執事の本懐 ※エディル視点
リディウス侯爵家の庭の一角、ツツジが咲き乱れる西の噴水の奥に、使用人のための別邸がある。
いわゆる独身寮のようになっていて、エディル・ガーナがその建物へ足を踏み入れるのは、実に十年ぶりだった。
かつて自身が使っていた部屋の前で立ち止まり、静かにノックをすると、どうぞ、という無機質な声が聞こえた。
「……エディル様。何かありましたか?」
顔を上げ、一瞬怪訝そうな表情をしたものの、すぐまた机上に視線を戻す息子に苦笑する。
十歳の時に初めてここへ連れてきた時の面影は最早ない。可愛げがないくらい立派な従者となったライルを、エディルは誇らしいとともに不安にも感じていた。
「今は私しかいないのだから父でいい」
「そういうわけにはいきません。ここはリディウス侯爵家の敷地内ですから」
机の上には分厚い本が何冊も積み上げられていて、ライルは複数の本を丹念に目で追ったりパラパラとめくったりしながら、何やら大量の文字を羊皮紙に書き連ねている。
「入学試験まで時間がありません。何か要件があるなら手短にお願いします」
「……少し頑張りすぎではないか。セリアも心配している」
「入学するだけではなく、首席で卒業したいので」
ライルの母であるセリアの名前を出したが、エディルの目にこそ心配の色が浮かんでいた。
初めて自身の個室に父親が来たというのに、手を休めないどころか視線すら寄越さない息子からは、やはり何かに追われているような切迫感を感じる。
「ロゼリアお嬢様ともほとんど会話していないと聞いた。以前のようにライルと会えず寂しいと、涙を流されていたそうだ。
そんなに必死にならずとも、元々リガシュタインは15歳以上で入学するものだ。来年や再来年の試験に合わせても遅くはないだろう?」
ロゼリア、という名前にぴくりと反応したライルは、ようやく顔を上げた。
「……そもそも今までが異常だったのです。令嬢と使用人という立場の年頃の男女が、日中ずっと一緒にいたり、頻繁に二人きりになったりするようでは、間違いが起こっても仕方がありません。お嬢様は現時点では王太子妃なのですから、尚更周囲は気を使うべきでは?」
ぐうの音も出ない正論に閉口する。現時点では、という言い回しには引っ掛かりを覚えるが、概ねその通りだ。
十三歳でここまで自身を俯瞰できるものだろうかと、なんとも言えない気持ちになる。
「──ライルはすっかり大人になってしまったな。私がお前くらいの時には、まだ働いてもいなかったし、世間知らずで純朴な少年だったというのに」
「僕もあの日お嬢様に会っていなかったらそうだったでしょうね。この二年半、お嬢様の意地悪に散々付き合わされましたから、多少は捻くれたとしても許してください」
エディルの感傷を気に止めることもなく、ライルは再び本に目を落とし、ペンを走らせ始めた。
その息子らしくない台詞にエディルは片眉をあげる。ロゼリアがライルを弟のように可愛がり、専用従者として重用しているのは、エディルもよく知るところだ。
「あんなに綺麗な令嬢に優しくされて、特別扱いされて、どこへ行くにも常に一緒で。結婚できるわけでもないのに思わせぶりな態度ばかり取られて。むしろ僕の性格が多少捻くれた程度で済んでいるのだから感謝して欲しいくらいです」
無理矢理お嬢様をモノにすることもできたがそうしなかったのだ、という意を言外に受け取って、エディルはごくりと唾を飲み込む。
ライルがお嬢様に恋心を抱いているのでは、と危惧していたが、まさかここまで執着していたとは。
邸での純粋な少年のような振る舞いを見て、外面を整えることを分かってきたようだと思っていたが、自分自身まで騙されているとは思いもしなかった。
「エディル様。僕はリガシュタインを首席で卒業し、侯爵家を、引いては宰相職を継ぎます。そして在学中に僕の持てる全ての方法を尽くしてお嬢様の婚約を解消させ、僕と結婚してもらいます」
「はっ!?」
「そのためには必ず今年度に入学しなければなりません。入学時のテストで首位を取ることも必須です。僕には時間がない。何か他に言いたいことはありますか?」
エディルは息子を穴が開くほど見つめたあと、緩やかに首を振った。
「……しっかりしていると思ったが、やはりまだ子供のようだ。次期侯爵になったとして、お嬢様と結婚することは──」
「難しいのは重々承知しています。ただ、僕にも子供なりの矜持があります。
僕をこれだけお嬢様に近づけたのも、この距離感を黙認したのも、侯爵様が僕とお嬢様を結婚させるつもりだったからでしょう。それが、お嬢様が王太子の婚約者になったから全て忘れろと? 人の気持ちはそれほど単純ではありません。
申し訳ありませんが、僕は僕の気が済むようにやらせていただきます。侯爵家に被害が及ぶことは、出来るだけないようにしますので」
無表情で淡々と話しているが、言葉の端々から怒りが滲み出ている。
初めて見る成長した息子の静かな激情に、エディルは戸惑いとともに嬉しさも感じていた。
小さな頃から聡い子ではあったが、侯爵家に行ってからは、感情すらもコントロールし真意を見せないようになった。そんな息子を心配する一方で、何を考えているのか分からない不安も感じていたのだ。
しかし今、ライルの本音を聞き、ようやく本当の息子に触れた気がした。
「……執事エディルとしては、とても賛成することはできない。しかし父親として、お前の意思を尊重したい。何か必要なことがあれば、いつでも言いなさい。協力しよう」
ライルは驚いたように顔を上げた。
そして、いつもの心情を感じさせない綺麗な笑みではなく、悪巧みをする少年のような悪戯っぽい笑みを見せた。
その表情に、エディルは久しく忘れていた、幼い頃の息子の性格を思い出す。
そうだ、この子は昔から頑固で狡猾で、言い出したことは絶対に曲げない。どんな手を使ってもやりたいことを成し遂げる子だったと。
「感謝します。父上」
そして再び書物に目を落としたライルを残し、エディルは部屋を出た。
十一歳で家を出てから、一気に成長し別人のようになった息子。周りからどれだけ褒められても、拭いきれない一抹の寂しさがあった。
しかしやはり根底は変わらずあの子のままなのだと、エディルは苦笑しつつも、胸の中には温かいものを感じていた。




