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夏休みだというのに、どこかへ出かけようという気配はなかった。僕は毎日毎日汗を拭いながら学習塾へ行って、夏を制するものは受験を制す、と顔を真っ赤にして叫ぶ講師の話を聞いた。タカシは小学校へ上がって初めての夏休みでエネルギーを持て余しており、『三日れんぞく何もありませんでした』と絵日記に嫌味を書いて父さんに見せていた。でもそんなことでは何も変わらないということくらい、僕にはわかっていた。案の定、父さんは露骨に嫌な顔をして、その調子で宿題をやれ、とその訴えを退けた。
それでも八月の第二週に、母さんの実家へ行くことになった。その家は田舎とも都会ともいえない中途半端な地方都市にあり、今はおじいちゃんが一人で住んでいた。娘は二人ともお嫁に行き、おばあちゃんは二十年以上前に死んでいたから、おじいちゃんはずっと一人で生きてきた。親戚として、放っておくわけにはいかない。だから訪ねて行くのだ、と父さんは聞いてもないのに言った。
僕とタカシはすぐに荷物をまとめた。お墓参りにも行く予定だったので、チクチクするような外行き用の服も着た。母さんは手こずっていて、見てわかるくらい機嫌が悪かった。それが伝染するみたいにして、父さんの表情がだんだん暗くなっていった。タカシは二人の状況を把握できておらず、ゲームを持っていきたいと駄々をこねて母さんにまとわりついていた。それから何が起こるのかは予想できた。僕はそっと部屋に戻ってドアを閉め、漫画を読んだ。できればもっと遠くへ避難したかったけど、そんな余裕はなかった。すぐに叫び声が聞こえてきた。叫び声は連鎖して響き、タカシが泣きながらこっちへ来てしまったので、最後には僕の部屋にも届いた。
予定時刻を三十分ほど過ぎたところで、ようやく出発した。まだ朝の八時半で、通り沿いには背広を着た人々の姿があった。父さんはカーナビの指示に従い、寄り道せずまっすぐに車を走らせた。母さんは助手席で携帯電話をいじっていて、タカシは窓の外を見ていた。騒ぎは持ち越されたままで、みんな黙っていた。町々を抜けて高速道路へ入ったところで、ようやく母さんが口を開いた。
「ねぇマナブ」母さんは肩越しにこっちを見た。「ミツグ君のこと、覚えてる?」
僕は首を横に振った。
「だれ?」とタカシは聞いた。
「あなたたちの従兄弟。メグミおばさんには会ったことがあるでしょ。今年はあの人の旦那さんと、息子も来るの」
「いとこ?福岡のお兄さんのこと?」とタカシは聞いた。
「そうよ。でもミツグ君はお母さんの方の従兄弟」
ふうん、とタカシは呟いた。
母さんは催促するように僕の名前を呼んだ。
覚えてない、と僕は答えた。その従兄弟の話は三千七百回くらい聞かされていたけど、記憶にはなかった。なにしろ今から十一年前のことで、そのとき僕らは出来たてほやほやの赤ん坊だったのだ。歴史に出てくる偉人じゃあるまいし、そんなことを覚えているわけがなかった。
母さんがニッコリと笑い、記念すべき三千七百一回目を話そうとしたところで、父さんが口を挟んだ。「従兄弟の顔くらい覚えてなくてどうするんだ」
「だってこの子はまだ赤ちゃんだったのよ。ミツグ君だって。たった二ヶ月違いだったんだから」母さんはため息をついた。「覚えてるわけないでしょ」
「じゃあ『覚えてる?』っていう質問はおかしいだろ」と父さんは言った。
母さんは声のトーンを上げた。「言葉のアヤでしょう。いちいち突っかかってこないでよ」
