夏祭りの恋人「二」
皆さんこんにちは、休日は昨日で終わり、地獄の毎日の始まりです。
そしてこの作品では夏祭り当日になりました。
この作品において最後の山場の日の始まりです。
この作品の終わりはあと数日間ほどですが、お付き合いいただければ幸いです。
花火大会当日──集合。
「ごめん、待ったか?」
橋の欄干に体を預けて待ち合わせをしていた内海の目に飛び込んできたのは、千尋の妖艶な浴衣姿だった。
(こ、これは──ッ⁉)
その幼い白い肌を包むのは薄い黄色を基調とした浴衣である。描かれているひまわりの花も相まって、小山内千尋の「らしさ」というものを引き出している。赤い色の帯も千尋に眠る熱い感情を表しているようで……。
それに加わるは、袖口から見える肌だ。完全に露出しているわけではなく、腕を動かすたびにほんのちょっとだけちらっと見える白魚のような肌が、内海を興奮させる。
どれもこれも自身の気持ちをようやく自覚し始めた内海にとって効果抜群の毒でしかなかった。千尋の姿は本当に薬にも毒にもなる。
「すごい。かわいい。似合ってる」
褒め言葉のレパートリーの乏しさに、自分のことが情けなく思えてしまう。だが、今はそんな雑念など脳の片隅にすら入る余地もない。
「え……」
ボンっと、火山が噴火したように千尋の頬が真っ赤に染まった。
「そ、そうか?」
その感情を表すように、浴衣に合うリボンで結ばれたサイドポニーがぴょんぴょんと揺れる。かっこかわいい千尋は好きだが、内海も男子だ、かわいいに極振りした姿のほうが好みに決まっている。
パシャッ。
「写真撮ってもいいか?」
「いや、もう撮っただろ!」
ふと手元を見てみると、内海の手にはスマートフォンが握られていた。液晶画面には自分が撮ったのかと疑ってしまいそうになるほどのベストショットが映っている。
黄色い浴衣を着た千尋は写真に収めてもその輝きが曇ることはなく、恥ずかしそうな表情を浮かべるその頬は世界と同じ紅に染まっていた。
(くそ、かわいいな)
語彙力のかけらもない感想を抱く内海だが、その右親指は止まることなく、スマートフォンをタップし、シャッターを切り続けている。
「ちょ、ま。撮り過ぎだって!」
「ああ、ごめんごめん。かわいすぎたからさ。あっ」
そう口に出したときにはもう遅い。
ぼん。内海の目にはゆでだこのようになった千尋が映っていた。
まだスマートフォンの画面を向けていたが、さすがにここまで羞恥で真っ赤になっている千尋を(いくら、かわいすぎるとは言ってもだ)、ハッキングされやすいスマートフォンに収めるのは、内海のプライドが許さない。
代わりにまばたきのたびに幸せを感じられるように、まぶたの裏に焼き付けることにしたのは千尋には内緒だ。
まばたき。まぶたの裏に目を閉じる前と同じ光景が広がり、ついつい頬がゆるゆるになってしまう。
(ああ、これぞ。幸せ……)
内海裕幸。
最近、小山内千尋に対して変態的行動が多くなっているのだが、お巡りさんが見たら逮捕不可避な状態であることをそろそろ自覚すべきである。
*
花火大会当日──集合──テイク2。
「隼くん、どうかな?」
リビングに降り立った女神は、恥ずかしそうにちらちらとこちらを見ながら、蚊の鳴くような小さな声でそう聞いてきた。
隼の視界に映るのは愛するただ一人の姉の姿だけだった。
紺色の生地に白百合の花柄があしらわれた浴衣をまとい、白色の帯を結んだ優は、その節々から清廉なオーラを醸し出していて、贔屓目に行っても女神という表現しか似合わないだろう。しかしながら、清楚な雰囲気のなかにある微かな色気があるのを隼は見逃さなかった。
ゴクリ。知らず知らずのうちに喉を鳴らしていたことにも驚きだが、隼の脳みそはドロドロに溶け切ってそれどころではない。
「すごく。きれいだよ」
心の底から、そう思う。交際を始めてからまだ一か月ほどしか経っていないとはいえ、その想いの長さは十一年である。恋人として初めて見る優の浴衣姿に隼の胸もドキドキしている。昔からの癖で表情に出さないことに成功しているものの、本来なら目を見開いてハアハアと息をしていたに違いない。意地でもしたくない。
