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残雪  作者: ひめりんご
15/21

15話

 あの人は少し苦い煙草の匂いがする。


 エリーゼ


 あの人がそう呼んでくれるのが好き。エリーゼという名前は意識が混濁して白い靄の中を彷徨っていた時につけてくれた。白い靄の中から掬い上げてくれた神様だった。


 あの人──フィリップ・クーナウ少佐はエリーゼに自ら狙撃を教えてくれた。そしてエリーゼは劣等人種ルフィーナ人を皆殺しにする力を手に入れた。フィリップの命令を受けるのが好きだった。あの人に武器同然に扱われるのが好きだった。

 たとえ自分が成果を上げて、フィリップの手柄になろうとも、エリーゼはフィリップのものなのだからそれでいい。


 時々、エリーゼは檻の中に入っている夢をみる。酷く空腹で頭が痛くて吐き気がする。腐敗臭のような異臭が鼻につく。そんな夢を見てうなされているとき、フィリップは気まぐれに頭を撫でてくれる。エリーゼにとってはそれが全てだ。


 たとえ、虫ケラ同然に扱われても。あの人には奥さんがいてエリーゼの想いに応えてくれなくとも。エリーゼにとっては救い出してくれたフィリップが大好きだった。


 殺した人間の顔なんて覚えない。覚えたところで何になる。罪悪感が募るだけだとフィリップは言った。だからそれに倣ってエリーゼも顔を顔としてではなく的として見るようにしていた。しかし、この戦争で初めて自分と同じ少女狙撃兵を見た時、エリーゼは動揺した。


 顔を的として見るという鉄則も破られた。白い髪をしていたが、間違いなく少女だ。隣にいるのはベルンシュタイン兵の中で死神と恐れられるミハイル・ヴォルコフ。なるほど、とエリーゼは思った。お互い、最高の狙撃手に仕えるもの同士共鳴しあった。きっと相手も同じことだろう。


 そうすれば彼女が嫌がることは何だ? 邪悪な獣のようにエリーゼは舌舐めずりをする。自分の神様を失うことの方がよっぽど怖いはずだ。嫌がらせをしてやろうとエリーゼは笑った。


 残念だが、この世に最高の狙撃手はフィリップ・クーナウだけでいい。ミハイル・ヴォルコフなんて要らない。何故か怒りが湧き上がった。知らない声がエリーゼを支配する。


 私は祖国に帰れなかったのに!


 こうして戦っているのに!


 どうして、お前は!


 スコープの中に映る少女狙撃兵が憎かった。何故か憎しみが溢れてくる。苦しめばいい。自分ではなく師事した人が撃たれるという絶望に身を委ねろ。エリーゼの中から呪詛が溢れ出す。


 頭が痛かった。それが狙いがずれた原因か、ミハイル・ヴォルコフを狙撃では殺せなかった。しかし崩落するアパートを見ながら、エリーゼは死んでいてくれと願った。肩の痛みが鈍く続く。


 また知らない声がした。成功作の私は、怪我なんてすぐ治る。


 弾が貫通した肩は、もう塞がり始めていた。その様子を見てフィリップは「相変わらず気持ち悪い化け物だよ、お前は」と呟く。それでも良かった。彼が言葉をかけてくれたなら、エリーゼはその喜びを抱えてまだ戦えるのだから。



 

******




 「カチャノフ准尉!…ヴェニアミン!!」


 名前を呼んで見たが返事はなかった。リリャの体を押し潰すように重く、冷たい。支援部隊の兵士たちが駆けつけて、ヴェニアミンの体を運んでくれたがオクサーナが見た時にはもう、息を引き取っていた。


 こんなにもあっさり死んでしまうなんて、彼らしくなかった。もっとしぶとく生き残るだろうと思っていたのに。遺体はアレクセイの横に並べられた。


 外では市民関係なく攻撃が始まっていた。このアパートにいる兵士たちが投降などしないという意思を示したのだ。リリャはふと、あの処刑されそうになっていた少女は助かったのだろうかと思った。ヴェニアミンが最後に助けようとした少女。


 しかし広場は屍の山と化していて生きている少女を見つけることはできなかった。


 また一人、悪竜ズメイの隊員が減った。リリャは回復したミハイルとのペアに戻され、狩にでる日々が続いた。あの日から狙撃手を多く殺したが、少女兵とフィリップ・クーナウに出会うことはなかった。撃ち合った仲とでもいうべきか、リリャは少女兵に強い感情を抱いていた。殺してやりたいという強い思い。


 復讐と同じくらい、そしてあの少女兵とフィリップ・クーナウを倒せれば復讐に一区切りつけられるような気がしていた。リリャが求めていたのは復讐の明確な相手。全ての恨みが少女兵とフィリップ・クーナウに向かっていた。


 新聞でもラジオでもミハイルの英雄の偶像が一人歩きしていた。仲間たちからも神格化される様子にミハイルは辟易しているようだった。それでも士気が上がるならばと我慢している。


 その日は廃墟となったデパートに身を顰めた。壊れたマネキンにヘルメットを被せダミーを複数作る。こんなものに引っかかってくれるかはわからないが、それでもダミーを作れば心にゆとりができた。

