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 翌日はよく晴れて、でかけるには絶好の天気だった。朝ごはんを食べ終わり、みんな慌しく準備をした。おじいちゃんは釣りの道具を持ってきて、車に積んだ。父さんたちも着替えて、おじいちゃんを手伝った。タカシは直前になって気が変わったのか、

急にウキウキし始めた。ミツグ君はあまり乗り気じゃないみたいで、魚釣りなんていつでもできるのに、なんて言っていた。


 車は五人乗りだったので、僕とミツグ君とおじいちゃんはバスで行くことになった。駅前まで行くとバスはちょうど来たところで、僕らは急いで乗り込んだ。僕とミツグ君は並んで座り、おじいちゃんはその後ろの席に座った。釣りは初めてか、とおじいちゃんは聞いた。僕はうなずいて答えた。途中の停留所で黄色の帽子を被った小さな子供たちが乗ってきた。それでバスの中は急にうるさくなった。奇声を発するものがいれば、歌いだすものもいた。伝染するみたいにして他の子供も歌いだしていき、最後には大合唱になった。引率の大人たちは微笑んでいた。優先席に座っていた二人のおばあちゃんは揺れながら手拍子していた。ミツグ君はため息をついた。僕は窓の外を見てやり過ごした。周囲の風景はすっかり変わっていて、歩道のない道路を挟む林の向こうには、遠くまで続く平野が見えた。歌が終わると、おばあちゃんたちは陰陽師の呪いの言葉を吐くかわりに、アンコールをした。しかし幸運にもそれはマイナスの効果を与えたようで、子供たちは途端にモジモジし始め、最後にはおとなしくなった。


 やがてバスは森の中を進み始めた。小高い丘を登って、曲がりくねった道を進んだ。周囲には建物と呼べるようなものは見当たらず、切り立った崖の下には、川の流れが見えた。しばらく走ったところで、寂れた小さな駅に停まった。駐車場ばかり異様に広くて、店は一つもなかった。子供たちは大騒ぎしながらバスを降りた。僕らの目的地もそこだった。バスを降りると、川の流れの音が聞こえた。空気はひんやりとしていて、森の香りがした。そこから少し道沿いを歩くと、渓流の管理所が見えてきた。管理所は丸太を重ねて作った建物で、端の方に小窓のついた受付があった。おじいちゃんはそこで三人分の料金を支払った。ついでにエサも買った。おじいちゃんはイクラを選び、プラスチックの容器に入ったそれを受け取った。

 おじいちゃんが母さんに電話をかけた。五人はもう着いているらしかった。僕らは渓流沿いを歩いて、みんなのところまで行った。母さんたちは荷物も広げず座り込み、日焼け止めのクリームを塗っていた。おじさんだけはさっそく始めていて、ちょうど一匹釣り上げたところだった。おじさんは竿を持ち上げて魚を寄せ、針から外して灰色のバケツに放り込んだ。

 僕とミツグ君とおじさんはそこから離れて、下流の方へ向かった。少し行ったところでミツグ君が立ち止まったので、そこでやることに決まった。川幅は十メートルくらい、底が見えないくらいの深さで、向こう側は低い崖になっていた。砂利の上はちょうど日陰になっていて、涼しかった。僕らはその上に折りたたみ式の椅子を二つ並べて、道具の準備に取りかかった。

 ウキや糸などの竿の支度はおじさんがやってくれた。おじいちゃんが持ってきたその竿は、二メートルちょっとくらいのやつで、ブルーの装飾が施されていた。ミツグ君はレンタルのを使った。先と柄の中間のところから、オレンジと銀に色分けされていた。

「島民代表として、マナブ君にいいとこ見せてやれ」とおじさんは言った。

 ミツグ君はそれを無視して、ため息をついた。

 エサのイクラを装着し、さっそく竿を振って、針を投げた。糸はひゅるひゅると竿の穴を滑っていき、川面の真ん中に着地して、ゆっくりと沈んでいった。僕は椅子に座ってじっと待った。なかなか反応が訪れなかったので、糸を引いたり、出したりした。すぐに糸が絡まってしまって、リールは動かなくなった。おじさんは糸を水面から出し、それを直してくれた。

 早く一匹目を釣り上げて、コツを掴みたかった。なにか感触みたいなものがあったので巻いてみたけど、何も釣れていなかった。それで針を投げなおした。感触はあったけど、何もなくて、そういうことが何回か続いた。糸は何度も絡まり、その度におじさんがそれをほどいてくれた。イクラは何粒か無駄になった。ごめんなさい、と僕は言った。いいんだ、とおじさんは言った。

 僕らの竿はまったく動かなかった。ただ川の流れに任せて、揺れているだけだった。そのうち来るから大丈夫だよ、とおじさんは言った。僕はうなずいた。名人様はどうだ、とおじさんはミツグ君に言った。ミツグ君は両足を投げ出して座ったまま、黙っていた。

