハイルと同じようにはならなかった。


 紅茶だけはミハイルに任せてもいいかもしれない…そう思いながら皿を二人で洗っていたが、ミハイルは皿を数枚割るという失態を犯しリリャはミハイルにやんわりとキッチンから追い出すしかなかった。


 高そうな皿を割っていたが、あまりミハイルは気にした様子を見せない。彼の感覚からすれば、大したことないのかもしれない。その感覚の違いを埋めていくには時間がかかるだろうなとリリャは思った。


 戦場での結婚はお互いに兵士としての姿しか知らないままに結婚した。しかしリリャは兵士以外の姿のミハイルに失望したりはしなかった。むしろ、違う一面を見せてくれるたびに嬉しかった。戦時中の姿はやはり彼の一部に過ぎず、まだまだ知らない彼の一面に出会えるのが楽しみになっていた。


 ミハイルは正式に結婚して、生活が落ち着き世間の勝利ムードも落ち着いたらバレエ・アカデミーはまた再開するだろうから通ってもいいと言ってくれた。学費はリリャの退役軍人の年金で十分足りる。


 その日はミハイルは屋根裏の掃除に取り掛かり、リリャはキッチンで小麦粉と卵を牛乳で練った生地に牛のひき肉と野菜を包んだものを大量生産し、冷凍しておくことにした。食べる時に茹でればいいだけなので、ミハイルが一人の時にも食べられるだろう。リリャはミハイルが缶詰のコーンと共に食べる未来が見えたような気がした。昼食は栄養のあるものを作ろうとリリャは決意した。「ミハイルの健康は私が守る」と。


 戦時中は嫌でも缶詰の肉やら乾燥野菜ばかりだったのでもう缶詰はうんざりだ。ミハイルは缶詰のコーンやグリンピースで野菜を摂った気になっているのだろうか。

 良くも悪くも田舎でキャベツなどの野菜たっぷりのスープや雑穀粥を食べて育ったリリャには缶詰で簡素に済ませる食事は軍隊で十分味わったのでしばらくは食べたくない。


 昼食は豪華に、夕食は簡単に済ますというのがルフィーナ共和国では一般的だ。リリャもそれに倣って昼食を豪華にといきたかったが、戦後の今ルフィーナ共和国は食料不足に悩まされていた。リリャたちは軍人だった──しかも英雄と言われるほど活躍したので、恩給によりそれなりの暮らしができたが、世間では肉の供給不足に陥っていた。


 政府は肉に代わるタンパク源として魚に着目し、池では淡水魚の養殖が行われていた。木曜日を「魚の日」として制度化する動きもあるらしい。──ということで魚をメインにすることに決めた。


 白魚と野菜のスープ、刻んだニシンの身を茹でたジャガイモ、ニンジン、ビート、玉葱をマヨネーズので包み、りんごをすりおろしたサラダとタラのフライ。

 栄養価の高い食品が不足していたルフィーナ共和国ではマヨネーズはカロリーと脂質の貴重な源で、さらにマヨネーズをかければどんな食品もおいしくなると信じられていた時代を生きているリリャは後の世ではマヨネーズは健康的ではないと言われるのをまだ知らない。


 デザートにはラム酒入りのケーキを焼いた。食後の紅茶はミハイルに淹れてもらった方が良いとリリャは判断し、食事を大きな食堂のテーブルに盛りつけた。我ながら自信作ばかりだったし、何よりキッチンで料理をするという事自体が久しぶりだった。


 「楽しくて、ついつい作りすぎちゃった。二人で食べ切れる…かな…?」


 マヨネーズのサラダは残ったら冷蔵庫に入れればいいだろうとリリャは考えた。マヨネーズの味が染み込み、明日にはもっと美味しくなっているはずである。


 リリャは食卓を満足げに眺めた。一時は馬と同じものを食べるほどに飢えていた自分を思い出して、こんなにも大量に作ってしまったのかもしれない。


 ミハイルが屋根裏部屋から降りてきた。食卓を見て「いっぱい作ったな」と驚いている。しかし、食べ始めてみれば軍隊での過酷な生活を送り胃袋が大きくなったからか二人とも全て平らげてしまった。


 食後のデザートと紅茶を楽しみながら、午後の予定について話し合った。


 「退院して日も浅いから無理しなくていいが、午後から本邸に行ってリリャ、君を紹介しようと思っている」


 「ミハイルの家族に会うのね…」


 不安もあったが、楽しみであるのも事実でリリャはつい目を輝かせてしまった。ミハイルの家族がどんな人たちなのか興味があった。

 

 昼食を終えると、リリャは身支度を開始した。しかし服なんて大したものを持っていなかった。今までずっと軍服でこと足りていたので私服を全然持っていなかった。ミハイルが「デパートに寄って服でも買えばいい」と言ったので本邸に寄る前にデパートに向かうことにした。


 「年頃の女の子の好みはわからないから自分で選ぶといい」


 そう言ってミハイルは財布と荷物係に専念すると言った。リリャは大きなデパートに来ることも初めてで、全てがキラキラして見えた。ずっとミハイルにくっついて「あれは何? これは何?」と完全におのぼりさんになってしまった。