エンジンの音が聞こえた。窓の外を見ると、平べったくて赤いスポーツカーが僕らの車を追い抜いていった。流れていく車と車の間をぬって、どんどん先へ進んでいった。田舎者が、と父さんが言った。みんなしゃべるのをやめた。僕は文庫本の続きを読んだ。中学の受験のために読まなきゃならない本だった。面白くないところをずいぶん読み飛ばしたので、内容がまったくわからなかった。ときどき窓の外を見ながら、ページをめくったり、戻したりして暇をつぶした。
県境を越えてさらに一時間ほど走り、高速道路を降りた。タカシは寄り道したがったけど、もうすぐのところだったので、黙らされた。森に挟まれた片側三車線の道路を進み、駅へと続く長い通りへ出た。背の低い建物がずっと向こうまで並んでいて、その多くが道路に面した駐車場を設けていた。おかげで視界が開けていて、青空がよく見えた。そこから一本内側の路地へ入り、家々に囲まれた十字路を何度か曲がると、おじいちゃんの家に着いた。おじいちゃんの家は木造の二階建てで、庭に面した長い縁側があるような、古い日本家屋だ。僕らは砂利の上にテントを張ったところへ車を停めて、荷物を降ろした。クーラーの利いた車内から出ると、外は暖かくて、心地よかった。セミの鳴き声もあちこちから聞こえた。おじいちゃんはすぐに玄関から出てきて、僕らを見つけると微笑んだ。そして、いらっしゃい、と言って僕とタカシの頭を片方ずつの手で撫でた。おじいちゃんは独特の匂いがした。タカシがなにが言い出さないか不安だったけど、空気を読んだようだった。
従兄弟の一家はまだ来ていなかった。今夜の船で出発し、明日の昼頃本土に着く、とのことだった。僕とタカシは言いつけに従って和室へ荷物を持っていき、畳の上に座った。部屋の隅には床の間があり、仏壇の横に、古い甲冑と、三本の日本刀が飾ってあった。日本刀は本物で、脇差というちょっと短いタイプのものだとおじいちゃんが説明してくれた。甲冑は室町時代のもので、兜から足袋までの一そろいあり、小さな黒い椅子に座らされていた。金色の装飾を施したようなものとは違って、大したものじゃなかった。色合いは全体的に黒く地味で、胴のところは丸っこくて黒い板にネジの跡みたいな点々がついているだけだった。僕らはエアコンのスイッチを入れて、それらをひとしきり眺め回した。
しばらくして、タカシは聞いた。「どんな人たちが来るのかな?」
そんなことを僕が知っているはずがなかった。
ねぇ、とタカシは言った。
知るわけないだろ、と僕は答えた。
「どんな島なの?」
僕はため息をついた。無視しようかとも思ったけど、答えてやった。「コンビニもないような、ド田舎の島だよ」
コンビニも、とタカシは呟いた。そして甲冑の方を見てぽっかりと口を開けた。「ゲームはあるの?」
「ない」
「どうして?」
「ゲーム屋がないから。アマゾンもこないし」
タカシはしばらく考えてから聞いた。「じゃあ何して遊ぶの?」
「山で虫を捕ったり、海で魚を釣ったりして」と僕は答えた。
タカシは眉間にシワを寄せた。何か考えているみたいだった。すぐに母さんが入ってきて、居間にくるように言った。僕らは揃って返事をした。タカシはまだ何か聞きたがっていた。そんなの面白くないのに、ということだった。本人に聞けよ、と僕は言った。
僕らは居間に集まって背の低いテーブルを囲み、冷たい麦茶を飲みながらテレビを見た。僕だけは勉強しなければならなかったので、盗み見るような格好になった。部屋の隅に設置されたそのテレビでは、高校野球の中継をやっていた。父さんはいつも地元の代表を応援していて、その高校はすでに敗退していたけど、それなりに楽しんでいるようだった。ストライクゾーンが広すぎるとか、それを打たなきゃ何を打つんだ、とか言っていた。母さんも普段は野球なんて観ないけど、どの高校にすごい投手がいるとか、春夏連覇したことがあるとか、そういうことをよく知っていた。
