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翌日は魚釣りへ行くはずだったけど、雨天延期になった。せっかくだからミツグ君たちも、ということだった。お昼にラーメンを食べに行って、あとはほとんど家でじっとして過ごした。ジメジメして居心地が悪かった。体もなんとなく重くて、何もする気になれなかった。勉強はまったく捗らず、テレビは昨日と同じ高校野球だった。たまにはゆっくりするのも良いわよね、と母さんは言った。あのタカシまでもがそれに同意し、そのまま床に倒れて寝てしまったくらいだった。
二時半ごろになって、母さんの携帯電話に連絡が来た。その話しぶりからすると、どうやら一家は駅に着いたようで、父さんが車で迎えに行くことになった。父さんが出発して五分もしないうちに、雨は止んだ。タカシは落ち着かない様子で、あちこち動き回っていた。どうしようどうしよう、と僕に言った。やがて砂利を踏みつけるタイヤの音が聞こえてきた。車のドアが開いたり、閉まったりもした。迎えに行きなさい、と母さんに言われて、タカシは駆け出していき、おじいちゃんと母さんもそれについていった。僕は一人で居間に残り、テレビを見た。家の外から子供の声が聞こえた。おじいちゃんこんにちは、とそいつは言った。大人たちの笑い声も聞こえた。いくつかの足音がこっちへ近づいてきていた。僕はテレビに集中しようとしたけど、無理だった。障子を開けて、誰か入ってきた。マナブ君、と女の人の声がした。透明感のある白いワンピースを着た女の人が、そこに立っていた。ほとんど化粧をしていなくて、そのせいで長めの黒髪と太い眉が際立って見えた。女の人はニッコリ笑って、よく通る声で言った。
「こんにちはマナブ君、お久しぶりね。私のこと覚えてるかしら」
こんにちは、と僕は言った。続いて子供も入ってきた。マナブ君、とそいつは言った。「お久しぶり」
ひさしぶり、と僕は言った。どうやらこれがミツグ君なのだと思った。ミツグ君は僕と同じくらいの背丈で、よく日に焼けていた。デブなやつを想像していたけど、少し痩せているくらいだった。大きなリンゴが描かれた白いシャツを着ていて、髪の毛は短く、あちこちの方向にはねていた。
「何年生?」とミツグ君は聞いた。
五年、と僕は答えた。
「同い年だって何度も言ったでしょう」と女の人は言って、ミツグ君の頭を小突いた。
母さんがやってきて、女の人と何か話した。子供たちだけ和室で寝かせましょう、ということだった。女の人は母さんのことを『姉さん』と呼んだ。この女の人がメグミおばさんなのだと思った。母さんと五歳しか違わないはずなのに、母さんよりもずっと若く見えた。すぐにおじさんもやってきた。おじさんはミツグ君と同じようによく日に焼けていて、顔の彫が深く、髪の毛は縮れていた。マッチョな人を想像してたけど、背格好も腕の太さも、勤め人の父さんとあまり変わらなかった。おじさんは僕を見つけると手を上げて、よう、元気か、と言った。おじさんが微笑むと、唇の端にシワができた。僕は軽く頭を下げて答えた。
「オレ、和室は嫌だよ」とミツグ君はおじさんに言った。「幽霊が出るんだって何回も言ったでしょ。あのよろい、動くんだぜ」
大丈夫だって、と言って、おじさんは僕を見た。「マナブ君は幽霊なんて信じてないよね?」
僕はうなずいて答えた。
「信じてないやつがいるときはでないさ。怖がってもらえないんじゃ、幽霊だってバカバカしくてやってらんないだろ。マナブ君がいりゃあ平気さ」
メグミおばさんがやってきて、おじさんの肩をつついた。それで二人はどこかへ行った。
ホントなんだぜ、とミツグ君は僕の目を見て訴えた。
僕はあいまいにうなずいた。
縁側で聞いていたおじいちゃんが口を挟んだ。「幽霊くらい出ても、おかしくはないよ。供養はしてあるが、なにしろ古いからな」
ほらな、とミツグ君は言った。
