5
背後で何かが弾ける音がした。小さな影のようなものが布団のあいだを飛び出し、めちゃくちゃな鳴き声を上げながらそいつに飛びかかった。あの猫だった。猫はしばらくのあいだ闇の中で格闘していた。そして最後にぎゃあ、と大きな叫び声を上げて、おとなしくなった。部屋はしんとしていて、木の床が軋む音だけが響いていた。僕は猫がそこから帰ってくるのを待った。何かしらの反応を期待していた。でもそんなものはいつまで経っても訪れなかった。
体全体が急速に冷えていった。なにかしなければ、と思ったけどどうすればいいのかわからなかった。僕は立とう、と思った。立たなきゃ、と思った。すると体が動き始め、よろけながら立ち上がった。自分の体だという感じはまったくなくて、地面の感触もなかった。でもやらなくてはいけなくて、それは猫には時間がないと思ったからだった。僕は足を交互に動かして走り出し、そのまま両手でそいつを突いた。手の平が麻酔されたみたいな変な感じで、ゴムの壁みたいな感触だけがあった。それが長い間続いた。冷たくて体から力が抜けていった。どこかへ吸い込まれていくような感覚があった。壁に沈み込んで前のめりに倒れていった。自分がどこにいるのかわからなくて、僕は叫び声を上げた。少なくとも上げようとして、暴れ回った。すると何かを掴んだ。柔らかくて熱を持っていた。それが生き物だと気付いた瞬間、地面に落下した。地面に胸を打ち付けて息ができなくなった。我に返ると目の前には冷たい金属の塊があって、ぞっとした。四つんばいになって地面を這い、遠くに見えている明かりのほうへ逃げた。
視界がぱっと明るくなった。眩しくて目を押さえた。何かがこっちへ近づいてきた。僕は手を振り回して逃げようとした。壁に穴が開いてそこに思い切り手を突っ込んだ。腕ごとそこに掴まれて動けなくなった。マナブ君、とそいつは言った。ミツグ君だった。それでなんとか落ち着いた。
「大丈夫?」とミツグ君は聞いた。
肩から先は障子の紙を破って、その向こうに突っ込んでいた。それをゆっくりと引き抜いて、それから僕はうなずいた。
ようやく光に慣れてきた。床の間はめちゃくちゃになっていた。日本刀は台座から落ち、掛け軸は床の上に折りたたまれていた。甲冑は倒れていて、兜が離れたところに転がっていた。その胴のところに何かがくっついていた。あの猫だった。猫は必死の形相で食らいつき、爪を何度も繰り出してそいつを引っかいていた。やがて敵の沈黙を確認して満足したのか、しっぽをブンブン振り回しながらそのあたりをぐるぐる周り、内股でゆっくりとこっちへ歩いてきた。そしてふてくされたような表情で僕とミツグ君のあいだに座り込み、前足を揃えなおした。
障子が開いて、おじいちゃんが入ってきた。どうした、何があった、とおじいちゃんは言った。
猫が、とミツグ君は呟いた。
おじいちゃんは眉間にシワを寄せた。「例の幽霊か?」
わからない、と僕は答えた。
おじいちゃんはため息をつき、何度かうなずいた。「今日は私の部屋で寝なさい」とおじいちゃんは言った。「ここは私が片付ける。ベッドはダブルだから、布団は一つでいい」
僕らはうなずいて、おじいちゃんの言う通りにした。足が震えて立てなかったけど、なんとか布団を二階へ運んだ。僕らは目も合わせず、黙って仕事に取りかかった。色んなことが頭に浮かんだけど、うまく話せる気がしなかった。下へ戻ると、大人たちが起きだして、散らかったものを元通りにしていた。僕らが戻るころには片付けはだいたい済んでいて、床の間にあったものはきちんと置きなおされていた。それでも僕と猫が障子に開けた二つの穴だけは、そのまま残ることになった。障子紙を切らしていたからだ。
しばらく縁側に立って様子を見ていると、おじさんが、あとはやっておくから早く寝なさい、と言った。僕らはうなずいて答えた。おじさんは後ろを振り返り、手をこまねいて僕らを呼んだ。僕らが近づくと、おじさんは何かを確認するように僕とミツグ君の顔を交互に見た。出たのか、とおじさんは小さな声で聞いた。ミツグ君は黙って首を横に振った。おじさんは何度かうなずき、わかった、と言って作業に戻った。
ベッドに寝転んでも、なかなか寝つけなかった。体を起こしてみると、ミツグ君も起きていて、天井の一点を見ていた。
出たのかな、とミツグ君は呟いた。
「たぶん」と僕は言った。
ミツグ君は僕を見た。そしてすぐに天井に視線を戻した。「誰かに話すとしたら、なんて言えばいいのかな」
「わからない。写真でも撮っておけばよかったね」
そうだな、とミツグ君は呟き、それから遅れて短く笑った。
「でもどっちでもいいような気がする」と僕は言った。
ミツグ君はうなずいた。
ねぇ、と僕は言った。
ミツグ君はこっちを見た。
「また来年もくる?」と僕は聞いた。
「しばらく来ないだろうな」とミツグ君は答えた。「次会うときは、たぶんオレたち中学生になってるぜ」
「そうだね」と僕は言った。
話すべきことはもうなかった。僕はベッドに寝転んで、まぶたを閉じた。おやすみ、とミツグ君は言った。おやすみ、と僕は言った。家はとても静かで、タカシが呼吸をする音だけが聞こえた。僕は夢を見ていた。誰もいない家の夢だった。カーテンの隙間から漏れた光が、テーブルの上に白い筋を作る。その傍らには猫が座っている。ミツグ君が話しかけていて、少しだけ意識を取り戻した。オレさ、いつか、とミツグ君は言って、そこで言葉を切った。ミツグ君は黙っていた。それには続きがあるはずだった。でも、それはミツグ君だけのものだった。僕は夢の中の猫に触れた。そしてそっとまぶたを閉じて、朝までの短い眠りについた。