16話
「戦争が終わったら結婚しよう、だなんてのはなぁ! 死ぬやつがいう言葉だミハイル。俺は何人もそういう奴を見てきた。結婚するなら、今だ! 今やれ」
フェドートはガハハと豪快に笑った。いつから来ていたのだろうかとリリャは思った。できれば「結婚しよう」と言ったところからにしてくれと願った。指を噛まれているところなど見られたくなかった。二人だけの秘密にしておきたい。
フェドートは酒を飲んだのかというくらい上機嫌だった。フェドートの声が大きいので、皆が結婚という言葉を聞いてしまった。部屋に無理矢理戻され、囲まれる。
「なんだ、なんだ」
「結婚するのか、おめでとう」
フィリップ・クーナウと少女兵を討ち取ったお祭りムードに加え結婚のお祝いムードになり、余計に盛り上がってしまった。拍手が湧き起こる。
「お前らいつのまに結婚なんて話まで行ったんだ? 俺に相談してくれてもよかったじゃないかミハイル」
イヴァンが拗ねたように「寂しいぞ」と口を尖らせた。誰かがチューしろ!と囃し立てる。
「それで、返事は」
ミハイルがリリャに囁いた。耳がぞわぞわと変な感覚に陥り、顔が赤くなった。オクサーナがそれを見てにやにやしている。
「私、貴方とこれからも一緒なのが嬉しい。もちろん!」
そう言い終わる前に、リリャはミハイルに抱き上げられていた。周りから歓声が湧く。しかしリリャその周りの熱に浮かされず、逆に体が冷えていくのを感じた。リリャは年齢を詐称している。結婚できる十六歳にもうすぐ届く。しかし、書類上は十八になるところだった。
不安そうにミハイルを見つめ返した。
「正式に結婚するのは役所もないから無理だ。隊長は形だけでもここで式を挙げろということだろう。もちろん、正式な結婚は待つさ」
君が大人になるまで、とリリャだけに聞こえる声でミハイルは付け足した。さっそく近いの言葉でも述べさせようとするフェドートを遮ったのはオクサーナだった。
「隊長は分かってない。いくら正式な結婚じゃないとしても女の子はしっかりやりたいものなの。準備もあるし。ね?」
オクサーナはリリャにウインクした。リリャよりオクサーナの方が張り切ってしまっているようだ。オクサーナは鞄の中を漁って、ガーゼの束を見せつけた。補給物資に入っていたものだとすぐに分かった。
「ね、これで花嫁衣裳ができると思わない?」
やるならしっかりやらないとね、とオクサーナは嬉しそうだった。包帯用じゃないかとリリャは心配になったが、オクサーナは「あんたが使った後に再利用するから大丈夫」と笑った。それから一晩かけて衣装を縫い上げた。
軍靴に白い花嫁衣裳というチグハグな格好だったがリリャは自分が人生の中で一番美しいものを纏っているという気がしていた。胸には今までもらった勲章を身につけた。いかにも軍人の花嫁といった格好だ。
「ああ、白粉やハイヒールもあれば貸してあげたのに。全部送り返しちゃったのが悔やまれるわ…」
オクサーナが嘆いた。リリャは「これで満足よ」と笑う。オクサーナがブライズメイド風に付き添って皆が待つ居間に入った。皆が笑って拍手をしながら迎えてくれた。口笛を吹くものもいる。
ミハイルが中央で待っていて、リリャを見ると微笑んで手を差し出した。その手を取る。人生で幸福と感じる日がまた来るとは、復讐を誓ったあの日からは思いもよらなかった。
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リードグラードの戦いが終わるまで部隊はアパートを守り切ることに成功した。指揮をとったフェドートの名にちなみ、アパートは「ロバーチョフ・アパート」という通称が付けられた。