ふと呼ばれた気がしてタカシを見ると、こっちを向いて何か言っていた。聞こえない、と僕は言った。ねこ、とタカシは大きな声で言った。父さんがテレビのボリュームを下げた。耳を澄ますと、たしかに猫の鳴き声が聞こえた。おじいちゃんは立ち上がって縁側へ近づいていき、障子を開けた。そこに猫が座っていて、こっちを見ていた。首輪のない白い猫で、ところどころに茶色と黒のぶちがあった。三毛猫というやつだ。前足を揃えて座り、ふてくされたような顔をしていた。おじいちゃんを見つけると、小さくアゴを下げて鳴いた。母さんも猫の近くに行って、ゆっくりと頭の方へ手を伸ばした。猫は抵抗する様子もなく、素直に撫でさせてやっていた。
女の子かしら、と母さんは言った。
「オスだよ」とおじいちゃんは答えた。
「なんて名前なの?」とタカシは聞いた。
「名前はないんだ。つい最近、やってきたばかりなんだよ」
「野良猫なの?」
おじいちゃんはうなずいた。「そうだよ。でもすっかりここの家に馴染んだ。エサもトイレもここで済ませてる。だから今度お医者へ行って、手術をしなけりゃならない」
「どうして?どこか悪いの?」
おじいちゃんのかわりに、父さんが答えた。「子供を作れないようにするんだ。放っておくとあっという間に増えて、そこいらじゅう子猫だらけになる」
子猫だらけ、とタカシは呟いた。理解できていないみたいだった。
「猫が苦手な人もいるのよ。触るとお肌にブツブツが出たり、病気になったりすることもあるの。かわいそうでしょう?それにおトイレだって、野良はそこらの庭で勝手にしちゃうんだから」と母さんは言った。
タカシは母さんの方を見た。「それって痛いの?」
痛くなる人もいるわね、と母さんは答えた。
おじいちゃんが二階へ行くと、猫もそれについていった。タカシはその場で動かずにいた。キンタマをハサミで切り取るんだ、と僕は言いたかった。でも余計にややこしくなることが予想されたので、黙っておくことにした。
晩御飯は母さんが作った。小ぶりな豚のヒレカツと、キャベツの千切りだった。どこからか猫がやってきていて、おじいちゃんの肩に前足を引っかけて立ち、エサを要求した。おじいちゃんはヒレカツの衣を剥いで、手のひらの上に小さなかけらを乗せた。猫は匂いを嗅いでから口に入れ、アゴを大きく動かしてそれを食べた。でも食べ終わるなり部屋の隅へ行って、カエルみたいな鳴き声を上げ始めた。それから全身をガクガク震わせて、胃の中のものを吐いてしまった。おじいちゃんはすぐにティッシュを持ってきて、それを片付けた。病気なの、とタカシは聞いた。食べられなかっただけで、どこも悪くはないんだよ、とおじいちゃんは答えた。そして猫の方を見て、悪かったな、と言った。
その日は早めに眠りについた。夜中に目を覚ますと、少しの混乱があった。僕は見覚えのない場所の、見覚えのない布団で寝ていた。家の中のどこかで、誰かが苦しそうに咳をした。おじいちゃんの顔が思い浮かんだ。それで母さんの実家に来ていることを思い出した。蒸し暑かったけど、クーラーのタイマー設定をやりなおすのは面倒だったので、その代わりに障子を開け放った。用を足して戻ってくると、縁側のところにあの猫が来ていた。猫は部屋に入ろうともせず、瞳孔を大きく開いて、じっと中を見つめていた。その視線の先には、ただ暗闇だけがあった。おそるおそる確かめてみたけど、部屋の中にはこれといった変化はなかった。僕はため息をつき、振り返って縁側の方を見た。その時にはもう、猫はいなくなっていた。そして二度と戻ってはこなかった。僕は諦めて布団へ入った。なんだか猫のことが気になってしまって、なかなか寝つけなかった。