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おじいちゃんと母さんとメグミおばさんの三人がバスに乗り、残りは車で帰った。家へ着いても、ミツグ君は機嫌を損ねたままだった。母さんの言いつけに従い、僕らはタカシの布団を片付けて、残った布団を少しだけ寄せた。そのあいだも、ミツグ君は黙りっぱなしで、目も合わせなかった。やがておじさんがやってきて、ミツグ君に謝った。もうからかったりしないよ、とおじさんは言った。ミツグ君は許す代わりに、こう言った。
「オレ、大人になったら改名するからね」
おじさんは眉間にシワを寄せた。「どうしてだ?」
「変だから。『ミツグ』なんて、騙されるやつみたいで、マトモな名前じゃないじゃん」とミツグ君は答えた。
「いい名前じゃないか。自信を持てよ」とおじさんは言った。
縁側のところで話を聞いていたおじいちゃんが口を開いた。「お父さんのせいじゃない。私が君の名前を考えたんだ」
「そうなの?」とミツグ君はおじさんに聞いた。
おじさんはうなずいた。
「誰にも邪魔されることなく自由な選択をし、周りの人も、進んでその後押しをする。私はそういう願いを込めて、君に名前をつけた。たしかに誤解を生むような名前ではある。そういうことにトンと疎かったのだ。すまなかったな」
ミツグ君はうなずいた。
おじいちゃんはニッコリ笑った。「昔から流行というやつが、どうも苦手でな。ナウいものには、ついていけんのだ」
そうでしょうね、とおじさんが気のない感じで言った。それで僕らは笑った。ようやく落ち着いてきたことがわかると、おじいちゃんは聞いた。「一緒に町へでかけないか?」
どこへ行くの、とタカシは目を輝かせて聞いた。おじいちゃんはミツグ君の方を見て、ミツグ兄さんが全部決める、と言った。僕とミツグ君はお互いの顔を見合わせた。
「本当にいいの?」とミツグ君は聞いた。
おじいちゃんは微笑んでうなずいた。
ミツグ君はいかにも平静そうな態度で、まぁ別に行ってもいいけど、と同意する意思を表明した。それで出かけることになった。レンガ調に舗装された歩道を歩いて、ガードのついた商店街を通り、駅前へ向かった。JRと私鉄が一線ずつしかない駅だけど、周辺はそれなりに盛っていた。大きなロータリーを囲むようにして、新品のシャレたお店や、潰れかけの黒ずんだビルがごちゃ混ぜになって建っていた。
すべては本当にミツグ君の思い通りだった。タカシはあっちへ行きたいと言ったけど、その願いが聞き入れられることはなかった。僕らはゲームセンターでクレーンゲームをやり、古びた百貨店を通り抜け、映画館でコーラを飲みながらくだらないアクションを映画を見た。ミツグ君がはしゃいでいたのは最初だけで、すぐに落ち着きを取り戻した。僕も何か楽しそうなものを探して、ミツグ君に教えてあげたかった。でも自信を持ってオススメできるようなものは何もなかった。
喫茶店でバナナとチョコのパフェを食べながら、最悪の映画だったな、とミツグ君は呟いた。それには同意せざるをえなかった。おまけにそのパフェはメニューの写真よりも一回り小さかった。インチキだ、とミツグ君は言った。ひどいもんだ、とおじいちゃんも言った。メニューの写真や表記に関するインチキは少し前に事件になって、本当は禁止されていることだった。そういう物事のなんたるかを知らないタカシは、チョコまみれの口をぽっかりと開け、不思議そうにみんなの顔を見ていた。
もうすぐ五時半で、日が暮れてきていた。窓の外から夕日が差し込み、テーブルの上にコップの透明な影を作った。おじいちゃんは僕らに様々な質問をした。受験勉強の調子はどうだ、仕事の手伝いは大変か、母さんは元気か、泣いたりしてないか。僕らはそれぞれの質問に順番に答えた。おじいちゃんはさらに質問を続けようとして、大きな咳をした。長く、苦しそうな咳だった。おじいちゃんは顔を真っ赤にして、頬を震わせていた。僕らはそれが終わるのを見守った。若い男の店員や、周囲の客もそうしていた。やがて呼吸を整えて落ち着くと、おじいちゃんは水を飲んで長いため息をつき、心配するな、と言った。そしてしばらく考えたあとで、質問を続けた。
「二人とも、将来なりたいものはあるか?」