リリャは船の中のベッドで揺られながらリードグラードを後にした。リード川を上って首都フィーナまで向かう。故郷で眠れたアレクセイはともかく、ヴェニアミンの死体を燃やして行くのは躊躇われた。それでもせっかく勝利を収めた土地に疫病を蔓延させることもできず、遺灰を共同墓地に埋めた。
首都フィーナの病院でリリャはしばらく入院した。リリャの左手は少女兵からの狙撃でしばらく使い物にならなかったが奇跡的な回復力を見せ、いまでは何ら支障なく使えるようになった。しかし、リリャがその回復している間に戦争は終わってしまっていた。オクサーナ曰く「これでよかったんだよ」とのことだ。
ベルンシュタインの首都を攻め落としたルフィーナ軍はベルンシュタイン軍最高司令官を殺害したと発表した。その最高司令官暗殺にはリリャが抜けた悪竜が関わっているとオクサーナから聞いた。
戦争が終わって悪竜は解体されたが、はい解散!と復員できたわけではなく膨大な戦後処理にミハイルたちは追われなければならなかった。フェドートは「この仕事が終わったら軍なんかやめて家族とゆっくり過ごす!」と何度も愚痴を言い、それがいつの間にか口癖になったようだ。
そんなわけで皆忙しくしていたため、リリャの見舞いに訪れる人はオクサーナ以外いなかった。しかし必ず定期的にミハイルから手紙が来たし、イヴァンからもお見舞いカードが届いた。フェドートは家族のもとに帰る暇もないのだ。彼からは何もなかったことは何も言うまい。
入院した当初はリリャは退院したらどうすれば良いのか不安だった。書類上在籍している孤児院にいくことになるのかと思ったが、そこはミハイルがヴォルコフ家の別邸に置いてくれるよう手配してくれた。別邸を持っている人がいるなんてリリャは初めて見た。しかも自分の夫である。
本邸にはミハイルの母や妹たちが住んでいて、またいずれ紹介すると言われた。ミハイルの手紙が入院中のリリャの心の支えだった。
退院の日はミハイルが車で迎えに来てくれた。手には薔薇の花束とリボンがついた可愛らしい箱を持っている。
「退院おめでとう」
そう言ってミハイルが差し出した箱と花束を受け取る。箱を開けると中にはバレエシューズが入っていた。メッセージカード付きで「貴女の支援者より」と書かれている。
「ミハイル、これって…」
リリャは箱から顔を上げてミハイルを見た。リリャが戦後にバレエを始めたいと言ったのはオクサーナだけだったはずだ。しかしミハイルはアレクセイとのキス騒動のとき、「また寝付けなくて、悪いが聞こえてしまった」と言っていた。その時は疑問に思わなかったが、ミハイルが寝付けなかったことが複数回あることを示していた。
ミハイルはリリャとオクサーナが戦争が終わったら何がしたいのかと言う話を聞いていたのだ。
「ありがとう。とても嬉しい。でも…聞いていたの?」
「盗み聞きしてしまったことは悪かった。でもあの時は全員起きてたと思うよ」
全員が起きていたことにリリャは驚きを隠せなかった。完全にオクサーナと二人きりの話だと思っていたから。リリャは花束とバレエシューズを抱きしめた。最高の贈り物だと思った。しかし、こんなに嬉しい場面であるのに、リリャはミハイルに何も返せていないという気持ちがあった。
戦争が終わった時点で89人を狙撃で倒していたリリャには英雄メダルが授与され、退役軍人の年金もあったが帰る場所がなかった。そんな時にミハイルが「仮にも結婚したのに、面倒を見ずに放り出す奴がいるか」とリリャの身元を引き受けてくれることになったのだ。
ミハイルが車の助手席の扉を開けてくれる。リリャは明らかな高級車の登場に緊張した。故郷のイェレナ村ではせいぜい農耕用のトラクターを見るくらいでリリャは軍用車以外にまともに車に乗ったことがなかった。
その緊張がミハイルに伝わらないようにリリャは気をつけた。ミハイルは当たり前に車に乗っている。馬の方が主流だった田舎出身だと知られたら、呆れられてしまうだろうか。