「釣りにはコツがあるんだ。知ってるか?」とおじさんは僕に聞いた。

 僕は首を横に振った。

「ずばり、顔だ。女にモテりゃあ、魚にだってモテるんだ。まいったぜ、こりゃ」おじさんは自分で言って自分で笑った。僕も頑張って笑顔を作った。

「違うね。こんなの運だ」とミツグ君が言った。

 おじさんは笑うのをやめた。そしてミツグ君の方を見て、場所を変えようか、と言った。

 いい、とミツグ君は答えた。

「ここはあんまりよくないよ」とおじさんは言った。「あっちで一緒にやろうぜ」

 ミツグ君はため息をついた。

 ちょっと手伝ってやるよ、と言って、おじさんはミツグ君の方へ手を伸ばした。ほっといてくれよ、とミツグ君は叫んだ。そして手の甲で目のあたりを擦った。おじさんはとても悲しそうな顔をした。でも怒ったりはしなかった。唇を噛んで視線を落とし、あとで迎えに来るからな、と言って去っていった。

 いつもああなんだ、とミツグ君は言った。僕は何度かうなずいた。


 たしかに僕らにはツキというものがなかった。一匹も釣れず、その気配さえなかった。僕はすっかり飽きてしまって、眠くなってきた。それからすぐに糸が絡まったけど、自分ではどうにもできなかった。ミツグ君に頼めそうな雰囲気でもなかった。僕は竿を砂利の上に放り投げ、椅子にふんぞり返って座った。そのままじっとしていると、ミツグ君は自分の竿を僕に渡してきた。僕は首を横に振った。ミツグ君はそれを僕とのあいだにあった大きめの石に立てかけて、そのまま放っておいた。やっていいよ、とミツグ君は言った。とてもじゃないけど、そんな気にはなれなかった。僕らは股のあいだで指を組み、ふらふら揺れている糸をぼんやりと眺めた。

「東京に住んでるのって、羨ましいよ」とミツグ君は静かに言った。

「どうして?」と僕は聞いた。

 ミツグ君は肘から先をだるそうに動かして、川面に石を放った。「だって、色んなものがあるだろ」

 そうだけど、と僕は言った。

「そうだけど、なに?」とミツグ君は聞いた。

「なに、って言われても、なんだろうな。わかんないよ、そんなの」

 ミツグ君はそれ以上のことは追及しなかった。黙ってため息をつき、もう一つ石を放った。しばらくそうしてダラけていると、少し上流の方で遊んでいた家族の子供が、こっちへやってきた。三歳くらいの男の子で、赤い野球帽を被っていた。釣れた、とその子は聞いた。僕は空のバケツを見せてやった。ねぇ、とミツグ君にも聞いた。ミツグ君はそれを無視した。その子は何回も聞いて、ミツグ君にまとわりついた。そして何度目かで突き飛ばされて、ふらふらと後ろ向きに歩き、そこで尻餅をついた。すぐに母親と思しき若い女の人がすっとんできて、ようやく泣き始めた我が子を抱きかかえた。女の人は明らかな敵意を持ってミツグ君のことを睨みつけていた。なんてことするの、あなたどこの子よ、と女の人は言った。ミツグ君は静かに言い返した。そいつが先にやったんだ、嫌ならちゃんと見ておけばよかっただろ。それを聞いた瞬間、女の人は思い切り眉を寄せた。そしてそのままの表情で男の子を抱き上げ、こわかったねぇ、とあやしながら向こうへ行ってしまった。

 僕らは黙っていた。ずっと向こうで、女の人がこっちを指差した。一家は荷物を抱え、どこかへ去っていった。僕はあの子のことを、少しだけ気の毒に思っていた。悪気があったようには見えなかったからだ。

 ねぇ、と僕は言った。

 ミツグ君は何も言わず、水面の一点を見ていた。

「もしかして、釣りが苦手なの?」と僕は聞いた。

 ミツグ君は何かを言おうとして口を開けた。そのときだった。竿の先がグン、と曲がった。僕らはお互いの目を見て、竿を譲り合った。やりなよ、とミツグ君は言った。ミツグ君がそうしなよ、と僕は言った。遠慮してるんじゃなくて、どっちでもよかったのだ。譲り合いはいつまでも終わらず、やがて竿は引っ張られる力で岩から滑り落ち、地面に倒れた。そしてそのときにはもう、獲物は逃げていた。竿の先はすっかり元通りになってしまって、そこから垂れる糸が、川の流れに揺らされていた。ミツグ君は念のため糸を巻いた。案の定、エサだけはなくなって、糸の先で釣り針だけが揺れていた。ミツグ君は釣り針についていた血をじっくりと眺めたあと、黙って後片付けを始めた。

 結局僕らの釣果はゼロだった。母さんもだ。タカシと父さんはヤマメを一匹ずつ、メグミおばさんとおじいちゃんは複数のニジマスを釣り上げていた。おじさんは大漁で、一人で七匹釣っていた。それらを管理所の脇にあるレストランへ運び、塩焼きにしてもらって食べた。釣れなかった僕らの分も用意された。でもミツグ君だけは頑なに断って、ラーメンを食べた。たしかに釣りたての魚は美味しかったけど、何か釈然としないものが残った。

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