「ありがとう。隼くんもその……かっこいいよ」
トゥンク。
女心を理解するために読み始めた漫画に倣えば、隼の心はまさにそんな感じだった。言われ慣れているはずの言葉なのに、心臓は高鳴り、頬は紅潮しそうになってしまっている。あの遊園地での告白がなければ、どれもこれも味わえなかったはずの感情だ。
「そ、それじゃあ、行こうか?」
言葉を発してみるとまったくもって動揺を隠しきれていなかったが、優はただ小さく微笑んで、そっと体を寄せてきた。
鼻腔に感じる女の子特有の甘い香りに、布越しでも伝わってくる体温。どこか安心するような、心の底からすべてを預けてしまいそうになる心地のよさに、いつの間にか心臓の高鳴りは収まっていた。
しばらくして、優の体が離れていったことで一抹の寂しさを覚えたが、そんな隼に優はいたずらっぽく笑って、
「隼くん、行こう」
…………………………。
ハッ。
意識が現世に戻ってきたときには、リビングにはもうすでに優の姿はなく、慌てて玄関のほうに向かうと、ルンルンとした様子でゲタを履いていた。浴衣だからなのかポニーテールにした髪が感情を表すようにぴょんぴょんと動いている。
「ちょっと待ってよ、姉さん」
「ごめんごめん。それじゃあ」
すぐに横に並んでスニーカーを履くと、どちらからともなく手を繋ぎ、足並みをそろえて、歩き出した。
近所の人は早めに出かけたのか、歩く道には人の気配が驚くほどなかった。外に出ても優の纏う浴衣の魅力が減衰するということもなく、むしろ紅の世界では優はどこか特別な存在にも見えてきた。とても魅力的だった。
そんな魅力が、隼を立ち止まらせたのかもしれない。脈略なんてみじんも感じず、急にピタッと止まった。そして流れるように言葉を紡いだ。
「姉さん、いや優」
優のことをそう呼ぶのは、「姉」ではなく「恋人」としての会話をするという隼なりの気持ちの切り替え方法である。もちろんそれは優も知っていることで、だからこそ、
「? どうしたの?」
優はこてんと首をかしげて、うかがうような視線でこちらを見ている。
(これを言うのは今じゃないかもしれないけど。でも今なら言える気がする)
普段通りの隼であったなら話は別だが、過度に緊張していないこの万全の状態でなら、ヘタレずに伝えられるはずである。
そして。
そっと舌で唇を湿らし、ただ静かに覚悟を決めて、小日向隼は言葉を発した。
「今度、母さんと義父さんに会いに行こう。僕たちのことを伝えに行こう」
そうして出た言葉はしんとした世界に確かに響き、空気を震わせた。その振動はもちろん優に届いたと思う。
視線のなかにいる優はしばらくの間目を見開き固まっていただけだったが、何度も何度も頭のなかで反芻してくれたのだろう、やがてその顔を子供のころのような純真無垢な最高の笑顔に変えて、
「うん、わかった」
と、かわいらしくも女神のように頷いてくれた。
それ自体はとても嬉しかったのだが、隼も優もこの気恥ずかしい雰囲気に、数分間言葉を交えることすらできなくなっていた。もはや顔が赤いのは夕日のせいだけではないだろう。
小日向隼と小日向優。
二人が、今とは違う関係で家族になる日も近いのかもしれない。
*
花火大会当日──集合──テイク3。
すべての個々を消し去るような駅前広場の雑踏のなか、星見桃花は白地に赤いガーベラの花模様をあしらった浴衣を着て、恋人、夜野愛梨を待っていた。
「誰かが来るのを待つ」という行為はあまり得意ではない桃花も、愛する人を待つということであれば、いくらでもできてしまうだろう。そんなことを、スマートフォンを意味もなくいじりながら考えていると、
「桃花、お待たせ」
空気の圧が一瞬で変わったのがわかった。完全にしんとはしていないものの、明らかに周辺の空気は一変していた。
顔を上げて確認するまでもなく、こんなに存在だけで空気を変えてしまえる少女を桃花は一人しか知らない。
「ううん、全然待ってないよ。愛……梨──ッ⁉」