助手席に乗り込むと、ミハイルが運転席に座りエンジンをかけ始めた。エンジンの振動に体を揺らされながら、病院の敷地を後にする。リリャはずっと病院にいたので知らなかったが、勝利により街はパレードが行われるかのように飾り付けられ、人々が口々に勝利を謳っていた。
その勝利の瞬間を病院で過ごしていたリリャは未だ戦争が終わったという実感が湧かなかった。すぐにでも街中で銃撃戦が始まるような気がする。砲弾が飛んでくるような気がする。血の臭いがする気がする。
リリャはまだ心を戦場においてきたままのように感じた。今来ているスカートがスースーするのが慣れない。ずっと軍服のズボンだったから。そして入院中に伸びた長い髪にまだ慣れない。髪を伸ばしてもいいのだという状況にまだ追いついていなかった。
病院から直接、ミハイルの家──正確には別邸に向かうのかと思われたが、着いたのは首都のホテルだった。ミハイルに案内されるがままに着いて行き、とある一室に入った。その中にはエカチェリーナが待っていた。
軍服を纏い、鋭い眼光で壁に飾られた絵画を睨みつけていたがリリャが来るとその鋭さが和らいだ。きっと彼女なりに絵画を鑑賞していたのだろう。
「教官、お久しぶりです」
リリャは戸惑いながらも敬礼した。ミハイルとエカチェリーナの顔を交互に見る。ミハイルはエカチェリーナに会わせてくれようとしていたのだと気づいた。
「退院おめでとう、アレンスカヤ。私からヴォルコフ少佐にお前に会えないか頼んでいたんだ」
ミハイルは戦争が終わる頃に階級をまた上げた。それは英雄として持ち上げられた彼を相応しい階級に引き上げようという上層部の狙いがあったのだろう。
「私の教え子たちの中で生きて帰って来てくれたのは、お前だけだ」
エカチェリーナの目には涙が浮かんでいた。この人が泣いているところをリリャは初めて見た。そして、アレクセイや他の訓練学校の同級生たちの顔が浮かんで、リリャもつられて泣いてしまった。そうか、全員戻っては来られなかったのか。
リリャはエカチェリーナの肩を借りて泣いた。エカチェリーナも静かに泣いていた。ミハイルは何も言わずにそっとしておいてくれた。
「生き残ってくれてありがとう」
エカチェリーナはどんな気持ちでこの言葉を言ったのだろうか。どんな気持ちで教え子たちを戦場に送り出していたのだろうか。エカチェリーナ自身も銀星勲章を授けられ、女性初の英雄メダルを貰った人物だ。しかし、戦争英雄として持て囃されているミハイルとは違ってエカチェリーナの名は新聞にもラジオにもどこにも見当たらない。
それどころか、今回の戦争の主役は勇猛果敢に戦った男性兵士と家を守った献身的な女性たちに置き換わり、女性兵士の活躍は全く無いものになってしまった。リリャの退役軍人の年金が階級に見合わず多かったのは特殊部隊である悪竜にいたことも理由だろうが、英雄メダルと金で黙らされたような気がしていた。
エカチェリーナと別れ、リリャたちは今度こそヴォルコフ家の別邸へと向かった。別邸は歴史ある貴族の屋敷を革命時の功績から下賜されたものらしく、荘厳な雰囲気がある。中世に置き去りにされたままのような屋敷のガレージに最新型の高級車が止まる様子はチグハグに見えた。
重厚な玄関扉が一人でに開いたかのように見えた。しかし、一人の男性が開けたものだった。男性は清潔なシャツとズボンを履いていて、リリャはミハイルの家族のうちの誰かかと思った。
「旦那様、一応掃除はしておきましたよ。ただ屋根裏部屋だけまだです。滅多に使いませんから、後回しでもいいかと」
旦那様、と頭を下げるので初老の男がミハイルの家族ではなくただの使用人であると気づいた。使用人を置く家庭をリリャは初めて見た。
