13話
「絶対に置いていかない! 絶対にミハイルを助けるから!」
「命が掛かっているんだぞ!」
ミハイルが怒鳴った。それでもリリャは納得できなかった。
「私の命は貴方が救った! だからこの命は貴方を助けるために使う」
リリャたちが建物から出たところで、砲撃により廃アパートは吹き飛んだ。アパートごと潰してやろうと考えたのだろう。リリャたちはマンホールから下水道へと降りた。パルチザンたちが改造し、拠点近くのマンホールまで繋がっているようになっている。
ライターの火をつけることにより、辺りを照らした。普段なら灯りがあるだろうが戦時下により電力供給が止まっている。ミハイルは煙草は吸わないが、何かと便利なためライターを持っていた。リリャはその灯りでミハイルの肩に包帯を巻いた。オクサーナが持たせてくれていてよかった。
二人ははぐれないように自然と手を繋いで歩き出した。手袋越しに硬い手のひらを感じた。リリャは先程の思いのままに叫んでしまった言葉を思い出していた。復讐が第一だと思っていた。この命は復讐のために使うつもりだった。なのに、ミハイルの命を救うためにいつの間にか変わっていた。何故だろう。
リリャは形だけ悩んでみたが、答えなんて悩まずともすぐそこにあった。復讐よりも大事なものができた。ミハイルが復讐よりも大事になっていた。この人が生きていてくれるなら、命をあげたって構わない。
砲弾や銃弾が飛び交う、死に近い場所ではより強烈に生を願わなければならなかった。リリャはあの日、ミハイルがリリャに生きていてくれてありがとうと、頰に何度もキスしてくれたのを思い出した。あの時のミハイルの気持ちが今はわかる。
生きていて欲しいんだ、この人に。リリャはミハイルが自分を置いていけなんてことを言わなくなるのなら、何度だって頰にキスしてやると思った。
「どうして、そこまでして私を想う? 」
ミハイルが静かに尋ねた。その声が下水道に響く。ミハイルはリリャの好意を完全に見透かしているようだった。自分を救うために命をかけると言われたら、いくら鈍感だったとしても気づかないわけにはいかなかっただろう。
「貴方が私を救ったから」
リリャの答えにミハイルは満足していないようだった。否、どうにかしてリリャの想いを否定しようと理由を探しているようだった。
「偶然、私が君を見つけただけだ」
「偶然でも、貴方は私に優しくしてくれた。抱きしめてくれた、キスしてくれた。それがどれだけの救いになったか。貴方を好きになるには十分だった」
握る手の力を強めた。ミハイルが振り払うかもしれないという気はしなかった。彼はきっと振り払えない。そう確信があった。リリャを嫌いで心底憎いと感じているならば、リリャを庇ったりなどしない。
「リリャ、君の好意や献身を私自身好ましく思っている。だが、君を危険な戦場に連れてくるきっかけになったのは私で、君の好意に応える資格がないと感じている」
「前にも言いましたが、私は自分の意思で来ました。貴方が罪悪感などを感じる必要はない!」
ライターの灯りに照らされた彼の横顔が遠くに感じた。何処か遠くに行ってしまうのを何とか引き止めたかった。
「それに、妹より歳下の女の子の好意に応えるということに少し…戸惑っている。年齢詐称しているだろう。みんなわかっているが黙っているだけだからな」
それがリリャの想いに素直に応えられない一番の理由ではないかと思った。リリャがミハイルの妹と重なりさえしなければ、リリャの想いは実を結んだのだろうか。
「私が妹みたいに思えて、妹に対する親愛なのか恋愛なのかわからないんですか?」
「最初は妹のように感じていたのかもしれない。私が戦場に連れてきてしまったのだから何としても守らねばと。でも、君は思っていたより弱くなかった」
下水の汚臭も今は気にならないほどにリリャの胸は熱く高鳴っていた。この最高の狙撃手に、弱くはないと認められたという一兵士としての誇りが湧き上がった。
