12話
絶え間なく続く機関銃の音が子守唄になる日は来ないだろう。リリャは静かにそう思った。リードグラードに銃声が聞こえない場所はなく、血が染み込んでいない場所もなかった。
その日は狩りに出た。アパートの一室から始まる日は不穏な機関銃の音と広がる瓦礫と鉄屑、そして死体さえなければごく平凡な一日の始まりだっただろう。
リリャにとって狩りは日常の一部だった。獲物が動物から人間に変わっただけだ。遊撃と狙撃を繰り返し、撹乱することでアパートの攻略を諦めさせることが狙いだ。このアパートはルフィーナ軍にとっては防衛の象徴であり、アパートが陥落したとなれば士気に関わってくる。そしてベルンシュタイン軍にとっても落とさねばならない重要な拠点として猛攻を仕掛けてきた。
リリャはミハイルと組み、狩りに出て残りはアパートの防衛に回った。リードグラードは狙撃手の天国とも言っていい場所だった。戦闘の距離が極端で、室内で戦うこともあれば500メートルは先の敵と戦うこともあった。
一方的な狙撃とはいかなかった。狙撃手の天国ということは、優秀な敵の狙撃手も大量に投入されている。コンクリートの森に隠れながら、リリャとミハイルは崩壊している廃工場に身を潜めた。リリャが400メートルは先のベルンシュタイン兵を撃った。引き金を引いた指がじんじんと熱を持ったかのように熱くなった。
スコープの中で血溜まりに浮かぶ兵士の姿に恐れのようなものが浮かんできた。奴はもう死んでる、何も恐れることはない。ただの肉の塊になったんだ。そう言い聞かせた。
それでもカタカタと震える手がスコープ越しの視界を揺らした。今、何と考えた? 人間だったものに対してただの肉の塊と形容した自分の化け物加減にリリャは恐ろしくなった。そういえばここリードグラードには敵味方関係なく、死体が転がっていてまだ残っている弾などを死体から取るなど当たり前だった。
そう言った死体を見つけるとリリャは自然と残された物資などを頭の中で考えてしまう。その死を悼むのではなく。
その時だった。ミハイルがリリャを急に後ろに引っ張った。軽いリリャの体は投げ飛ばされるような形で床に転がった。一瞬、何をされたのか分からなかった。ミハイルが急に牙を剥いてきたのかと錯覚するくらいには。
「なっ、にを!」
咳き込むように声を出したが、それは一発の銃声にかき消された。先程までリリャがいた位置に狙撃用の銃弾が撃ち込まれていた。悪竜が勲章をもらった際にリリャには個人用ライフルが贈られていた──それは、銃眼代わりにしていた窓にかけられたままである。
「スコープの反射が見えた。私たちは敵の狙撃手に狙われている」
狙撃の後にすぐまた場所を変えるのは鉄則である。しかし今回は長居したわけでも、目立つ狙撃を続けたわけでもない。最初から狙われていたのだろう。味方を犠牲にし、敵の狙撃手を炙り出す方法だ。相手が冷酷な狙撃手だということがわかる。
「ミハイル、あんな狙撃手を野放しにして置けない。私たちで倒そう」
「まずは場所を移動してからだ。潜伏できる場所を探そう」
リリャとミハイルはすぐさま潜伏していた廃工場を後にする。リリャは自分の硝煙が見つかったのか、それともミハイルが相手を見つけた時のようにスコープの反射で見つかったのか分からなかった。それでも自分のミスが敵狙撃手に狙われているという事態を引き起こした。
「焦るな。落ち着け。奴らは包囲網によって細々とした空輸による補給しかできない。弾薬もそうあるわけじゃないだろう。そのうちの一発を無駄撃ちさせたんだ」
油断大敵ではある。奴らに武器弾薬や医療品が少ないからといって油断してはならないのだが、ミハイルは焦るリリャの気持ちを落ち着かせようとしてくれていたのだろう。その姿に不器用な父の姿を思い出させた。
「…父さん」
思わず一筋の涙と共にぽろりと言葉が溢れてしまった。
「リリャ、私は君のお父さんじゃないが」
ミハイルは顔を顰めた。リリャはすぐに「ごめんなさい」と謝った。彼にとっては不快だったかもしれないのは顰めた顔を見ればすぐにわかった。青年であるミハイルに、自分の父親を重ねるのは失礼だったかもしれない。
「君が私を神様だと言うのは、私の中に父性を求めて誤解しているんじゃないか」
拗ねたような声だった。いつもより幼いように見える。瓦礫の陰に隠れながら、ミハイルの背をリリャは見つめた。何も言い返せなかった。先程父親と重ねてしまったことは事実だったから。しかし、何か言わなければいけないとリリャは口を開いた。