「ありがとう、ルドルフ」
ミハイルは礼を言いながらも、ルドルフの視線がリリャに移ったのに気がついたようだ。「こちらのお嬢様が…」とルドルフはしげしげとリリャを眺めた。
「くれぐれも母には秘密にしてくれ。こちらから報告するから」
「旦那様が女性を連れてくるとは…。長生きはするものですなぁ」
ルドルフは白髪混じりの顎髭を撫でながら、穏やかに笑う。そして滑らかに「お荷物お持ちしますよ」とリリャから鞄を取り上げた。思いの外、軽かったことに驚いているらしい。しかし中には解体されたリリャに贈られた個人用ライフルが入っている。それ以外は何もないのと同じだった。
相棒のようになった銃を戦後も手放すことができなかった。イヴァンも自分の銃を「花嫁」と称して大切に扱っている。これは自分より先に結婚してしまったミハイルに対抗したのだろうが少し虚しい。それでも狙撃兵にとって銃とは、相棒であり花嫁であるとリリャは強く感じている。リリャがまず家に着いたらすることはライフルを組み立てることだ。
中に通されると大理石の床と教会のような荘厳なステンドグラスが出迎えた。調度品は少し不気味さを感じさせた。しかしどこもピカピカに磨き上げられており、ルドルフの執念を感じさせる。
中央暖房が稼働している室内は、熱が篭っていた。まだ残雪が残る春の道を通って来たリリャたちにとって暖房はありがたいものだった。体がほぐれつつも、まだ固い。なぜならこんな時期の春はまた敵が攻めてくるような気がしてならなかった。
「鍋にスープがあるので温めて食べてください。本当に私がいなくて大丈夫ですかい旦那様」
ルドルフはスープの話の後、声を落とした。ミハイルは子供扱いするなというように顔を顰める。
「軍で暮らして来たんだ。一通り何でもできる」
「そうですか。ならお二人でゆっくりお過ごしください」
ルドルフは鍵をミハイルに預けると頭を下げて「ミハイル坊ちゃんをよろしくお願いします」と何度もリリャに行ってから帰って行った。ルドルフは住み込みの使用人ではなく、近くに住んでいて通いでこの屋敷を管理していたようだ。
ミハイルの話ではこのヴォルコフの別邸はしばらく人が使っていなかったようだが、どこにも埃の一つも見つからなかった。居間の窓から見える風光明媚な庭園は粉雪が白粉のように軽く積もっていた。
午後はミハイルが屋敷の部屋を案内してくれるのに全て費やしてしまった。夕食はルドルフが用意してくれていたキャベツとにんじんと玉ねぎ、トマト、ビーツ、牛肉を煮込んだ酸味のあるスープだ。そして白パンである。
あのときオクサーナとの話を聞いていたミハイルはリリャたちが硬いパンにうんざりしていることを知って、柔らかい白パンを用意するようルドルフに強く言っていたらしい。
広い食堂には金糸で狼が縫われたタペストリーが目立つように掛けられていた。ミハイル曰く、ここが「ヴォルコフ家」だかららしい。ミハイルの先祖で革命時の英雄ドミートリィは実は特権階級である貴族出身であったのだが、自身の立場に疑問を持ち革命軍に加わった人物だ。
その貴族の名を捨て、平凡なヴォルコフという狼に由来を持つ名を名乗り始めた時に記念に作られ、家紋ともなったのがこのタペストリーらしい。
夕食を食べ終わったあとは蒸し風呂に入って疲れを癒した。桶でかまどに水を掛けて蒸気を出し、白樺や樫の葉を束ねたほうきで体を叩く。
夜、寝る時になってリリャはようやくミハイルと二人きりであると言う事実を噛み締めた。愛しい人と巨大なベッドで二人だけで眠るのだ。眠りに落ちる時、遠くから砲撃の音がしてリリャは飛び起きた。すぐに靴を履いて、外套を引っ掴んで外に出た。
しかし外には夜の静寂が広がっているだけで銃声一つしていなかった。