「君を好いていると認めなければ、…ならないようだな」
ミハイルはリリャに退路を塞がれ逃げられないようにされたとでも言うように降参した。リリャは抱きつきたい衝動に駆られたが、彼の肩に巻かれた包帯とその下にある傷の存在を思い出した。
ミハイルを撃った少女狙撃兵が憎かった。リリャが動揺しなければ、こちらが先に仕留めていたというもしもが何度も頭をよぎった。
アパートに無事戻ると、「おかえり」と皆に迎えられた。リリャたちが狩りに行っている間、必死にアパートを守ってくれていた増援部隊の者たちは多少の疲労を感じさせた。皆の前ではリリャはミハイルと繋いだ手が何だか気恥ずかしく離そうとしたが、しっかりミハイルに掴まれたままだった。
ミハイルはしっかり見せつけて周りを牽制する狙いらしい。増援部隊も増えてすっかり男だらけになってしまったから、ミハイルも色々と不安なのだろう。その様子を見てオクサーナが何かを察したかのようににやにやと笑った。
「おかえり、二人とも。イヴァンたちはまだだけど食事にしちゃう?」
川の向こう岸に炊事部隊が駆けつけたため、今日の食事は野菜たっぷりのスープと焼きたてのパンがあった。オクサーナは簡易ストーブの周りで食事をとっている兵士たちに少し隙間を開けさせ、そこにリリャとミハイルを押し込んだ。
ミハイルがそれとなくリリャを抱き寄せ自分に近づけた。他の男たちの近くにいってほしくないらしい。
「ミハイル、ベルンシュタイン軍に女性兵士がいるって聞いたことある?」
リリャは先程の少女狙撃兵を思い出しながら、尋ねた。女性兵士がいるのは、世界的に見てもルフィーナ軍しかいないと聞いている。それは男女平等が進んでいるからであると教科書に載っていた。
「いや、聞いたことがない」
ミハイルはパンを飲み込み首を振った。話を聞いていた周りの兵士たちも首を傾げる。しかし、一人の兵士が口を開いた。
「俺はリードグラードに来るまでは北の塹壕にいた。そこでベルンの噂を聞いたことがある。ベルンの戦乙女の話を捕虜から聞いた。なんでも、フィ…フィ…フィガロ…いや、フィリップ?少佐に付き従う少女兵がいるって」
「フィリップ・クーナウ」
リリャが名前を呟くと、「そう、そうだ!」と兵士はやっと名前を思い出したらしい。
「最初は嘘だと思ったさ。ベルンシュタインにも女兵士がいるなんてな。俺は見たことなかったし。そのベルンの戦乙女とやらが、俺らルフィーナ軍を大量に殺して回ってるって。奴らにとっては希望だとさ」
信じられないだろ、と兵士は話を締め括った。
「その話、もっと詳しく聞かせて」
リリャが身を乗り出して兵士に迫った。しかし兵士は困ったように「俺も詳しくは知らない。その捕虜も直接少女兵にあったことはないと言っていたから」と視線を彷徨わせた。
「それよりも奴らの噂ならもっと恐ろしいものがある。奴らはあちこちにモルモット・ケージと呼ばれる施設を持っていて攫ってきた子供達を人体実験に使い潰しているらしい」
カラン、と床にスプーンが落ちた。ミハイルが落としたものだった。一瞬の静寂が訪れる。「すまない、続けてくれ」とミハイルはスプーンを拾った。ミハイルは心配そうにリリャを見た。
「なんでも、子供の方が都合がいいらしい。胸糞悪い話だよな」
兵士はスープを飲み込むと、これで話は終わりだというように食後の煙草に取り掛かった。「湿ってやがる。だれか運搬時に落としたな、死ね!くそっ」煙草は貴重な娯楽であるために、ありとあらゆる罵詈雑言を投げかけていた。吸わないミハイルはなんと愚かしい…というような顔でそれを見ていた。
その時だった。アパートに、イヴァンとアレクセイが飛び込んできた。アレクセイはイヴァンに背負われている。
「オクサーナ!」
イヴァンが焦ったようにオクサーナを呼んだ。オクサーナは鞄を持ってすぐに飛んできた。リリャはイヴァンの背中でぐったりしているアレクセイを見て嫌な予感がした。
