11話
結局、ミハイルが何を支えに戦っているのかはわからなかった。イヴァンから聞き出すのも、時間が経つごとに違う気がしていた。本人に聞く機会も訪れなかった。
退院したリリャたちに待ち受けていたのは激戦区、工業都市リードグラードへの転戦命令だった。アレクセイの故郷でもある。かつては街の九割を占領されたが、ルフィーナ軍の必至の抵抗により奪い返し、現在はルフィーナ軍が逆包囲している状況だった。その中でもベルンシュタイン軍は抵抗し続けており、市街地の大半がまだベルンシュタインの占領下にあった。
リリャたち悪竜がそんなリードグラードで拠点としたのはごく一般的な五階建てアパートの一室。市街の中心部にある建物で広場を見下ろすようにリード川の堤防脇に立っている。
このアパートはリードグラード防衛戦の中でも最前線の一つであり、建物を守るように命令が下された。撃ちまくられている迫撃砲弾を掻い潜り、壊滅状態とも言える崩れた都市の瓦礫たちの間を縫って悪竜はアパートにたどり着いた。
アパートの部屋は簡素なソファと弾痕だらけの壁や床、ドラム缶と木材の簡易ストーブが置かれていた。前にここを拠点にしていた別の特殊部隊の置き土産らしい。前の部隊は壊滅したと聞いた。
無線設備が無造作に置かれ、窓には装甲車の部品らしき鉄板で銃眼をつくり、機関銃が備え付けられていた。連絡係の一人くらい残っていないのかとアパート内を探せば、死体となって出てきた。
「間に合わなかったらしい」
ミハイルが苦々しげに呟いた。アパートの隅の部屋に死体を安置し、即席の野戦陣地となった部屋に集まった。後に悪竜への支援としてて機関銃や対戦車銃、迫撃砲を装備した部隊が到着する予定にはなっていたが、しばらくは少人数で耐え抜かなければならない。
「俺が住んでた場所からそう遠くないよ、ここ」
アレクセイが部屋を見渡しながら言った。アパートはどれも似たような間取りをしているし、街は崩壊しているしで、景観が違うだろうがアレクセイはぴたりと住所を言い当てた。
「出身者がいると頼もしいな」
ヴェニアミンが無線機器をいじりながら言った。外では耳をつんざくような機関銃の音が聞こえていた。
フェドートは窓に据えられた機関銃で乱射すると近くまで迫っていた敵兵を薙ぎ倒すように始末した。せっかくたどり着いたのに一息つく間もなかった。
リリャたちも銃を構え、敵を撃ち始めた。オクサーナはその間、部屋の隅でじっとしているのかと思いきや、環境を整えることを始めた。
ベルンシュタイン兵の攻撃が止んだ。全員倒してしまったということだろう。しかし問題が浮かび上がった。人数分のベッドがなかったことだ。その他は、オクサーナが剥がした断熱材の上で寝ることになる。ベッドは負傷者を優先的に使わせることにして、不寝番で二人は必ず起きている状態にすることに決まった。
しかし負傷者もいない初日は誰がベッドで眠れるだろうか。
「石、鋏、紙、いーちにーい、さん!」
リリャの掛け声で皆が一斉に手を突き出した。結果、無事二つあるベッドで眠れることになったのはイヴァンとフェドートだった。
「イヴァン、お前どこでも眠れるんだからベッド譲れよ」
ヴェニアミンが恨めしそうにイヴァンに突っかかる。イヴァンは余裕そうに「負け犬が吠えてやがる」とわっはっはとわざとらしく笑った。
「隊長もイヴァンも大人気ないと思わない? こういう時は女子に譲ってよ」
オクサーナが腕を組んで頰を膨らませた。リリャは流石に自分がじゃんけんを言い出したのだから、図々しいことは言えなかった。
「いやまぁ、公平に決めただろう? ベッドの誘惑には俺も勝てん。明日から負傷者が出なければ交代で寝ろ」
フェドートはそう言って視線を逸らした。妻と子供がいるフェドートはもしかしたらオクサーナを子供のように思っていて彼女の瞳に弱いのかもしれない。
「ベッドくっ付いてんじゃん。離しとこ。フェドート隊長と添い寝なんて御免だからな」