メグミおばさんに呼ばれて、ミツグ君は荷物を片付けにいった。僕は居間に残ってテレビを見ることにした。優しそうな人たちで、心の底からホッとした。これならなんとかやっていけそうだった。
ミツグ君たちの作業が済むと、でかけることになった。歩道はまだ濡れていて、念のため傘を持っていった。僕らは市街を通る細い道路を進み、町の裏手にある林のへ向かっていた。目的は墓参りだった。夕方で雨なんて縁起でもないわね、と母さんが言った。舗装されていない道を歩いて雑木林の中を進んでいくと、すぐに霊園に着いた。周囲を林に囲まれた小さな霊園で、テニスコート二つ分くらいの広さだった。草むしりや掃除は係員がやってくれる仕組みになっていて、僕らがやるべきことはその縦長の墓石に水をかけて、線香を立てるだけだった。
「死んだおばあちゃんの顔、見たことある?」とミツグ君は聞いた。
僕は首を横に振った。写真で一度見たことがあるけど、もう忘れてしまった。
ミツグ君は何か言おうとして、やめた。メグミおばさんがこっちを見ていたのだ。
すぐにその儀式が始まった。僕らは順番に墓の前に立って、手を合わせた。まずはおじいちゃんで、次が母さんと父さん、さらにメグミおばさんとおじさんがやって、その次が僕だった。死んだ先祖に対して何を思えばいいのかわからなかった。なにしろ顔もわからないのだ。たぶんそれは向こうも同じだ。おまけに母さんもメグミおばさんも結婚後は旦那の姓に変わっていたので、おじいちゃん以外は苗字が違った。墓石に刻まれたその『小津』という文字を見ていると、なんだか他人事みたいに思えてきた。
それでもなんとか見様見真似で事を済ませた。ミツグ君もそうした。問題はタカシだった。タカシはずっとニタニタしていた。笑ってはいけないということはわかっているのだが、かえってそれがおかしくてしょうがない、という感じだった。父さんは肩膝をついてタカシの肩に手を置き、真剣にやれ、と言った。タカシはほんの一瞬だけ真剣な顔つきになり、すぐに肩を震わせて笑い始めた。そしてひいひい言いながらなんとか手を合わせ、母さんのきつい一発をもらった。
晩は宅配のお寿司を注文した。注文から三十分でお寿司はやってきた。大人たちはテーブルを壁に寄せてそこへ座り、僕ら子供は二階から持ってきた四角いちゃぶ台を囲んだ。缶のビールやグラスが運ばれてきて、あちこちに置かれた。おじさんは父さんと何か話していた。暇な時期に果物を作ってるんだけど、今度新しくドラゴンフルーツに手を出そうと思っている、というような内容だった。母さんとメグミおばさんは共通の知人についての話をしていた。ミツグ君とタカシはわき目も振らずお寿司を食べた。おじいちゃんだけは箸も持たずにじっとしていて、みんなの顔を見て微笑んでいた。
明日のこともあるので、早めに寝ることになった。ミツグ君は甲冑からずっと離れたところに布団を敷き、ほんとだぜ、と言った。タカシは怖がって、お母さんの布団で寝たいと言ってベソをかき始めた。つっぱねてやろうかと思ったけど顔が土気色で、真剣に怖がっているのがわかった。それで僕らは居間へ行って、父さんに相談した。父さんはテレビを見ながら僕らの話を聞いた。決していい顔はしなかった。すぐにおじいちゃんが名乗り出て、二階の寝室で一緒に寝てもらうことになった。タカシはなんとか落ち着いたようで、抵抗する様子もなくおじいちゃんに連れられていった。
僕らは和室に戻って、布団の上に座り込んだ。
「怖くないの?」と僕は聞いた。
「マナブ君がいれば大丈夫」とミツグ君は答えた。
さっきはあんなに怖がってたのに、と僕は思った。
「小さい頃に見たってだけで、今じゃ半分冗談みたいなもんだからさ」とミツグ君は言った。「タカシ君には悪いことしちゃったな」
「何を?」と僕は聞いた。
「何をって、何の話?」とミツグ君は聞き返した。
「小さい頃、何を見たの?」