「私を救い出してくれたのは、貴方だから。貴方だから、私は──」
その時、近くで砲撃の音があり二人は地面に伏せた。砲撃の揺れが収まってから、また話の続きをする気にはなれなかった。ミハイルも話の続きをすることを望んでいないように見えた。当たり前のようにミハイルはリリャを庇って覆い被さってくれていた。
アパートの一室へと帰ってきた。戦場の真ん中だというのに我が家に帰ってきたような安心感があった。ここだって絶対安全とは言い切れないというのに。
「おかえり」
オクサーナからのその言葉で帰ってきたと実感する。オクサーナが夕食の準備をしているところだった。他の隊員たちは補給と共に配られる新聞を回し読みしていた。敵軍のプロパガンダではない、ちゃんとしたルフィーナ軍側の機関紙である。
「帰ったか、ミハイル。お前の記事が載ってるぞ」
イヴァンが煙草を燻らせながら、新聞を目線で指し示した。ミハイルは充満する煙草の匂いに顔を顰めた。匂いが付くということは狙撃兵としてあるまじきことらしい。イヴァンとしては数少ない娯楽を取り上げないでくれ、と言っていた。
新聞には顰めっ面のミハイルの顔写真が載っていた。見出しは「受け継がれる、英雄の意志」とある。ミハイルは新聞の中で200人を超える敵を狙撃で殺害した英雄として持ち上げられていた。
記事の中の彼は、輝かしく自信に溢れ愛国心に満ち自分も祖先のように国を守る。彼の祖先の英雄ドミートリィは歴史の教科書にも載る人なので彼の中にその輝かしい軍神を見ているようだった。
英雄の偶像が一人歩きしているようだった。少なくとも彼の一部をまるで全部であるかのように書かれている。リリャの中に何故か不快感が湧き上がってきた。
彼は──彼は、こんな綺麗なだけの人じゃない。私の想いに気づかず、上書きのキスをしようかと提案する酷い人だ。しかし汚い子供だったリリャに、生きていてくれてよかったとキスをしてくれた優しい人でもある。
記事の隅に、小さく彼が所属している特殊部隊が…と書かれていたが悪竜のことはほぼ書かれていないに等しかった。ミハイルの生死は軍の士気にも関わるため、前線から退いて教官職に回ると言う話も出ているようだが、彼は前線に留まり続けていると記事はそう締めくくられていた。
つまり英雄と共に戦える、彼も戦っていると強く印象づけて士気をあげようとしているのだろう。
「すっかり英雄に仕立てられちまったなぁ」
にやにやと笑いならがヴェニアミンが小馬鹿にするように言った。
「誰かが英雄にならなければ。やってやるさ。最後まで役を演じてやろう。それが狼の家に生まれた者の使命だからな」
ミハイルはそれだけ言うと今日の報告に移った。要注意の狙撃手がリードグラードに潜んでいること。その排除を目的に加えたいことを話した。フェドートは少し悩んだようだが、それを了承した。撹乱作戦と並行して、邪魔な狙撃手の排除も加わった。
次の日にやっと待ち侘びていた増援がきた。機関銃や対戦車銃、迫撃砲を装備したその部隊は大量の食料や水も運んできてくれた。豪華な食事になるというだけで気持ちが明るくなる。乾パンだけで過ごして口の中がパサパサになっていたから、これは嬉しかった。
フェドートはアパートの周囲に有刺鉄線と地雷を設置を命令し、窓には対戦車ライフルや機関銃を据えた。そして「ええい、邪魔だ!」ということで、壁と天井をぶち抜き味方同士の連絡と補給を円滑にし、同時に塹壕を掘って建物外から出入りできるようにもした。
爆撃や砲撃があっても、ボートを使って川の向こう岸から運ばれてきた補給物資を塹壕を通じて内部に運び込むことができた。これは画期的な方法だった。最初にアパートをぶち壊すとフェドートが言ったときは全員彼が頭がおかしくなったのか──残念ながら戦場では良くあることだった──と思った。
守るべきアパートを壊すということは勝手に降伏するのかとヴェニアミンがピリピリした空気にしたところで、フェドートは全員に誤解されていたことに気づいた。それからの必死の説明で全員が納得した。
増援が到着したことでアパートは賑やかになった。増援の小隊は頼もしく、敵の歩兵や戦車がなんとか広場を横切ってアパートに近づこうとするたびに陣地の中や窓、あるいは屋根の上から強力な砲火を浴びせて応戦してくれた。