寝室を見たイヴァンがげぇ、と口にしながら必死にベッドを押してベッド同士の隙間を作る。フェドートは「寝れたら誰と添い寝でも構わん」と豪快に笑った。
くっ付いていたベッドの様子から、この部屋には仲睦まじい夫婦が住んでいたのかもしれない。もしかしたら、新婚だったかも。今は見る影もないが、花柄の壁紙や割れてしまって破片になっているが揃いのカップであったのだろう品を見ればここで誰かが生活していたことを感じさせた。その痕跡を見つけるたび、胸が痛んだ。
その日の夜はリリャとアレクセイが不寝番だった。イヴァンとフェドートがベッドで、ミハイルたちが断熱材の上で眠ったことを見届けるとリリャたちは簡易ストーブの周りで暖をとった。
「なんだか、変な気持ちだよ。リードグラードに帰ってきただなんて」
アレクセイがぽつりと呟いた。暖かさで寝てしまわないように、リリャたちは喋り続けることにした。
「本当にここ、家から近いんだ。あの広場はよく遊んだし。それが戦場になってるなんてあまり実感が湧かないんだ」
アレクセイが持っている銃がカタカタと震える。アレクセイ自身が震えているのだと分かった。ストーブの灯りに照らされたアレクセイの顔は今にも泣き出しそうだった。崩れた故郷の街並みを見て、そこで自分は銃を持って戦っている。その事実に押しつぶされてしまいそうなのだろう。
「泣いてもいいのよ、アレクセイ。誰にも言わないから」
リリャはそっと囁いた。彼にしか聞こえないくらい。
「なんだよそれ、かっこ悪いじゃないか」
鼻を啜る音が聞こえたが、結局アレクセイは泣かなかった。しばらく無言が続いた。その静寂を破ったのはアレクセイからだった。
「好きだ、リリャ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。アレクセイは言葉を放った途端に、リリャの唇を奪っていた。急な事だったのでリリャは驚いて、アレクセイの頰を叩いていた。
「急に何するの」
アレクセイの唇が離れた次の瞬間にリリャは言葉を発していた。
「ごめん、好きって気持ちが溢れてどうしようもなかったんだ」
一体どうしてそうなったのかリリャにはわからない。ただアレクセイの中で何か変化はあったようだ。
「いつ死ぬかも分からない。そんな中で好きって気持ちを隠したままだと後悔すると思ったんだ。急にキスするなんて、ごめん。本当にごめん」
謝る姿は水に濡れて見窄らしくなった犬のように見えた。しかしリリャはまだ許せそうになかった。恐怖の感情が湧き上がり、男に押さえつけられた時の感覚が蘇る。リリャはたまらずその場から去り、洗面所へと向かった。
必死に蛇口をひねるが、水道管が破裂して使えなくなっていることを思い出した。仕方がなく袖で何度も唇を擦った。痛くなってしまった。割れた鏡にリリャが映る。
アレクセイはリリャをそういう対象として見たということが信じられなかった。今まで仲間で友人だと思ってきたから。何がきっかけでリリャを恋愛対象として見たのかはわからない。もしかしたら、女を知らずに死ぬ恐怖に駆られただけなのかもしれない。
唇がひりひりと痛くなったところで、リリャは一心不乱に擦っていたのを辞めた。このままでは唇が取れてしまうかもしれないと思ったからだ。赤く腫れているように見えた。明日の朝、腫れた唇をオクサーナらにどうやって説明しようか悩んだ。それまでに腫れが引いてくれるだろうか。
「アレクセイのばか…」
苦い汁が唾液になっているかのようだった。アレクセイが関係を壊したのだ。今までの形には絶対に戻れない。リリャは何故、好きだという気持ちを隠し持っていてくれなかったのかと八つ当たりをしそうになった。しかし、アレクセイの死んでしまう前に気持ちを伝えたいという想いも理解できる。
「初めてだったのに」