「砲弾の破片が腹に!」
イヴァンがアレクセイをベッドまで連れて行った。オクサーナは内臓などがぐちゃぐちゃになった腹を見て何かを悟ったらしい。
「イヴァン…無理だ。これから川を渡って病院に担ぎ込んでも…」
「オクサーナ! なんとかしてくれ!」
イヴァンは見たこともないくらいに焦っていた。オクサーナの肩を掴み乱暴に揺らしている。
「わっ、私は、講習を受けただけの衛生指導員で大手術できる医者じゃないんだよ」
オクサーナが泣きながら叫んだ。医療設備だって整っていないと付け加えた。数々の負傷兵を見てきたオクサーナが諦めるほどアレクセイはひどい状態だった。まだ意識があったのか、アレクセイが弱々しく腕を上げる。
「俺、死ぬのか。オクサーナ…」
アレクセイが震えた声を出した。オクサーナは「あ…あぁ…」と掠れた声しか出せない。
「どれくらい、あとどれくらい生きられる?」
「わからない。すぐ死んでもおかしくない。あんたの気力次第だ」
オクサーナの涙は止まらなかった。それがアレクセイにも伝染したようだ。
「リリャ…リリャ!」
アレクセイが泣きながら叫んだ。リリャはその声を聞いて寝室に飛び込んだ。
「ここにいるよ、アレクセイ」
リリャはアレクセイが横たわるベッドまで駆け寄る。アレクセイはぐちゃぐちゃになった臓物が溢れ出さないようにベルトで押さえている状態だった。アレクセイが上げた手を握り締める。
「リリャ、俺…死んじゃうらしい。おれのスコア…もう伸びないから必ず抜いてくれよな、リリャ。もう俺の負けらしいから」
一言、一言発するのが苦しそうだった。
「アレクセイ、今スコアの話なの!?」
リリャも気づかぬうちに泣いていた。最後に話すのがスコアの話なんて。しかしアレクセイにはもう家族もいないので、誰某にこう伝えてくれ…なんていう遺言を預かることすらできなかった。
アレクセイの体は小さく震えていた。傷口が燃えるように熱いのに寒いんだと言っている。
「ごめん、最後まで迷惑かけてごめん。リリャ、俺きっと今から酷いことを言う。きっと君に呪いを残す。ごめん、でも…」
アレクセイが空気を吸い込んだ。とても苦しそうだ。
「好きだ、リリャ」
リリャは涙が溢れた。どうして、こんなにも想ってくれている人の…しかももう死にかけの人に応えてあげられないのだろうと悲しかった。急にアレクセイの震えが強くなった。寒い、寒いとつぶやいている。もう目も合わなかった。
「リリャ…好きだ。ごめん、でも好きなんだ」
もうアレクセイの命の火が消えると言うその時、リリャは軽く触れるだけのキスをアレクセイの頰に贈った。彼の気持ちに応えられないリリャには友情の印としてこれが精一杯だった。
それでも激痛だっただろうに、アレクセイの顔は穏やかに息を引き取った。アレクセイの遺体はシーツに包まれ別室へと移動させた。
「下手に慰めを与えるなよ」
ヴェニアミンはリリャに責めるように言うと、部屋から出て行った。イヴァンは顔を抑えて涙を隠し、「くそっ」と呟いた。オクサーナはごめんなさいと泣いている。
リリャはそっとその場を離れ、誰もいない水も出ない洗面所に向かった。ミハイルが追いかけてきてくれるような気がしていたし、それは当たっていた。
「リリャ、私は慰めを与えることが正しくなかったとは思わない。アレクセイは安らかに逝っただろう」
ミハイルは優しくリリャを後ろから抱きしめてくれた。割れた鏡に映るリリャは滝のように涙を流していた。鼻水も出ていて恥ずかしく、涙を乱暴に袖で拭った。
「アレクセイにキスしたの、貴方にとっては裏切りに等しい?」
リリャは泣きながら尋ねた。あの時は最後にキスを贈るのが正しいことだと思った。寂しさの中で絶望させながらアレクセイを死なせたくなかった。
「先程も言っただろう。慰めを与えることが正しくなかったとは思わないと。アレクセイは安らかに逝けた。良かったじゃないか。随分とマシな死に方だ。ここリードグラードでは」