ちっとも遅れていないことを──むしろ二人とも約束の時間には十分すぎるほどに早い──伝えようとした桃花が顔を上げると、眼前には超近距離の愛梨の顔があった。桃花がわけもわからず固まっていると、徐々に愛梨の顔が近づいてきて──。
「え、ちょ、ま──ッ⁉」
こつん。
鼻先に温かい感触と、愛梨特有の心に染み渡るような優しい香りに桃花は目を丸くすることしかできなかった。
「うん、今日もかわいい」
そう言ってにっこり微笑んだ愛梨に桃花の顔は鉄球でも熱するように熱く赤くなっていく。
「愛梨、人が見てる。ちょ、ちょっとだけ、離れよ?」
視線を軽く横に動かせば、こちらに注目している人が多数いる。ほんのり顔を赤く染めて顔を背けている人もいれば、目に手を当てて、おそらく指の間から見ているだろう人もいる。もちろんそのままガン見している人もいた。
見られているという事実に羞恥の感情でさらに顔が赤くなっていく。漫画的表現を使えば、軽い爆発音とともに頭の上に湯気が立っているようなものだ。
「もう、しょうがないな」
いたずらが成功した子供のようににやにやとした表情で離れていく愛梨の姿に、ほんの少しときめいてしまったことは、桃花だけの内緒である。
ともあれ。
「愛梨、その恰好……」
「う、うん、どうかな?」
薄い桃色にほんの少しの紫のチューリップの柄で整え、赤寄りの桃色の帯で締めていた。ちなみに一緒にショッピングモールで買ったということもあって、桃花の帯とお揃いである。
「すごくかわいい。去年見たのよりもずっと、かわいい」
去年着ていたものは着ていたもので似合っていたが、今日のものは愛梨そのものの美しさにベストマッチしていると言っても過言ではないだろう。
「あ、ありがとう」
パーティーなどでは褒められても微笑を浮かべるだけにとどめているらしい愛梨も、この場では褒められたことにしっかりと照れてくれる。自分だけに見せてくれるという特別感に行けないなと思いつつも喜んでしまっている桃花だった。
「愛梨、その……大丈夫だった?」
愛梨の家庭事情についてわざわざ深くまで踏み込もうとはしてこなかった桃花だが、自分と付き合うことを愛梨の父親が快く思っていないことくらいは知っている。一昨日の電話で「もしかしたら行けないかもしれない」なんて弱音を漏らしていたのが桃花のなかで印象的だった。不仲というわけではないと信じたいが、電話の反応からすると少なくとも良好ではないのだろう。
「大丈夫って言いきれないけど、ちゃんと来れたよ?」
口ではそう言っていても、愛梨の表情は不安げなそれであった。さすがの桃花もこんな表情をされればなんとなく察しがつくというものだ。
「それって、抜け出してきたってことだよね?」
「………………」
「愛梨、ねえ、目を逸らさないで」
「大丈夫だとは思うよ? 抜け出してきたのは知られていないはずだから……」
なんてテンポのいい小説みたいな会話を続けているものの、「抜け出してきた」という桃花の表現もあながち間違えていないのだろう。桃花が認識している以上に夜野愛梨という少女は大事に、大切に育てられてきたのだ。
「まあ、愛梨がそう言うなら……」
自分の恋人の言葉を全面的に信用することにしているので、結局のところ桃花の疑問は解決されることもなく、棄却──むしろ放置に近いかもしれない──されたのだった。
という大義名分とも呼べないものを掲げてはいるが、
(まあ、ただ単に一年になんかも見れないような格好の愛梨と離れたくないだけなんだけどね)
本音としては、一秒でも長くという思いだけだった。
「ねえ、桃花、そろそろ行こ?」
いかにもウキウキといった表情でちらちらとうかがうような視線を向けてくる愛しの君に、改めて惚れ直したりしながら、桃花の左手はぎゅっと愛梨の小さくて汚れない純白の右手を握ったのだった。もちろん指を絡ませて。
「うん、行こっか!」
星見桃花と夜野愛梨。
周囲からの優しく見守るような視線にほんのりと顔を赤くしながらも、確かに二人は幸せそうな表情を浮かべていたのだった。