アパートの守りは盤石。リリャたち悪竜は安心してアパートを任せ、狙撃兵狩りに出ることができた。市街で今もなお、耐え忍ぶ市民から組織されたパルチザン部隊もリリャたちを助けた。見聞きした将校たちの氏名、階級、敵の配置と動きなどをルフィーナ軍に流してくれた。
パルチザンから流された情報の中から厄介な狙撃兵を挙げていき、人相や特徴などを頭に叩き込んだ。
「フィリップ・クーナウ少佐、ハインツ・シュタインメッツ中佐、あたりがベルンシュタインの中でも優秀でリードグラードに投入されているな。この二人以外にもいるだろうが、まずはこの二人が最有力だな」
ミハイルが資料を見ながら、呟いた。パルチザンが描いたと思われる下手くそな似顔絵がついていた。そこから想像力を広げて現実的な顔に置き換えていくとき、フィリップ・クーナウ少佐は面長の…少しハンサムな人物だろう。ハインツ・シュタインメッツ中佐は髭を蓄えた男らしい人物であることが窺える。
情報はイヴァン・アレクセイ組にも伝えて二組は狩りへと出かけた。息も凍るような寒さの中、リリャとミハイルは廃アパートの最上階である四階に身を潜め、敵狙撃手がいるであろう集合住宅の中を双眼鏡で観察していた。
彼処が敵の拠点であろうことはパルチザンの情報から推測していた。
リリャは狙撃銃を構えて、スコープを覗き込んだ。コンクリートの上に積もった雪が視界を真っ白に染める。その中でもリリャは少しの反射なども見逃さないように目を凝らした。冬用のコートを着込んでも寒かった。ストーブがあるアパートの部屋が懐かしい。
じっと忍耐強く待つのは体を芯から凍えさせた。食事や排泄は交代で済ませ、あとは身を寄せ合って寒さを凌いだ。まるで産道を生まれゆく双子のように二人は温もりを分け合った。ドキドキしている状況ではないというのに、リリャはミハイルの匂いと温もりを感じるたびに胸が高鳴った。
この気持ちが恋でなければ何だろう。これが恋でなければ、リリャはもう誰も人を好きになることはないような気がした。ミハイルは父性を求めているだけというが、それもあるかもしれない。完全に否定できないことは悔しいが、リリャはミハイルを父親の代わりとして見ているわけではない。
ミハイルが好きなのだ。そう実感すると胸の辺りが暖かくなり末端の冷えも和らぐような気がした。
「右、斜め上の窓だ。狙撃手がいる」
三百メートルは離れているしかも、アパートの小さい窓を裸眼でミハイルは見つけた。双眼鏡の反射を嫌う彼は最低限しか双眼鏡やスコープを使わなかった。リリャはミハイルの言った通りの場所をスコープで覗き込む。そこで息が止まった。相手も同じように銃を構えている。最初は小柄な男かと思った。しかし、リリャには直感的にわかった。
女の子だ。自分と同じく女が銃を構えている。ミハイルは人相までは確認できなかったのだろう。隣には観測手らしい人──フィリップ・クーナウ少佐だ。あちらも観測手に優秀な狙撃兵を置き、後進育成のためだろうか。
しかし、ルフィーナ軍と違いベルンシュタイン軍が女性兵士を使っているなんて話は聞いたことがない。リリャが動揺している間に、向こうの少女もこちらを見つけた。一瞬のことだった。顔は合わせていないが、二人は今銃を構えあって目が合った。
撃ったのは同時だった。リリャの弾は彼女の肩に被弾したが、リリャは無傷だった。代わりに、隣で低く呻き声を上げたのはミハイルだった。
「ミハイル!」
リリャはミハイルの方を見る。彼も肩に弾が打ち込まれていた。何故、狙撃手ではなく観測手を狙った? 弾の軌道がズレただけなのか、それとも…。わからなかった。しかし、今はそんなことを考えている暇はない。敵に位置がバレた。すぐに場所を変えなければ。しかし、ミハイルが負傷している。
「ミハイル、立てる? すぐに移動しないと」
ミハイルは肩に空いた穴に指を突っ込み、ぐりぐりと弾を取り出した。見ただけで痛そうだった。肩を抑えながら、ミハイルが立ち上がる。その時、砲撃がこちらの廃アパートに降ってきた。
二人が階段を降りている時に砲弾が先程までいた場所を吹っ飛ばしていた。
「崩れるかもしれない。リリャ、いざという時は置いていきなさい!」
一瞬、何を置いていくのかわからなかった。すぐにミハイル自身を置いていけと言っていることがわかり、リリャは叫んでいた。
「嫌だ!」