僕らは黙っていた。僕はそういう質問には会社員と答えることに決めていた。父さんがそうだから、と言えばみんな納得するからだ。でも今は、そんなことは言えそうになかった。おじいちゃんは店員を呼んで、水のおかわりを頼んだ。すぐにそれはやってきた。店員はプラスチックのピッチャーを傾け、ガラスのコップに水を注いだ。透明なコップの影の中で、水の影が崩れて揺れた。おじいちゃんはそれを少しだけ口に含んで、ゆっくりと飲んだ。僕らが黙っていると、おじいちゃんは質問を変えた。
「なりたいものなんてない、か?」
僕はうっかりうなずいてしまった。ミツグ君もそうした。やっかいな小言が飛んでくるかと思ったけど、おじいちゃんは何もなかったような顔で、そうか、と言っただけだった。結局それが最後の質問になった。
帰り道の途中で、おじいちゃんはタカシに魚釣りのことを尋ねた。タカシは本当に楽しんだようだった。あの川がうちにもあったらいいのに、とさえ言った。二人は手をつなぎ、僕らはその後ろを並んで歩いた。
晩御飯はメグミおばさんとおじさんで作った。テーブルいっぱいにたくさんの小料理が並べられた。それぞれに一枚ずつ白いお皿が渡され、バイキングみたいにして食べた。ニジマスの残りに加えて、鯛のお造りやサーモンのマリネなど、海の幸を中心とした様々な料理があった。その中にはおじさん達のじゃがいもを使った、マッシュポテトもあった。
僕らはとにかく食べた。お腹が空いていたからか、とても美味しく感じた。競うようにしてみんなが箸を伸ばし、量の少ない順からあっという間に片付けられていった。特にマッシュポテトは大人気で、何も入ってないシンプルなものだったけど、一番最初になくなった。おじさんが台所からラム酒を持ってきて、大人たちでそれを飲んだ。島の地酒なんだとおじさんは言っていた。父さんは明日帰りの運転をするからといって、ほんの少ししか飲まなかった。かわりに母さんが飲むことになった。大人たちの話題は若い頃のおじいちゃんについてだった。母さんは決壊したダムみたいに話しまくり、メグミおばさんとおじさんは楽しそうに聞いていた。やがて落ち着いたのか、でも親ってそういうものよね、という結論に至った。おじいちゃんは何を言われてもずっとニコニコしていて、悪かったよ、と最後に言った。
やがて会はお開きになり、おじさんが後片付けを始めた。ミツグ君もそれを手伝った。僕はデザートのアイスクリームを食べて、お風呂に入ることにした。脱衣所の鏡を見ると、頬や腕が日に焼けて真っ赤になっていた。僕は痛みを我慢して慎重に体を洗い、湯船につかった。今日はずっと動いていたから、疲れていた。そのまま眠ってしまいそうだったけど、なんとか風呂から上がった。和室へ戻っても頭がボーっとしていて、何も手につかなかった。いつの間にかミツグ君がやってきていて、僕に何か話しかけていた。眠たくて、何を言っているのかわからなかった。先に寝るよ、と僕は言った。まだ八時だぜ、とミツグ君は言った。それでも僕が支度を済ませて布団へ入ってしまうと、電気を消して出ていった。僕は大きく息を吐いて、まぶたを閉じた。居間にいるみんなの話し声がかすかに聞こえた。それを聞いていると、よく眠れそうだった。
トイレへ行きたくて目を覚ました。今日は満月で、外は明るかった。門の向こうの狭い通りや、庭に植えられた大人の背丈ほどの松が見えた。庭一面に敷き詰められた白い石も、昨日とは違って一つ一つクッキリと見えていた。
布団に入ってまぶたを閉じたものの、二度目はなかなか寝つけなかった。障子を透かして部屋の中にも青白い光が差し込み、色んなものが浮かび上がって見えていた。僕は布団に入ったまま、首だけ曲げて横を見た。ミツグ君は唇を軽く開けて、静かに寝息を立てていた。それを見ていると、なんだかミツグ君が幼い子供になったように感じた。
庭の方で、何かが弾けるような音がした。布団をまくって、体を起こした。あれは何の音だろうと思った。ロケット花火に似ていたけど、それとも少し違うし、他の音もしなかった。並んだ障子には松の影が映っていた。風が吹いて、松の影が揺れた。それから障子紙がいっせいに揺れて音を鳴らした。
僕は体を起こしたままじっとしていた。部屋はしんとしていて、心臓の鳴る音が自分で聞こえた。手にはじっとりと汗をかいていた。冷たい何かが腕に触れて、飛び上がりそうになった。ミツグ君だった。ミツグ君は口をぽっかり開けて縁側のほうを見ていた。僕はその視線を先を追った。部屋には月明かりが差し込んでいるのに、そこだけ黒く塗りつぶされているように見えた。
闇の中で、木の床が軋んで音を立てた。そこにはたしかに何かの気配があった。その存在を認めないわけにはいかなかった。