 廃デパートからベルンシュタインが占拠している建物の電話線を撃ち切り、修理するために工兵が出てきたところをミハイルが撃ち殺した。


 その時、やはり狙っていたのかミハイルが狙撃される。しかしやられたのはダミーの方だった。ミハイルはダミーを盾にして狙撃しすることで身を守った。


 これで敵の位置は割れた。リリャはすぐさま煙を頼りに狙いを定めると、引き金を引いた。スコープの中でフィリップ・クーナウが頭を撃ち抜かれるのを見た。歴戦の猛者も、死ぬ時はあっけない。ヴェニアミンのように。


 あと残るのは少女兵だけだ。しかし、姿を現さない。リリャを撃てば、ミハイルがすぐさま位置を特定し狙撃することがわかっているのだろうか。少女兵は姿を現さなかった。


 しかし、確実に狙ってはいる。こちらが油断した時に撃たれると確信があった。リリャとミハイルは交代で携帯食料を胃に詰め込むと廃工場に場所を移した。

 フィリップ・クーナウの死体が見える位置に陣取った。あのベルンシュタインの英雄の亡骸をそのままにしておくだろうか?というリリャの考えからだ。少女兵はフィリップ・クーナウの死を知っているはずだ。


 「死体を撃って挑発してみる?」


 リリャはミハイルにそう尋ねた。


 「あまり死体蹴りのようなことはしたくないが…」


 ミハイルは死んだフィリップ・クーナウに人間として敬意を示しているようだった。リリャは敵の死体まで気にしている余裕はなかった。


 「死体に弾を使うことはしたくないだろう? 無闇に居場所を晒すな」


 ミハイルはリリャを嗜めるように言った。確かにそうだ。少女兵を討ち取らねばという意識ばかりが先行して足元を見ていなかった。


 「ごめんなさい。焦ってた」


 これは我慢比べだとリリャは自分に言い聞かせた。夜が近づいてくる。寒さが身に染みた。防寒着を着ているとはいえストーブもない廃工場で夜を明かすのは骨の髄から凍ってしまいそうな気さえした。目は乾いて、歯はカチカチと音を鳴らす。


 「そういえば、聞きたいことがあったの」


 リリャは震えて歯をカチカチ言わせながら尋ねた。


 「私たちって、その…恋人同士となったと解釈していいんですよね」


 お互いに好きだと下水道で確認しあったが、なんだか関係が曖昧なままここまで来てしまった。これで恋人ではないと言われて終えばリリャは泣く自信しかなかった。


 ミハイルが目をぱちくりと瞬いた。そんなこと聞かれるとは思っていなかったという顔だ。


 「不安にさせてしまってすまない。こんな状況では恋人らしいことをする余裕もないから…」


 ミハイルは罪滅ぼしとでもいうようにリリャの頭を撫でた。


 「じゃあ、上書きのキスをして」


 リリャは精一杯の勇気を持って、そう告げた。「貴方なら悪くない」と言ったときよりも羞恥が込み上げてきた。自分からねだるなんて破廉恥なのではないかという気持ちがリリャの中で強くなっていく。


 「少女兵を倒せたら、いくらでも」

 

 微かに漂った甘い空気はそこで打ち切られた。スイッチが切り替わったかのようにリリャは少女兵のことだけを考えた。ミハイルも自分の肩を撃った少女兵に仕返ししたいだろうと思った。


 フィリップ・クーナウの死体が陰に吸い込まれていく。月明かりが雪を照らしす。フィリップ・クーナウを回収するためには夜の闇に紛れたいだろう。


 その時をじっと待った。しかし現れない。このまま見捨てるのだろうか。フィリップ・クーナウも他の兵士と同じくここリードグラードではただの死体に過ぎないのだろか。


 その時だった。フィリップ・クーナウに近づく小さい影があった。少女兵だ。しかし暗くて正確な位置がわからない。リリャは双眼鏡とヘルメットを組み合わせたダミーで月明かりを双眼鏡に反射させた。月明かりが降り注いでいて、雪に反射するこの状況は冬の女王の加護があるみたいだった。


 気づけ、この罠に嵌まれ。リリャはそう願い続けた。遠くで狙撃銃のバシュンという発砲音が聞こえた次の瞬間、ダミーを持って生きている人間のように動かしていたリリャの左手が撃ち抜かれた。ダミーよりも下の位置を狙い、リリャの息を止めようとしていた。左手は貫かれた激痛により感覚がない。


 「うっ…あぁ…!」


 思わず呻き声が出た。リリャは左手を不器用ながら包帯を巻いて固定したが激痛は止まなかった。


 「ミハイル、撃って!」


 リリャはミハイルにそう懇願した。居場所は先程の狙撃で突き止めたのだ。リリャがトドメをさせないのは残念だが、それでもいいと思えた。しかしミハイルはこの場の空気に相応しくないほど優しい声でリリャに囁いた。


