悪役令嬢は感謝する
前世を思い出した私は、自分がいわゆる悪役令嬢であると気づき、狂喜乱舞した。
ロゼリア・リディウス。
この国の宰相を務めるリディウス侯爵の一人娘にして、王太子の婚約者である。
そして前世で読んだ小説の通りなら、ロゼリアはヒロインに悪虐の限りを尽くした罪で、王太子から婚約破棄され王都追放に処される。
一般的にはバッドエンドであるその顛末は、私にとってはハッピーエンドでしかなかった。
もし本当にこの筋書き通り事が進んでくれるなら、今まで悩んできた問題は全て解決する。
特に「もう死なない程度に大怪我するしかない」という結論に達していた王太子との婚約解消問題。
リディウス侯爵家に迷惑をかけず円満に婚約解消するには、もはや五体満足なんて言ってられないとまで思っていたのに。
それがまさか、王太子本人が勝手に恋をしてくれて解決するなんて。
願ってもない未来に、私は前世でどれだけ徳を積んだのかと恐ろしくすらなる。
「お嬢様」
神に感謝の祈りを捧げていると、柔らかなノックが響き、澄んだ優しい声が聞こえた。
慌てて身だしなみを整え、どうぞと促すと、ミルクティー色のさらさらな髪を一つにまとめた美しい少年が、一礼し室内に入ってきた。
私とほとんど変わらない身長で、華奢だけれど男の子らしいしっかりした体躯の彼は、ただティーセットを持って歩いているだけなのに驚くほど優雅だ。黒の従者着がよく似合っている。
「今日はラズベリーリーフティーをお持ちしました」
柔らかそうな前髪がさらりと流れて、間からとろけるような蜂蜜色の瞳が覗く。
ふわりと微笑む彼──私の専属従者であるライルは、まさに天使だ。
元々の顔の造作が整っているだけでなく、その笑顔には穢れなき純粋さがあって、こちらの心までほっとさせてくれる。
テーブルにカップを置くだけのその所作も、洗練されたように優雅で無駄がない。
「いつもありがとう」
ライルにこうしてお世話をしてもらえて、優しく微笑んでもらえて会話ができる。
私はなんて幸せ者なのかと毎日思う。
私が自らの健康と引き換えてでも王太子との婚約を白紙に戻したかったのは、とにかく彼と離れたくないというその気持ちが全てだった。
いつもこの時間に暖かい飲み物を持ってきてくれるライル。
私は、専属従者である彼に、密かに恋をしていた。
「はい。お嬢様もゆっくりお休みください。──夜更かしはだめですよ?」
悪戯っぽく微笑むライルに、顔が赤くなる。そんな表情も尊い。本当に好きだ。
「あの、ちょっと、考えないといけないことがあって」
「では、せめて暖かくしてください。六月といえど、まだ夜は冷えますから」
あっさりそう言って、ライルは私の膝にブランケットを掛けてくれた。
いいの? と目で尋ねると、ライルは内緒にしますと言うように人差し指を唇にあて、微笑んだ。
「できれば僕も力になれるといいのですが。……一緒に考えることはできませんか?」
「う、えっと、もうちょっとしたら、話すね」
「……そうですか」
ライルは寂しそうに顔を伏せる。悲しそうな眼は子犬のようで、思わず全てを話してしまいたくなるが、さすがにこればかりは打ち明けられない。
ここは小説の中の世界とか言い出したら、いくら優しいライルでも私を狂人認定するだろう。
「では、お嬢様が話してくれるのを待ちます。もし僕にできることがあったら、何でも遠慮なく言ってくださいね?」
ライルは就寝の挨拶をすると、一礼して身を翻しドアの方へ向かった。私が綺麗だと褒めてからずっと伸ばしてくれている髪がふわりとなびく。
その全てを目に焼き付けながら、ライルが退出し、ドアが閉まるまで見送った瞬間、私は我慢できず机に突っ伏した。
「はぁ……、尊い」
ライルの髪も目も綺麗な手も洗練された所作も天使のような性格も産毛に至るまで、ライルを構成するもの全てが尊い。
もしもライルに好きになってもらえたら、恋人になれたらどんなに幸せだろうか。
もう何度目になるか分からないその問いを繰り返しながら、ようやく少し冷静になった私は、気持ちを切り替えた。
改めて思い出せる限りの小説の内容を反芻し、今後自分が取るべき行動を考える。
状況は思った以上に整っている。王太子との婚約どころか、上手くすればそれ以上の望みも叶ってしまう気がする。
え、これ、ライルと結婚できるのでは?