腫れた唇を指で触れて見た。先程のことは忘れてしまいたいほどだった。あの瞬間、幸福だけを感じられる乙女ならよかった。リリャもアレクセイが好きならよかった。しかし、アレクセイに対して仲間とは思っていてもそれ以上には考えられない。
あのキスの時、リリャの意識は一瞬にして女の死体と目が合った時を思い出していた。そしてエカチェリーナの声を思い出した。「抵抗したら、大勢の前に放り出されると思って」
アレクセイを受け入れなければ、彼は豹変してしまうのか。大勢の前に放り出されるのか。悪竜にはオクサーナだっているし、フェドートは既婚者だ。ミハイル、イヴァン、ヴェニアミンがベルンシュタインの虐殺部隊のような酷い真似をするとは思えない。何故だか、涙が溢れ出てきた。
その時、後ろから物音がしてリリャはアレクセイが来たのかと一瞬固まった。しかし、洗面所の扉の隙間から顔を覗かせたのはミハイルだった。
「あ…ミハイル。眠れなかったの?」
何でもないように振る舞おうとしたが、ミハイルにとっては腫れた唇と涙の跡に何か察せざるおえない状況だった。
「リリャ…? その、大丈夫か?」
ミハイルは眉を下げて心配そうにリリャを見た。
「また寝付けなくて、悪いが聞こえてしまった」
全て聴かれていたことにリリャは冷水を浴びせられたかのような心地がした。よりにもよってミハイルだなんて、とリリャは思った。ヴェニアミンなら関わらないように無視しただろうし、イヴァンなら「アレクセイのやつ振られちまったかー?」などと笑い飛ばしてくれる気がした。フェドートならきっと大人な対応をしてくれただろう。
ミハイルがリリャの様子を心配してくれていることはわかる。しかし、今は見られたくはなかった。
「上書きしとくか?」
ミハイルが慣れないながらも、笑い話に持っていってくれようとしたのは伝わった。きっとイヴァンなら上手くやるのに…とでも思っているのだろうか。
「悪い。冗談だ」
ミハイルはそう言って軽く笑うとその場から立ち去ろうとした。
「貴方なら、悪くはないです」
リリャは思わずそう口にしていた。ミハイルも驚いたように歩を止め、こちらを見ていた。
「本気か?」
ミハイルは信じられないという顔をした。自分の冗談を本気に受け取られ困惑しているように見える。
「貴方は私にとって、神様だから」
止まっていた涙がまた滲んでくるのをリリャは感じた。
「神になったつもりはない。が、君にとって私は死神だろう。君が戦場に来たのは私が唆したからだ。あの時私は大人として君を何が何でも軍に入るなんて止めなければならなかった」
その言葉を聞いたとき、今までミハイルがリリャをどんな気持ちで見ていたのか。ずっと彼は自分が軍に志願しなさいと言った事を後悔していたのだ。
「私の意思で戦場に来ました」
ミハイルが抱えている罪悪感が少しでもなくなればいいと思った。リリャはこの人の重しになりたくなかった。支えになりたかったのだ。そこでリリャはミハイルの支えを聞かなくてよかったと思った。
ミハイルが何かを言いかけたその時だった。砲弾が飛んでくる音がして、リリャはその場に頭を守り伏せた。地面から割れそうなほど激しい揺れがアパート全体を襲った。壁から小さな破片のようなものが崩れ落ちていく。
揺れが収まった時に気づいたが、リリャはミハイルに覆い被さられ守られていた。初めて会い森の中で狙撃されたときも、彼は迷わずリリャを守ってくれていた。そのことに守られてばかりである時情けなさが襲ってくる。
全員が飛び起きて居間の部分に集まった。アパートには直撃しなかったようだが、手前の広場が砲撃で抉れていた。
アレクセイとリリャは一度目が合った。しかし、先程のことはなかったかのように振る舞うアレクセイを見てリリャもそうすることにした。ぎくしゃくして連携に何か問題があってもいけないと思ったし、何もなかったかのように元に戻るのがよかった。
敵の攻撃は昼も夜も関係ないということを思い知らされた。こちらにも迫撃砲などがあればよかったが援軍が持ってくるのを待つのみだった。