ミツグ君は布団に座ったまま、縁側の方を指差した。「何かがあそこにいて、障子にその影が映っているのが見えた。そいつはゆっくりあそこを歩いてたんだ。オレはギャーギャー泣いてさ、だってタカシ君と同じくらいの年の頃だったからな。とにかくオレが騒いだせいで父さんも母さんも飛び起きちゃって、それで父さんが電気を点けた。そしたらもう何も見えなかったよ。冷静に考えると、よろいが動いたとかそういう話じゃないんだよ。よくあるだろ、そういう怪談がさ。たまにそれとごっちゃになるんだよ。ところでさ、ああいう話って変だと思わない?だって幽霊なのに、わざわざよろいなんて着る理由ないだろ。自由に動き回れるのにさ」
僕はそれには答えず、聞いた。「猫じゃないの?」
ミツグ君は首を横に振った。「あの頃は猫なんていなかったよ」
そうかもね、と僕は言った。
電気を消して、布団に入ることにした。いまさら片付けるのも面倒なので、タカシの布団はそのままそこへ置いて、僕らは両脇の布団で寝た。目をつぶっても、うまく眠れそうになかった。ミツグ君も同じみたいだった。それで僕らはお喋りを続けた。ミツグ君は僕の生活について聞きたがった。ミツグ君には新鮮なことばかりだったようで、僕の話を熱心に聞いていた。学習塾の用事以外では携帯電話を持てないことや、マンションからスカイツリーが見えることを話した。僕が中学受験をすると言うと、まず私立の中学があることに驚いていた。
「東京は楽しい?」とミツグ君は聞いた。
べつに楽しくはないよ、と僕は答えた。それが正直な感想だった。でもミツグ君に言わせると、僕のそういうところは『シティ・ボーイっぽい』ということになるらしかった。よくはわからなかったけど、悪い気はしなかった。
「ミツグ君たちが住んでる島って、どんな島なの?」と僕は聞いた。
「どんな島だろうな。わかんねえ。本土よりは小さくて、人もいないし、建物だってない」
「コンビニはあるの?」
あるよ、と言ってミツグ君は笑った。「そんなにひどくないよ」
「ゲームは?」
「ネットで買う。注文はこっそり出来るけど受け取りでバレるから、誕生日くらいしか買えない」
「島の生活は楽しい?」と僕は聞いた。
まぁまぁかな、とミツグ君は答えた。「なんにもないし、仕事の手伝いもしなくちゃいけないし、とにかく面倒だよ」とミツグ君は答えた。
そう、と僕は言った。それを最後に話すこともなくなり、どちらともなく黙った。部屋はしんとしていて、居間の方から誰かの声が聞こえた。女性の声だと辛うじてわかるくらい、かすかに聞こえていた。寝ようかと思ってまぶたを閉じたところで、ミツグ君は静かに口を開いた。
「オレの名前、変だと思わない?」
突拍子もない質問だったけど、一応それについて考えた。「変だとは思わないけど、どうしてそんなこと聞くの?」
「『女にミツグ』みたいだろ」
「でも、そういう意味じゃないんでしょ?」
ミツグ君はうなずいた。「世に出ていくとか貢献するとか母さんの名前の『メグミ』からとか、色んなことを考えてつけたって父さんは言ってた。でもオレは、なんか納得いかないんだよ」
そうなんだ、と僕は言った。
ミツグ君はあいまいな返事をしただけで、それ以上のことは言わなかった。僕には難しい話だった。仮に『女にミツグ』だったとして、それの何が悪いのかもわからなかった。父さんだって、たまにはプレゼントを買ってくることがある。どちらかと言えば、それは良いことのように思われた。父さんも母さんも、そういう日だけはおそろしく機嫌が良いからだ。考えても、結論は出なかった。ミツグ君は黙っていて、静かに呼吸をしていた。僕としてはまだ話したいことがあるような気がした。でも質問を考えているうちに、ミツグ君はいつの間にか寝てしまっていた。話しかけたけど返事はなかった。それで僕も諦めて、寝ることにした。
二時ごろに一度目を覚ました。その夜も、猫は縁側の同じ場所に座っていた。なんとなく予想できたし、あまり気にはならなかった。おい、と僕は小さな声で言った。猫は前足を揃えなおしただけで、見向きもしなかった。