はやる気持ちを抑え、ライルが淹れてくれた紅茶を片手に、デスクへ移動した。
羽ペンを取り出して思い出せるだけの記憶を書き付け、今の状況と併せて頭の中を整理していく。
現時点で最も重要な問題は二点。
私が王太子の婚約者であることと、ライルと私の身分が違うということだ。
ライルはリディウス侯爵家に代々仕える名家の出で、中流階級に位置するが、爵位はなく貴族ではない。
そのため、侯爵家令嬢と一使用人という今の立場では身分差がありすぎて、結婚どころか想いを打ち明けることすら不可能だった。
しかし。
今後ストーリーが順当に進めば、私は三ヶ月後に入学する貴族学園で、ヒロインの虜となった王太子に婚約破棄される。
王都追放自体は領地に引っ込んでいればいいので問題ないが、侯爵家の体面を考えると回避しておきたい。家族だけではなく、ライルを含めた使用人や領民にも迷惑が掛かってしまうからだ。
できれば、王太子とヒロインを応援し、こちらが身を引く形で円満に婚約解消という形を取りたい。
そもそもこの婚約は、小説とは違い王家からの打診によるものだ。
本家ロゼリアは王太子妃にひどく憧れていたが、私は王族になど全く興味はない。
当然王太子にも会ったことすらないのに、なぜか勝手に婚約者にされてしまった。
おそらく、宰相であり中立派の父を王太子の後ろ盾にしたかったのだろうが、向こうからの打診である以上、こちらに非がない状態での婚約解消は、侯爵家から王家への大きな貸しになる。
おそらく見返りになにが欲しいかと問われるはずだ。そこでライルに爵位を与えてほしいと頼めば、身分差問題は解決し、私はライルに告白することができる。
もちろん事前にライルの承諾を得るのは必須条件だが、ライルは以前どうすれば爵位が手に入るのかを熱心に調べていたので、きっと頷いてくれる、と思いたい。
書き上げた計画書を見てうんうんと頷くと、引き出しの奥にそっと仕舞った。
一息つこうとライルが入れてくれた紅茶を飲むと、優しい甘みがじんわりと広がる。
蜂蜜が入っているのかもしれない、と思い、ライルの綺麗な金色の瞳を思い出した。
「……ライルに好きになってもらうには、どうしたらいいんだろう」
婚約者問題も身分差問題も解決したが、一番難しいのはライルの心を手に入れることだ。
そもそも私を恋愛対象として見てもらうことが非常に難しい。
ライルは恐ろしく忠誠心が高いため、主従関係は良好だが、あくまで私を主人としてしか見ていない。
みんなに優しく平等な、そんなライルの特別になるのは本当に難しいことなのだ。
ベッドに横になり、枕の下に手を入れると、つるりとした石が触れた。
必要以上に宝石を身につけない私が、唯一お父様におねだりして買ってもらったトパーズの原石。
少しオレンジがかったその色は、ライルの瞳のようで、思わず一目惚れしてしまった。
ライルが同年代の女の子に人気があるのは知っている。見目が美しいだけではなく、気品があり、聡明で、仕事もできるのだから当然だ。
そのうちご両親が家柄に見合ったご令嬢を紹介することもあるかもしれない。
今は恋人も好きな人もいないように見えるけれど、リディウス家には侍女やメイドもたくさんいる。今はみんなライルより年上だけれど、そのうちライルが大きくなったら恋愛関係になることもあるかもしれない。
ライルの隣に見知らぬ誰かが立つ姿を想像するたびに、胸がずきりと痛む。
今までは王太子との婚約をなんとかするのが先だと言い訳して、ライルにアピールも何もしてこなかった。
それが解決すると分かった今、ライルに私を主人ではなく女の子として見てもらい、好きになってもらえるように頑張りたい。
ライルに可愛いと思ってもらいたくて、日々髪や肌の手入れを怠らず、賢いと思ってもらいたくて、知識や作法を学んできた。
主従関係がある以上好きになってもらうのは無理なのかもしれない。それでも、諦めたくなかった。
ライルの瞳のような琥珀色の石を眺めながら、その優しい微笑みが私だけに向けられることを願い、私は眠りについた。