 「今まで支給品ばかりだったから、何がいいのかわからない」


 一通り見て回ったが、リリャはわからなくなっていた。ミハイルの家族に挨拶しにいく時の格好がどんなものが良いのかを。

 その時、真っ白なものが目に飛び込んできた。コートがよく磨かれたウインドウにたたずんでいた。形がオクサーナと共に作ったガーゼのウェディングドレスに似ている。ミハイルも同じように思ったのかリリャと同じようにそのコートに釘付けだった。


 品の良い生地で仕立てられ、同じ生地のケープがついていた。二列に並んだ金色のボタンは精巧な造りである。


 「綺麗…」


 思わずリリャは呟いていた。


 「…買うか」


ミハイルがすぐさま財布を出そうとするのでリリャは必死に止めた。しかし、ミハイルは店に入って「ここで一式揃えるか」などと言う。


 「ミハイル、ここ高いお店じゃない?」


 リリャが小声でミハイルに尋ねると、ミハイルは「高い…?」と困惑したような表情をした。どうやらミハイルの感覚では高くないらしい。リリャも恩給で金はあったが、それでも手に取るのを躊躇うほどの値段だった。ただの田舎娘に、高級店は似合わない。


 「リリャに似合うと思ったんだが。私から贈らせてくれ」


 「ミハイル、貴方からはもう十分すぎるくらい貰っているから」


 花束も花瓶に生けてあるし、バレエ・シューズは大事にしまっている。あれだけで、リリャはもう十分すぎるくらいに満たされていた。これ以上、何か貰おうものなら罰が与えられるような気がした。


 「リリャ…私から贈り物をするという楽しみを奪わないでくれ」

 

 愛おしそうにリリャの頭を撫でて、ミハイルはコートを始めワンピースや靴などを購入してしまった。ひぇっとリリャが悲鳴を上げるような値段だったが、ミハイルは特に気にしていなかった。


 「リリャ、君は祖国を守った英雄の一人だ。少しくらい贅沢しても、誰も責めはしない」


 確かに英雄メダルは貰ったが、リリャはミハイルのように名実共に英雄になったわけではない。スコアだってミハイルに比べたら微々たるものだ。

 そんなリリャの思いにミハイルは気づいたのだろう。


 「リリャ。君は私のパートナーとしてよく戦った。私が折れなかったのはリリャの存在が大きい。国から英雄と言われる私が言うんだ。間違いない」


 ミハイルは微笑んでリリャを見つめた。


 「一人の兵士として、貴方と組めたことは光栄だわ」


 狙撃兵としてその腕に惚れ、人としてミハイルに惚れた。そうなのだと、今確かに思った。狙撃兵として、人として尊敬している。その人に、褒められたら嬉しくないはずはなかった。

 結局、「着ないなら捨てる」とミハイルに丸め込まれ…脅されとも言うがミハイルから贈られた衣服を身にまといリリャはヴォルコフの本邸へと訪れていた。


 ヴォルコフの本邸は別邸にも負けず劣らず壮麗で広大な庭園があった。ジーと音が鳴る、きっと後から取り付けられた呼び鈴を鳴らしてリリャは唾を飲み込んだ。隣にいるミハイルも緊張しているように見える。


 出てきたのは黒いワンピースを着た女性が出てきた。リリャは握手を求めそうになったが、これがミハイルの家族ではなくルドルフのように使用人である可能性があった。その予想は当たった。


 「まあ!坊ちゃん」

 

 家政婦の女は口元を手で覆って涙を滲ませた。


 「お帰りになられたのですね! 別邸に行かれたと聞いたものですから、もうこちらには顔を出さないものかと思っておりましたわ」


 家政婦の女は心配の裏返しのように皮肉げにそう言った。「奥様! お嬢様! ミハイル坊ちゃんが来られました」と家政婦の女は嬉々として奥へ声をかけている。ばたばたと慌てているような足音がして、四人の女性が出てきた。白髪混じりの金髪を後ろで引っ詰めにしているのがミハイルの母親で、後の三人がミハイルの言っていた妹たちだろうとリリャは思った。


 「ミハイル、この馬鹿息子! すぐに顔を見せなさい」


母親の目にも涙が浮かび、その鋭い怒りの声はミハイルへの愛で裏打ちされていた。しかし、ミハイルの視線は困惑したように妹のうちの一人に向けられている。


 「すぐに顔を見せなかったのは悪かった。ただ、彼女──リリャが、退院したばかりだったから」


 リリャを紹介するように、ミハイルがリリャの背を押した。リリャは一歩前に踏み出した。


 「リリャ・イーゴレヴナ・アレンスカヤです」


 頭を下げると視線が突き刺さるようだった。今、全員の視線がリリャに注がれている。


 「彼女は私の妻──いや、正確には妻になる人かな。とにかく紹介だけしようと…」


 ミハイルがそう言いかけた時、ミハイルの妹と思われる黒髪の女が口元を抑えて崩れ落ちたかと思うと素早く奥へと駆けて行ってしまった。

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