 「一緒に撃とう。あれほど少女兵に執着していたじゃないか」


 それは獲物に執着する狩人の気質をミハイルに見抜かれていたということだった。「撃て、撃て!」と子供達の声が頭の中で響く。その中にアレクセイやヴェニアミンの声が混ざっていることに気づいた。結局、この幻聴は自分が勝手に背負い込んでしまっていたのが正体だ。


 リリャの中で声が止んだ。ミハイルの声だけがしっかりと聞こえる。幻聴に悩まされることはもうないと思った。


 リリャはミハイルと二人で指を重ねて発射する。生まれゆく双生児のように身を寄せ合って、暖かさを分けつつリリャはミハイルと一つになって少女兵を狙撃した。


 狙撃は返ってこなかった。ならば、少女兵を倒したということだろうか。リリャとミハイルは狙撃銃を背負い手には拳銃とマシンガンを持って少女兵とフィリップ・クーナウの死体に近づいた。二人ともが狙撃により息絶えており、少女兵はフィリップ・クーナウに寄り添うように倒れていた。


 その時初めてリリャは少女兵の顔をしっかりと見た。金髪碧眼という以前のリリャと同じ容姿であった。


 「…この顔立ちはベルンシュタイン人にも見えるが、ルフィーナ人?」


 ミハイルが少女兵の顔を覗き込んで呟いた。リリャはその言葉に電流が流れたような衝撃を受けた。なぜ、ルフィーナ人がベルンシュタインに味方する?


 モルモット・ケージは洗脳を施し、兵士に育て上げること。


 嫌なことを思い出してしまった。少女兵はもしかしたら別の道を辿ったリリャだったのかもしれない。そう思うとリリャは複雑な気持ちになり、開いていた少女兵の瞼を閉じさせた。




******


 だらりと垂れ下がった左手を庇いながら、リリャとミハイルはアパートへと帰った。フィリップ・クーナウと少女兵を倒したという知らせは部隊全体をお祭り騒ぎにさせた。

 あまり話をしない支援部隊の兵士たちから肩を叩かれ、リリャは左手が痛んだ。それを見たオクサーナが「リリャは負傷者!」と怒り、兵士たちから引き離した。


 兵士たちは食べたり、タバコを吸ったりして各々が喜びを表していた。リリャはそっとその賑やかな輪から離れるとミハイルと合流した。

 薄暗い廊下には誰一人いない。少し離れたところから兵士たちの話し声が聞こえるだけだ。


 「上書きのキスを貰いにきました」


 リリャは照れながらもなんとか言葉を絞り出した。ミハイルは優しく微笑んだ。リリャはこういう顔のミハイルが見たかったのだと心から思った。


 ざらざらとした皮の手袋に包まれた手が頬を掴んだ。腰に腕を回され、密着する。片腕の中に閉じ込められたような形になった。

 唇にカサついた唇が触れる。リップケアなんてちゃんとしてないのだろう。それでも小さな隙間から開いた唾液で湿ってあまり気にならなくなる。不思議と不快感はなかった。


 小鳥が啄むようなキスが何度か繰り返された。気がつけば唇をこじ開け舌が口内に侵入していた。リリャは思わず反射的にその舌を噛んでしまった。顔を離せば、ミハイルが忌々しげに見つめてくる。


 唇には噛んでしまった時の出血か紅を引いたようになっていた。


 「まったく悪い子だな」


 ミハイルがため息を吐きながら呟く。しかしその響きに怒りは混じっておらず、自分が急ぎ過ぎたという後悔が滲んでいた。


 「紅を引いたみたい」


 ゆっくりその血の滲んだ唇を親指でなぞる。そうすればその手は大きな節だった指に絡められ自由が効かなくなる。

 

 「紅を引いてやろうか」


何か言葉にする前に口を塞がれていた。今度は触れるだけだ。滲んだ血が唇に移って紅を引いたかのようになる。鉄の味が広がった。それでも世界で一番幸せな気持ちになった。


 「ミハイルのやつ、どこ行ったんだー?」


 イヴァンの声が部屋の中から聞こえてきた。「便所だろ」とフェドートの声が聞こえる。


 「リリャも居ないじゃん」


 イヴァンの声が近づいてきた。


 「ばっか! 放っておきなさい。わかるでしょ!?」


 オクサーナが怒ったようにイヴァンを止める声が聞こえた。リリャはオクサーナ、ありがとうと心の中で呟いた。


 「そろそろ、戻らないといけないらしいな」


 ミハイルが苦笑した。そしてリリャの手を王子様のように取ると、いきなり右手の薬指を甘噛みした。甘噛みとはいえ、歯形が残る。


 「なっ…何?」


 リリャは驚いて尋ねた。


 「突然すまない。不安にさせないように約束だ。それに虫除けにもなるし。本当は指輪を用意できたら良かったが、こんな状況だろう?」


 言葉の意味を噛み締めて、リリャは思考を巡らせた。右手の薬指、指輪…これだけでリリャの顔は赤くなっていった。


 「戦争が終わったら結婚しよう」


 まるで明日も狩に出ようというように、さらりと告げられた言葉にリリャは理解が追いつかなかった。リリャの理解が追いつく前に、声が思考を遮った。


 「いいや、それは許さん!」


 フェドートがそこには居た。

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